幸町4丁目は、東久留米市役所の西約1kmのところ
「東久留米市役所前」信号から西南西へ、約700mの信号を右(北北西)へ、さいわい通りです
約200mの信号を左(西)へ、約400mで右手に
米津寺の参道入口です
長い参道を進んで「ヤマザクラ」と「モミジ」を見て
本堂です
本堂西側の墓地入口には六地蔵様です
米津家墓所は、墓地の一番奥(北側)近くにあるようです
東向きに米津家墓所の入り口です、入口には六地蔵様が三体づつ南北に別れていらっしゃいます
説明版です
東京都指定史跡
久喜藩主・長瀞藩主米津家墓所
所在地 東久留米市幸町4丁目2番40号米津寺墓地
指定 平成8年3月18日
圓通山米津寺(旧多摩郡前沢村)は、万治2年(1659)米津出羽守田盛を開基とする臨済宗妙心寺派の寺院であり米津家の菩提寺である。
本堂左手奥の墓域に、2代田盛・4代政矩・6代政崇・8代政容の墓標と供養塔や石灯籠などが並んでいる。墓標の形状は笠付六角塔身型で統一した形式であり、都内多摩地域に残る唯一の大名家墓所である。塔身には臨済宗の重要な典耤である「碧巖録」の引用がある。
米津家は三河出身の徳川譜代の家臣で、初代田政は慶長9年(1604)から20年間江戸町奉行を勤め、武蔵・下総・上総に5000石の領地を与えられた。2代田盛は大番頭を経て大坂定番となり、10000石を加増されて15000石を領する大名となった。
3代政武は弟田賢に3000石を分知し、自らは12000石を領して久喜に陣屋を構えて武蔵久喜藩が成立した。4代政矩は弟政容に1000石を分知したため所領は11000石となった。7代通政は寛政10年(1798)出羽村山郡長瀞村(現在の山形県東根市)に所領を移された。
門前村・神山村・前沢村(現在の東久留米市)、乙津村・上代継村・下代継村(現在のあきるの市)、木榑村(現在の練馬区)などが米津藩であった。
平成9年3月31日 建設
東京都教育委員会
*文面は参道入口にあった説明版と同じでした
正面の墓碑です
左手(南側)に3基の墓碑です、一段低い台座になっているようです
米津寺で3番目の目的の「シキミ」です
東側から
「東久留米名木百選No.60シキミ」のプレートです
*シキミ(樒、学名: Illicium anisatum) は、マツブサ科シキミ属に分類される常緑性小高木から高木です。
葉は枝先に集まってつき、春に枝先に多数の黄白色の花被片をもつ花をつけ、本州から沖縄諸島および済州島に分布します。
アニサチンなどの毒を含み、特に猛毒である果実が中華料理で多用される八角に似ているため、誤食されやすい危険な有毒植物です。
ときに仏事や神事に用いられ、しばしば寺院や墓地に植栽されておるい、また材や抹香、線香として利用されることもあります。
別名が多く、「シキビ」「ハナノキ」「ハナシバ」「ハカバナ」「ブツゼンソウ」「コウノキ」「コウシバ」「コウノハナ」「マッコウ」「マッコウギ」「マッコウノキ」などがあります。(以上ウィキペディア一部抜粋です)
薄黄色の花が咲いています
北東側から
北側から見ました
では、次へ行きましょう
「東久留米市役所前」信号から西南西へ、約700mの信号を右(北北西)へ、さいわい通りです
約200mの信号を左(西)へ、約400mで右手に
米津寺の参道入口です
長い参道を進んで「ヤマザクラ」と「モミジ」を見て
本堂です
本堂西側の墓地入口には六地蔵様です
米津家墓所は、墓地の一番奥(北側)近くにあるようです
東向きに米津家墓所の入り口です、入口には六地蔵様が三体づつ南北に別れていらっしゃいます
説明版です
東京都指定史跡
久喜藩主・長瀞藩主米津家墓所
所在地 東久留米市幸町4丁目2番40号米津寺墓地
指定 平成8年3月18日
圓通山米津寺(旧多摩郡前沢村)は、万治2年(1659)米津出羽守田盛を開基とする臨済宗妙心寺派の寺院であり米津家の菩提寺である。
本堂左手奥の墓域に、2代田盛・4代政矩・6代政崇・8代政容の墓標と供養塔や石灯籠などが並んでいる。墓標の形状は笠付六角塔身型で統一した形式であり、都内多摩地域に残る唯一の大名家墓所である。塔身には臨済宗の重要な典耤である「碧巖録」の引用がある。
米津家は三河出身の徳川譜代の家臣で、初代田政は慶長9年(1604)から20年間江戸町奉行を勤め、武蔵・下総・上総に5000石の領地を与えられた。2代田盛は大番頭を経て大坂定番となり、10000石を加増されて15000石を領する大名となった。
3代政武は弟田賢に3000石を分知し、自らは12000石を領して久喜に陣屋を構えて武蔵久喜藩が成立した。4代政矩は弟政容に1000石を分知したため所領は11000石となった。7代通政は寛政10年(1798)出羽村山郡長瀞村(現在の山形県東根市)に所領を移された。
門前村・神山村・前沢村(現在の東久留米市)、乙津村・上代継村・下代継村(現在のあきるの市)、木榑村(現在の練馬区)などが米津藩であった。
平成9年3月31日 建設
東京都教育委員会
*文面は参道入口にあった説明版と同じでした
正面の墓碑です
左手(南側)に3基の墓碑です、一段低い台座になっているようです
米津寺で3番目の目的の「シキミ」です
東側から
「東久留米名木百選No.60シキミ」のプレートです
*シキミ(樒、学名: Illicium anisatum) は、マツブサ科シキミ属に分類される常緑性小高木から高木です。
葉は枝先に集まってつき、春に枝先に多数の黄白色の花被片をもつ花をつけ、本州から沖縄諸島および済州島に分布します。
アニサチンなどの毒を含み、特に猛毒である果実が中華料理で多用される八角に似ているため、誤食されやすい危険な有毒植物です。
ときに仏事や神事に用いられ、しばしば寺院や墓地に植栽されておるい、また材や抹香、線香として利用されることもあります。
別名が多く、「シキビ」「ハナノキ」「ハナシバ」「ハカバナ」「ブツゼンソウ」「コウノキ」「コウシバ」「コウノハナ」「マッコウ」「マッコウギ」「マッコウノキ」などがあります。(以上ウィキペディア一部抜粋です)
薄黄色の花が咲いています
北東側から
北側から見ました
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