城内町は、佐倉市役所の直ぐ西側、かつての佐倉城の址です、また、国立歴史民俗博物館が建っています
佐倉市役所から国道296号線線を北西に坂道を下って「歴史博物館」信号を左(南西)へ坂道を上り返します
愛宕坂と呼ばれる城跡への坂道を上って、歴博の第一駐車場に車を止めることが出来ました
駐車場の北総エリア観光ガイドです
城址公園案内図です、目的の夫婦モッコクは本丸跡に在ります
第二駐車場への道路を進みましょう
(この日は第二駐車場が開いていたので、素直に第二駐車場に入った方が良かったかな~)
第二駐車場(左手)前を南西へ
椎木門跡の説明版です
空堀前に佐倉城址公園の大きな看板と案内板です
空堀跡説明版です、北側には深い空堀があるようですが、木々で見えません
二の丸への入り口に堀田正睦公像です
説明版です
アメリカ総領事ハリス像です
説明版です
北西へ進みます
二の門址説明版です
正岡子規の句碑です
説明版には、「常盤木や 冬されまさる 城の跡」
明治期における俳句・小説・文芸評論・写生画などに活躍した正岡子規(1867~1902)は、1894(明治27)年12月、本所駅(現錦糸町駅)~佐倉駅間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れています。
子規は総武鉄道佐倉駅(現JR佐倉駅)より、まず佐倉の街の広がる「馬の背」のような台地を眺め「霜枯の 佐倉見上ぐる 野道かな」を読んでいます。
現在の表町・新町方面より、日清戦争における清国人の捕虜収容所となっていた海隣寺の前を通っています。
その後海隣寺坂(現市役所脇の坂)を下り、田町を抜け、田町の堀付近(現歴博下水堀付近)で城を眺め、この句を詠み、もとの道を佐倉駅へ引き返しています。
子規は佐倉の麻賀多神社で幼少期を過ごした鋳金工芸作家の香取秀真や佐倉藩士であり佐倉で幼少青年期を過ごした洋画家の浅井忠とも親交がありました。
「霜枯の 佐倉見上ぐる 野道かな」の句碑は、JR佐倉前城南橋付近にあります。
平成27年12月 佐倉市役所 産業振興課
本丸入口です
一の門址の説明版です
北側の土塁です
土塁の説明版です
北側の土塁に沿う様に
西側へ行ってみます
目的の夫婦モッコクですが・・・
向って右側にあった太い幹が伐られてしまっています、伐られたばかりのようです
切り口にはまだ新しい木の欠片が残っています
説明版です
千葉県指定天然記念物
佐倉城の夫婦モッコク
昭和27年11月3日指定
モッコクは清澄山より東海道以西・四国・九州の近海地に自生する小喬木である。
本樹は、もともと2株植えられたもののうち、1株が夫婦モッコクとなったものか、3株寄植えしたもののうち2株が癒合してできたものか、明らかでない。
樹高11.6m、目通り幹囲2.6mで、モッコクとしては巨木である。
佐倉城の築城については、「土井利勝が慶長16年(1611)から元和3年(1617)まで7年をかけて完成し規模こそ小さくとも本丸等に種々の庭木を植え雄大な風格をしめした」との伝えがある。
このモッコクは庭樹の一つであったと考えられている。佐倉市松林寺境内にも巨木が所在する。
昭和57年2月11日 千葉県教育委員会・佐倉市教育委員会
砲隊の落書きが残ってましたが・・・
東側からみましたが、残念です
このブログの2013年5月24日の「佐倉城址へ行って来ました」の記事の中で「夫婦モッコク」を紹介していました、伐られてしまった幹に落書きが残っていた写真が有りますので見てみて下さいね
では、次へ行きましょう
佐倉市役所から国道296号線線を北西に坂道を下って「歴史博物館」信号を左(南西)へ坂道を上り返します
愛宕坂と呼ばれる城跡への坂道を上って、歴博の第一駐車場に車を止めることが出来ました
駐車場の北総エリア観光ガイドです
城址公園案内図です、目的の夫婦モッコクは本丸跡に在ります
第二駐車場への道路を進みましょう
(この日は第二駐車場が開いていたので、素直に第二駐車場に入った方が良かったかな~)
第二駐車場(左手)前を南西へ
椎木門跡の説明版です
空堀前に佐倉城址公園の大きな看板と案内板です
空堀跡説明版です、北側には深い空堀があるようですが、木々で見えません
二の丸への入り口に堀田正睦公像です
説明版です
アメリカ総領事ハリス像です
説明版です
北西へ進みます
二の門址説明版です
正岡子規の句碑です
説明版には、「常盤木や 冬されまさる 城の跡」
明治期における俳句・小説・文芸評論・写生画などに活躍した正岡子規(1867~1902)は、1894(明治27)年12月、本所駅(現錦糸町駅)~佐倉駅間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れています。
子規は総武鉄道佐倉駅(現JR佐倉駅)より、まず佐倉の街の広がる「馬の背」のような台地を眺め「霜枯の 佐倉見上ぐる 野道かな」を読んでいます。
現在の表町・新町方面より、日清戦争における清国人の捕虜収容所となっていた海隣寺の前を通っています。
その後海隣寺坂(現市役所脇の坂)を下り、田町を抜け、田町の堀付近(現歴博下水堀付近)で城を眺め、この句を詠み、もとの道を佐倉駅へ引き返しています。
子規は佐倉の麻賀多神社で幼少期を過ごした鋳金工芸作家の香取秀真や佐倉藩士であり佐倉で幼少青年期を過ごした洋画家の浅井忠とも親交がありました。
「霜枯の 佐倉見上ぐる 野道かな」の句碑は、JR佐倉前城南橋付近にあります。
平成27年12月 佐倉市役所 産業振興課
本丸入口です
一の門址の説明版です
北側の土塁です
土塁の説明版です
北側の土塁に沿う様に
西側へ行ってみます
目的の夫婦モッコクですが・・・
向って右側にあった太い幹が伐られてしまっています、伐られたばかりのようです
切り口にはまだ新しい木の欠片が残っています
説明版です
千葉県指定天然記念物
佐倉城の夫婦モッコク
昭和27年11月3日指定
モッコクは清澄山より東海道以西・四国・九州の近海地に自生する小喬木である。
本樹は、もともと2株植えられたもののうち、1株が夫婦モッコクとなったものか、3株寄植えしたもののうち2株が癒合してできたものか、明らかでない。
樹高11.6m、目通り幹囲2.6mで、モッコクとしては巨木である。
佐倉城の築城については、「土井利勝が慶長16年(1611)から元和3年(1617)まで7年をかけて完成し規模こそ小さくとも本丸等に種々の庭木を植え雄大な風格をしめした」との伝えがある。
このモッコクは庭樹の一つであったと考えられている。佐倉市松林寺境内にも巨木が所在する。
昭和57年2月11日 千葉県教育委員会・佐倉市教育委員会
砲隊の落書きが残ってましたが・・・
東側からみましたが、残念です
このブログの2013年5月24日の「佐倉城址へ行って来ました」の記事の中で「夫婦モッコク」を紹介していました、伐られてしまった幹に落書きが残っていた写真が有りますので見てみて下さいね
では、次へ行きましょう