臼谷地区は、小矢部市役所の南西約8kmのところ
矢部市役所前の本町信号を西へ国葬471号線です
約1.3kmで標識に従って信号を右、県道42号線へのインターチェンジです
道成りに約1.9kmの埴生信号からは県道247号線に変わって進みます
更に5.5km臼谷消防組屯所前の交差点を右(北西)へ入ります
間も無く八幡宮の石段が見えて来ました
前の道路脇に
車を止めさせて頂きました
八幡宮の社號標です
歴史の道 小原越の説明版です
歴史の道 小原越
小矢部市浅地から、名畑・末友を経て県境の松根城跡のある峠を越え、金沢市吉原町に至る小原越は、北陸街道の裏街道(わきみち)として古くから利用されていた。
この道は、倶利伽羅峠越えの北陸街道と違い、山の尾根が主の道すじで比較的緩やかである。そのうえ金沢への近道とあって砺波地方の開拓が進むにつれ馬を利用し米を主体に塩その他種々の物資が運搬された。
此の小原越に対して今石動、倶利伽羅、竹橋を経由する北陸街道は、本通りとして種々保護されていた。加賀藩は脇道の小原越がよく利用されると、街道沿いの宿場が衰え、住民の生活がなりたたなくなることを恐れた。
藩は、宿駅を保護するため金沢への届米は竹橋・津幡宿場の馬で運ぶよう達しを出した。しかしながら小原越は加越の住民にとって生活に密着した重要で愛着のある道であり続けた。
*説明版を読んでいたら、軽トラックの方が声をかけてくれました、「松根城跡など良い所があるよ」とのことでしたが、今回は行けませんでした_(._.)_
*現在の国道359号線は内山峠まで谷筋を通っています、県境はスノーシェードで峠の雰囲気はなくなっていますが、南側の標高307.9mの三角点付近が松根城跡です、八幡宮の南西側約2.5kmの人母(ひとぼ)から尾根道に入って、松根峠を目指して登って行ったようですが、ほとんど歩かれていないようです。
北東側の道です
南西側の道です
岡村遺跡の説明版です
臼谷の岡村遺跡は、縄文中・後期(4000年~5000年前)の集落跡といわれ、また、字岡ノ城の河岸段丘の上には、奈良時代より中世のかけての集落の跡が残されている。
臼谷字岡ノ城に鎮座する八幡宮は、往昔より蟹谷郷の総社であるといわれ、旧号、荊波(うばら)神社と称し、延喜の神名帳にある越中国砺波郡鎮座の荊波神社であると伝えられている。
奈良時代、越中守大伴家持は、国守として墾田地の検察に、この地に来り、思いがけぬ雨にであい、帰ることができなくなり、
荊波の里に宿借り春雨に こもりつつむと妹につげつや (万葉集巻の18) の一首を詠んだという。
臼谷の地は古来より、八幡宮をはじめ、小白山、臼谷砦、小原道、小原越等々史跡多く、また、ぶな、うらじろかし混生林、或いは、年中清冽な清水を涌出し、人びとに愛用されて大清水、あしつき等あり由緒の地である。
ここに臼谷にまつわる歴史、文化の沿革を石に勒して後世に伝える。
昭和61年11月18日
石段を上がります
鳥居です
手水舎です
白谷八幡宮の変遷の石碑です
臼谷八幡宮の変遷
旧社殿(本殿・幣殿・拝殿)は昭和30年8月に氏子らによって建立され、更に、平成15年9月には弊・拝殿の屋根の銅板葺き換え、見事な姿を呈していた。
平成17年4月24日未明、不審火により出火、社殿のすべてを全焼。
平成19年9月臼谷村氏子並びに出身等関係者の篤志により現在の社殿を再建、今に至っている。
新社殿の建立のいきさつを広く後世に伝えるべくここに記す。
平成20年11月 臼谷村
大伴家持の歌碑です
拝殿です
本殿です
本殿越に目的の大杉切株とスギです
本殿右(北側)の斜面上です
ズームアップしてみました
東側下から見上げました
南東側から
奥側の杉も目通り幹囲4.5m(目測)の大木です
かつての姿をパネルで見る事が出来ました
切株には焦げ跡が残っています
*前出の白谷八幡宮の変遷の石碑に有った通り、平成17(2005)年4月に社殿が全焼した際に大杉も類焼し。その後、手を尽くしたものの徐々に樹勢が悪化、2011年12月に惜しまれつつ伐採され、今は切株のみ残ります。
北側の境内には八幡宮の説明石碑です
天地は悠遠なり・生命は不滅なり・歴史は無窮なり
日本書記に叙していう・・・伊弉諾尊・伊弉冉尊。天の浮橋の上に立たして 云々
豊秋津洲を生む、次に伊予二名洲を生む、次に筑紫洲を生む、次に億岐洲と佐渡洲とを雙生む、世人或いは雙生むこと有るは、此の象りてなり、次に越州を、次に大洲を生む、次に吉備子洲を生む、是に由りて始めて大八洲国の号起これり。
古事記に録していう
其の島に天降り坐して天の御柱を見立て八尊殿を見立てたまいき
天は人なり・地は文なり
古事記に叙していう・・・八千矛神高志国の沼河比売を婚はむとして行幸ましし時、其の沼河比売の家に到りて歌いたまいしく 云々
日本書記・祟神天皇の段に・・・大彦命を以て北陸に遣す、武渟川別をして東海に遣す 云々
古事記には、大毘古命をは高志道に遣し 云々と記す、又意富夜麻登玖迩阿礼比売命を娶して生みませる御子、夜麻登登母母曽毘売命、次に日子刺肩別命 云々、命は高志の刺波臣祖也 と
誌して曰う
八幡宮 蟹谷郷臼谷村にあり、往古は蟹谷郷総社なりといへり。古木生茂り、山端に有りて物古りし社地なり。
天平時代、越中守大伴家持卿、国守として勤農に励み出挙を行う、ことに当社の崇敬あつしと口碑に伝う。
記していう
藪波の里、名所なり蟹谷郷臼谷村なりという 云々、然れども坂道もなく、端山つづきにて尤も幽閑の地なり。臼谷村八幡宮は、蟹谷の郷15村の惣社にして尤も大社也。
同村に大清水・小清水という冷水二方所有、水の湛える事四間に六十斗、水溢れて用水江流入也。
源平時代・旭将軍木曽冠者源義仲の尊崇せられし社なりと口伝にいう。
誌していう
蟹谷庄 八幡旧記抄
越中国 蟹谷庄 地頭識事
右当庄者所寄進石清水八幡宮也
南北朝時代(1336ー1392)加賀国松根より越中の国蟹谷の里へ内山越えが開け、小原左衛門尉清原節光が毎年7月勅使として安居寺に参詣を行なったという。
文献に誌していう
臼谷村領内おしらひ山と申、山之嶺に林御座候 云々、此山は村の東方にて今邑人うしら山と呼べり、毎年3月5日を祭日と定め、白山権現と書たる旗を立て祭れり、予今甚だ霊異いちじるしく 云々、又此社地に大小の樹木あり、其木より常に水垂れり。
文書に誌していう
おしら山之麓に寺跡石湯之体御座候、只今畑并野にて御座候
臼谷砦跡、臼谷村、此砦跡は村の西方にて、字トツワケと云、畑地の高なる山林を城山と呼べり。
元禄7年(1694)加越能産物書上帳に、砺波郡下後亟村 藤坂村 臼谷村 北村也 布さらし申候。一粒300足程・・・・・・・60目より100目程之晒賃取申候
臼谷の大杉・臼谷八幡宮本殿脇の大杉幹周り8.5m、高さ37m、地上4mより双幹に別れ天空に聳えたつ、ぶな、うらあじろがしの混生林、小白山頂にあり、海抜120mの低地の混生林として珍らしく、昭和40年(1965)3月16日天然記念物として指定を行う。
大清水のあしつき・東丘陵地に150㎡の四辺形の池水が位置し、年中涸れることなく、夏季は冷たく冬は温しという池水及び水路に、あしつき自生し、昭和44年(1969)5月22日に天然記念物の指定を行う。
山鹿の里・小原道の由緒にちなみ、昭和58年(1983)5月26日山鹿の里の設定を行う。
名水・大清水に年中清冽な清水涌出し古来人びと愛用し、昭和61年(1986)2月24日富山の名水として指定をうく。
自然は悠久なり・文化は不朽なり
ふるさとは ふるさとのひとびとと ともに 永遠に生きつづけてゆく
これを石に刻して・・・う
小矢部市長 松本正雄 撰文
昭和丙寅歳霜月18日(昭和61年・1986年11月18日)
名古屋市 松田三郎 建之
*読めない所が数か所有りました_(._.)_
では、次へ行きましょう
2023年5月4日午後2時10分訪問です