平方地区は、流山市役所の北約5kmのところ
流山市役所の北側の県道278号線を西へ出て直ぐの「流山一丁目」信号を右(北)へ、県道5号流山街道です
約2.4kmで信号を左(北)へ、まだまだ流山街道(県道5号線)です
約2.7kmで左(西)へ、約400mで右手に福性寺が南向き参道であります
福性寺山門です
真言宗 豊山派
薬法山 福性寺
毘沙門天の説明版です
毘沙門天
福性寺
毘沙門天とは、四天王の一人で仏法をお守りする軍神です。
梵字で(ヴァイシュヴァナ)で法を説くところから多聞と訳され、全てを一切漏らさず聞くことの出来る大智恵者のことを意味します。
七福神では戦いの神とされ正義の味方となってくれる全神です。
流山観光協会
山門脇に小さな説明版です
福性寺(ふくしょうじ)
江戸時代中興の真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は薬法山(やくほうざん)。本尊は大日如来(だいにちにょらい)。
境内には流山七福神の毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)、六地蔵などの石造物や、イチョウ、ムクロジなどの保存樹木がある。
右手には鐘楼です
縁起石碑です
福性寺縁起
開創縁起は不詳、正保年間の中興とす。
本尊は大日如来、飛地境内は仙適坊・観音坊がある。
仙適坊の本尊様は、阿弥陀如来両脇侍像(高さ1m位、江戸時代の作)であったが、貴重な仏像なので現在は本堂に移されている。
観音坊には、観音様がまつられていて、周辺住民の信仰を仰いでいる。
明治の末期には、大変栄た弁天信仰(鎌倉八幡宮の灰で練って造られ、お厨子に入った江戸時代の作)であったが、その後は面影もなく寺は荒れ果てた。
昭和60年流山七福神が発足し、毘沙門天が境内に安置されている。七福神起源は「仁王般若経」の「七難即滅・七福即生・万姓安楽・帝王歓喜」の語によるといわれています。
毘沙門天の福徳は、開運招福、七難即滅にあります。
昭和61年より、ぼけ封じ関東三十三観音霊場第8番札所となる。
初代中興の租勝又俊弘、昭和17年千葉市生まれ。のち廣徳院俊教の室に入る。(父俊教は、真言宗長者・真言宗豊山派第25世管長、総本山長谷寺第79世化主)昭和48年、流山市福性寺住職となり庫裡客殿の建設、本堂の増築等を手がけ再建の礎を築き、また宗務所に勤務、檀信徒教化、寺門興隆に務めた。昭和61年6月9日、遷化世寿43才。
鐘楼堂建立の計画は、中興俊弘の代から決議であったが、俊弘遷化の為、一時中断されていた。
平成6年、檀信徒からの強い要望により、再び建立の計画が持ち上がった。同年から計画を進め、遂に平成8年念願の鐘楼堂が檀信徒一同の協力により建立された。またこの事業は、興教大師900年御生誕の記念とされた。
興教大師九百年御生誕の記念
中興第1世俊弘和尚十三回忌記念
薬法山 福性寺檀信徒一同
参道を入ると広い駐車場が有りますので利用させて頂きました
参道右手に目的のイチョウです
南西側から
南側から見上げました
東側から、目通り幹囲5.1mの巨木です
手水舎です
本堂です
北側から
西側から
参道西側にはムクロジの大木です
六地蔵様です
大きな毘沙門天(多聞天・北方天)を祀った毘沙門堂です
ムクロジを見上げました
北側の弁天堂です、こちらにも毘沙門天や大国様も一緒に祀られています
更に本小津寄りには、お不動様を祀った不動堂です
本堂前に弘法大師様の巡錫像です
では、次へ行きましょう
流山市役所の北側の県道278号線を西へ出て直ぐの「流山一丁目」信号を右(北)へ、県道5号流山街道です
約2.4kmで信号を左(北)へ、まだまだ流山街道(県道5号線)です
約2.7kmで左(西)へ、約400mで右手に福性寺が南向き参道であります
福性寺山門です
真言宗 豊山派
薬法山 福性寺
毘沙門天の説明版です
毘沙門天
福性寺
毘沙門天とは、四天王の一人で仏法をお守りする軍神です。
梵字で(ヴァイシュヴァナ)で法を説くところから多聞と訳され、全てを一切漏らさず聞くことの出来る大智恵者のことを意味します。
七福神では戦いの神とされ正義の味方となってくれる全神です。
流山観光協会
山門脇に小さな説明版です
福性寺(ふくしょうじ)
江戸時代中興の真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は薬法山(やくほうざん)。本尊は大日如来(だいにちにょらい)。
境内には流山七福神の毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)、六地蔵などの石造物や、イチョウ、ムクロジなどの保存樹木がある。
右手には鐘楼です
縁起石碑です
福性寺縁起
開創縁起は不詳、正保年間の中興とす。
本尊は大日如来、飛地境内は仙適坊・観音坊がある。
仙適坊の本尊様は、阿弥陀如来両脇侍像(高さ1m位、江戸時代の作)であったが、貴重な仏像なので現在は本堂に移されている。
観音坊には、観音様がまつられていて、周辺住民の信仰を仰いでいる。
明治の末期には、大変栄た弁天信仰(鎌倉八幡宮の灰で練って造られ、お厨子に入った江戸時代の作)であったが、その後は面影もなく寺は荒れ果てた。
昭和60年流山七福神が発足し、毘沙門天が境内に安置されている。七福神起源は「仁王般若経」の「七難即滅・七福即生・万姓安楽・帝王歓喜」の語によるといわれています。
毘沙門天の福徳は、開運招福、七難即滅にあります。
昭和61年より、ぼけ封じ関東三十三観音霊場第8番札所となる。
初代中興の租勝又俊弘、昭和17年千葉市生まれ。のち廣徳院俊教の室に入る。(父俊教は、真言宗長者・真言宗豊山派第25世管長、総本山長谷寺第79世化主)昭和48年、流山市福性寺住職となり庫裡客殿の建設、本堂の増築等を手がけ再建の礎を築き、また宗務所に勤務、檀信徒教化、寺門興隆に務めた。昭和61年6月9日、遷化世寿43才。
鐘楼堂建立の計画は、中興俊弘の代から決議であったが、俊弘遷化の為、一時中断されていた。
平成6年、檀信徒からの強い要望により、再び建立の計画が持ち上がった。同年から計画を進め、遂に平成8年念願の鐘楼堂が檀信徒一同の協力により建立された。またこの事業は、興教大師900年御生誕の記念とされた。
興教大師九百年御生誕の記念
中興第1世俊弘和尚十三回忌記念
薬法山 福性寺檀信徒一同
参道を入ると広い駐車場が有りますので利用させて頂きました
参道右手に目的のイチョウです
南西側から
南側から見上げました
東側から、目通り幹囲5.1mの巨木です
手水舎です
本堂です
北側から
西側から
参道西側にはムクロジの大木です
六地蔵様です
大きな毘沙門天(多聞天・北方天)を祀った毘沙門堂です
ムクロジを見上げました
北側の弁天堂です、こちらにも毘沙門天や大国様も一緒に祀られています
更に本小津寄りには、お不動様を祀った不動堂です
本堂前に弘法大師様の巡錫像です
では、次へ行きましょう