大塩地区は、東松島市役所の西北西約4kmのところ
県道204号線沿いに参道を南に開いて新山神社が鎮座します
参道入口の鳥居脇に車を止めさせて頂きました
参道入口鳥居です
茅の輪の潜り方の説明書きです、説明書きの通りに茅の輪を潜りました
神社の絵図と由緒書きが有りますが金網でよく分かりませんね(拝殿前にも由緒書が有りますので後ほど)
説明板です
新山神社
寛治5年(1091)後三年の役、源義家に従軍して来た鎌倉権五郎平影政が、この地を通り、新山大権現に戦勝を祈願し、後に戦功によって義家より深谷郷((矢本、河南、鳴瀬)を賜った。平影政は戦勝の報告と奉賛の意をもって、社殿の造営をし、社領等を寄進し、文治年中に長江氏が社殿を再造営したと伝えられている。
明治2年(1869)新山神社と改められ、祭神に桓武天皇の第五皇女大宅内親王を奉斎している。
平成6年3月1日
矢本町教育委員会
参道を進みましょう
楼門が見えて来ました
楼門を潜ると石段の先に新しい拝殿が見えています
手水舎です
拝殿です
本殿は覆屋の中です
由緒書きです
新山神社由緒
御祭神は、激動の人生を送るも、この地で人々の優しさに触れ、鎮守神となった桓武天皇(在位781~806年)の第五皇女(大宅内親王)である。内親王を祀る神社は数少なく、その神紋は皇室に由来する十六葉菊花紋とする。
内親王(姫宮)とその兄宮は、平安京の政争から逃れ、途中で免れる憂き目に遭うが、姫宮だけはこの地にたどり着いた。大窪や塩入、矢本などを巡り、小野村の名主に宿を頼んだ、臼の上に戸板を敷いて眠りにつくと、不思議にも身体が光り輝いている。名主はすぐに国司に上申し、館を用意してもてなした。姫宮はたいそう喜び、兄を思慕しつつ、短い生涯を終えたのだった。兄宮は妹を探し続け、この地を訪れるが、すでに天に昇っていることを知り、出家を決意。今の澗洞院を開いたと伝えられている。
その後、小野村の名主に「姫宮が大窪山へ飛んでいき、そこにお座りになった」とお告げがあった。名主が見に行くと、大木の上がこうこうと光り輝いている。この大木の地に、姫宮を新山大権現としてお祀りするようになった。
長い歴史の中で社殿の再建や修理が、人々の協力を得て絶えず続いている。平安時代の後期、後三年の役では、武勇の誉れ高い鎌倉権五郎・平影政が戦勝を祈願。見事勝利を収め、寛治5年(1091年)に社殿を再建し、領地を寄進した。
慶安5年(1652年)の修理では、仙台藩二代藩主の伊達忠宗より材木が下された。また平成28年(2016年)の火災で社殿が全焼した時は、地域の篤信により、早くも翌年に再建された。
祭日 1月 1日 元旦祭
4月17日 春季例大祭
10月17日 宵祭り(湯立神事)
18日 秋季例大祭
11月23日 新嘗祭
末社 秋葉社
愛宕社
平成の再建記念碑です、火災の原因は不審火とありますので不明の様です
社殿周りのスギも焼けてしまったのか、切株が並んでいました
境内参道西側に目的の老杉です
北側拝殿脇から
北西側から、目通り幹囲5.6mの巨木です、姫宮が飛んでいって座ったのがこの木でしょうか、だとすると樹齢1200年以上でしょうか、なんて考えて見ました
境内東側から
天然記念物標柱です
御堂です
では、次へ行きましょう
県道204号線沿いに参道を南に開いて新山神社が鎮座します
参道入口の鳥居脇に車を止めさせて頂きました
参道入口鳥居です
茅の輪の潜り方の説明書きです、説明書きの通りに茅の輪を潜りました
神社の絵図と由緒書きが有りますが金網でよく分かりませんね(拝殿前にも由緒書が有りますので後ほど)
説明板です
新山神社
寛治5年(1091)後三年の役、源義家に従軍して来た鎌倉権五郎平影政が、この地を通り、新山大権現に戦勝を祈願し、後に戦功によって義家より深谷郷((矢本、河南、鳴瀬)を賜った。平影政は戦勝の報告と奉賛の意をもって、社殿の造営をし、社領等を寄進し、文治年中に長江氏が社殿を再造営したと伝えられている。
明治2年(1869)新山神社と改められ、祭神に桓武天皇の第五皇女大宅内親王を奉斎している。
平成6年3月1日
矢本町教育委員会
参道を進みましょう
楼門が見えて来ました
楼門を潜ると石段の先に新しい拝殿が見えています
手水舎です
拝殿です
本殿は覆屋の中です
由緒書きです
新山神社由緒
御祭神は、激動の人生を送るも、この地で人々の優しさに触れ、鎮守神となった桓武天皇(在位781~806年)の第五皇女(大宅内親王)である。内親王を祀る神社は数少なく、その神紋は皇室に由来する十六葉菊花紋とする。
内親王(姫宮)とその兄宮は、平安京の政争から逃れ、途中で免れる憂き目に遭うが、姫宮だけはこの地にたどり着いた。大窪や塩入、矢本などを巡り、小野村の名主に宿を頼んだ、臼の上に戸板を敷いて眠りにつくと、不思議にも身体が光り輝いている。名主はすぐに国司に上申し、館を用意してもてなした。姫宮はたいそう喜び、兄を思慕しつつ、短い生涯を終えたのだった。兄宮は妹を探し続け、この地を訪れるが、すでに天に昇っていることを知り、出家を決意。今の澗洞院を開いたと伝えられている。
その後、小野村の名主に「姫宮が大窪山へ飛んでいき、そこにお座りになった」とお告げがあった。名主が見に行くと、大木の上がこうこうと光り輝いている。この大木の地に、姫宮を新山大権現としてお祀りするようになった。
長い歴史の中で社殿の再建や修理が、人々の協力を得て絶えず続いている。平安時代の後期、後三年の役では、武勇の誉れ高い鎌倉権五郎・平影政が戦勝を祈願。見事勝利を収め、寛治5年(1091年)に社殿を再建し、領地を寄進した。
慶安5年(1652年)の修理では、仙台藩二代藩主の伊達忠宗より材木が下された。また平成28年(2016年)の火災で社殿が全焼した時は、地域の篤信により、早くも翌年に再建された。
祭日 1月 1日 元旦祭
4月17日 春季例大祭
10月17日 宵祭り(湯立神事)
18日 秋季例大祭
11月23日 新嘗祭
末社 秋葉社
愛宕社
平成の再建記念碑です、火災の原因は不審火とありますので不明の様です
社殿周りのスギも焼けてしまったのか、切株が並んでいました
境内参道西側に目的の老杉です
北側拝殿脇から
北西側から、目通り幹囲5.6mの巨木です、姫宮が飛んでいって座ったのがこの木でしょうか、だとすると樹齢1200年以上でしょうか、なんて考えて見ました
境内東側から
天然記念物標柱です
御堂です
では、次へ行きましょう