ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

群馬県下仁田町、馬山「馬山小学校のクスノキ」(町観光名木10選)です!!

2024-08-31 19:41:54 | 巨樹・大木
  馬山乙地区は、下仁田町役場の北東約3kmのところ

 下仁田舞役場前の国道254号線を南東へ向かいます

 道成りに約3kmで「道の駅しもにた」前の信号を斜め左(北東)へ

 約700mで道路左手に馬山神社の社號標が建っています

 参道脇に車を止めさせて頂きました

 参道左(西側)の馬山小学校側にクスノキが立っています

 東側から

 説明版です
   下仁田町観光名木10選
     通称  馬山小学校のクスノキ
     所在地 下仁田町大字馬山2697番地1
     樹齢  推定120年
     樹高  16m
     幹周  3.05m
 このクスノキは約100年前、地元の大河原茂平さんが伊勢参りから持ち帰り、子供たちの幸せと安全を祈願して栽植したもので、大河原さん宅の裏庭にあるクスノキと兄弟と言われている。
 校庭の片隅で大きな枝を広げ、子供たちの成長と馬山地区の歴史を見守り続けている。
 *下仁田町観光名木10選は、2000年度下仁田町観光協会が、地域で親しまれ、先人が守り育ててきた名木で、樹齢・樹高・幹周が立派な樹木10本(群)を名木に選定し、広く紹介すすとともに後世に守り育てていかれる事を願って選定したものです。
  2000年指定    下仁田町観光協会

 因みに・・・
 このブログの
 2016年6月28日の、下仁田「諏訪神社の大欅」
 2022年9月 8日の、大桑原「八幡神社のスギ」も下仁田町観光名木10選です
             南野牧「荒船神社の夫婦杉」・・・行ったはずですが
 次に紹介します「馬山神社のケヤキ」も下仁田町観光名木10選です

 そして上小坂「中之嶽神社のイチョウ」
     本宿「長楽寺のシダレザクラ」もまだ見ていません
 では、馬山神社のケヤキとカヤを見に行きましょう

 北側から見ました

 では、馬山神社に行きましょう



 2024・8・23・14・50
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群馬県上野村、楢原「白井関所のイチイと白井の大クワ」です!!

2024-08-31 06:31:15 | 巨樹・大木
 楢原地区は、上野村役場の西約7kmのところ

 上野村役場北側の道路を西へ出て、約100mで左(南)へ、道成りに進みます

 約400mで右(西)へ国道299・462号重複線です

 道成りに約5kmで「小海・ぶどう峠⇐」「御巣鷹の尾根」の標識に従って斜め左(南西)へはいります

 約1.3km「白井関所ののイチイ⇒」の案内板が有りますので鋭角に坂道を上って行きます

 約800mで「休憩所」前の駐車スペースに入りました

 地区の案内図です、右側に目的の「白井関所跡のイチイ」・「白井の大桑」も載っています

 裏面の説明書きです
   白井集落の歴史
 1、十石(峠)街道の白井の市
 十石(峠)街道は中山道新町宿から神流川に沿って、上流の山中領を通り上信国境の十石峠を越えて甲州街道に合流する。
 「十石峠」の由来は、信州から佐久米が1日10石(約1500kg)馬で白井へ運び込まれたことによる。
 白井集落には米穀屋を始め、宿屋、質屋、酒造業、飲食店などがあり、毎月、定期市が開かれ繁栄した。
 市には、上州、武州、信州から商人が集り、米を中心に各地の物産交易が明治中頃まで続いた。白井集落の真ん中に寛文13年(1673)の銘のある市神様(村指定重要文化財)の祠が祭られている。
 2、白井関所
 寛永8年(1631)江戸幕府が中山道の脇往還として信州への往来取締りのため設置、番人2人ずつを板葺き屋根の番屋(5間×5間半)に配置しました。
 関所は集落東の「白井関所跡のイチイ」付近にあった。主な通行人は参詣人、廻国巡礼、湯治客、職人、商人などであり。明治2年(1869)廃止された。
 3、秩父事件の宿営地
 明治17年(1884)11月1日、明治政府のデフレ政策などで困窮した秩父地方を中心に西南上州などからも加わった農民らが椋神社(現・秩父市)へ終結、国民党軍を組織し政府、警察、軍隊と戦った。(秩父事件)
 国民党軍の本体が解体後、菊池寛平(現・長野県北相木村出身)の率いる一隊百数十人は、11月6日、上山郷(現・上野村)へ入り、山中領中山郷の同行者含め数百人が白井集落に宿営し、村民などが焚出し等にあたった。
 翼7日、一行の多くは十石峠へ向かい、途中山越で帰村する者もいたが信州での戦闘の末、9日、野辺山の原で潰滅した。
 当時、上山郷には公認自由党員や賛同する村民もいて困民党軍の行動に理解を示す者もいたらしい。
 事件は長い間「秩父暴動」として悪事、犯罪とされてきたが、近年、自由民権運動の一環で正当な行動として評価・顕彰されている。
    平成21年3月    上野村教育委員会

 東へ進みます

 道路左手に「市神様」です

 説明版です
   上野村指定有形民俗文化財
     白井の市神様
       所在地   上野村大字楢原字白井1167番地
       管理者   白井集落
       指定年月日 昭和55年7月7日
 十石峠の名の由来は、信州から1日10石(約1500kg)の佐久米が「十石馬子唄」を歌いながら馬で信州から運ばれてきたことによるといわれています。
 この地に毎月、3・7・11・16・20・24・28の7日間、市が開かれ上州・武州・信州から商人が集り、信州から味噌・醤油・衣類・日用品など、上州からは木炭・木鉢・下駄・和紙・薬草・栗の実・繭など、各地の物産の交易が行われました。
 米問屋7軒を始め、宿屋・酒屋・質屋・飲食店など多くの商店があり、活気のある集落で明治中頃まで繁栄していました。
 旧街道端に寛文13年(1672)の銘がある市神様を祀った石宮が現存しています。
 集落東端の「白井関所跡のイチイ」附近には、白井関所が寛永8年(1631)に設置され、江戸幕府が中山道の脇往還として取り締まっていましたが、明治2年(1869)に廃止されました。
    平成22年3月    上野村教育委員会

 更に東へ進みます

 目的の「白井関所のイチイの樹冠」が見えました

 案内図に”声を掛けて下さい”とありましたが、お留守のようでしたのでここまでにしました

 ズームアップしました(イチイに根元には説明版があるはずですが、見えませんね~)

 南西側から

 更に南東へ、車庫の脇に「白井関所跡」の石碑です

 ここを左上へ進みました

 石仏が並びます

 一番大きなお地蔵様です

 すぐ東側にも石仏が並びます、後ろの建物は「白井集会所」です

 三面八臂像です

 坂道を登って行くと左手に目立つ木が見えて来ます

 ズームアップしてみました、目的の大クワです

 東側へ登って来ました

 では、戻って次へ行きましょう



 2024・8・23・13・55
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