旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

氷室神社

2014-05-03 23:08:47 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
氷室神社の祭神は大国主大神です。
説明書によれば、だいこくさまといえば、"縁結びの神さま"として知られていますが、この縁結びということは、単に男女の仲を結ぶことだけではなく、人間が立派に成長するように、社会が明るく楽しいものであるように、すべてのものが幸福であるようにと、お互いの発展のためにつながりが結ばれることです。  
創建の年月は不詳です。古代からの「夢野」(日本書紀、摂津国風土記に記されています)そして「氷室」に由来しています。
 仁徳天皇の兄に当たる額田大名彦皇子が夢野で狩りをした際に氷室を発見し、そこで、闘鶏稲置(つげのいなぎ)大山主(今の村長にあたる。氷室神社社家先祖)という土地の古老に訪ねた。「この土地の者は、冬の間に大きな氷を切り出し、あの岩屋の底の地面を一丈(約3㍍)ばかり掘って、底に草を敷き、そこに氷を詰めます。その上を茅などで覆い、土をかけます。暑い季節になると、氷を掘出し、砕いて水や酒に入れて飲むのです。」この話を聞いて仁徳天皇に氷を献上しました。これより後、氷を毎年暑くなる頃、天皇に届けられるようになりました。この氷室の所在地に仁徳天皇を祀って氷室神社が創建されたといわれています。
 この付近は、平清盛の弟の教盛の別邸跡だと伝えられている所で、福原遷都(1180(治承4)年6月2日)のとき、後白河法皇はこの教盛邸内に幽閉されていました。平清盛が兵庫七弁天の一社として市杵島比亮を奉納斎しました。
 平安時代末期の治承4年(1180年)頃の源平合戦時、平教盛の子の教経が陣所にしていたと伝えられています。氷室神社からは、当時、豊富な清水がわき「陣場の井」と呼ばれていました。
 平教経の兄の通盛と妻小宰相がこの地で今生の名残を惜しんだと言われています。
 湊川合戦は、南北朝時代の1336年((建武3年)5月25日)摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦です。楠木正成、家来をつれて小林家(氷室神社社家)を訪れ、地図と会下山の砦を築く為の人夫を差し出し、幟と弓矢を拝領しました。 

神戸市兵庫区氷室町2丁目15-1
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鳥居

由緒書

説明文





















































灯篭と参道

手水舎

平通盛と小宰相の説明書

看板

境内にて

室田大明神

金龍神



本堂

石神大神、豊受姫大神、木戸明王

春日大社、皇大神宮、猿田経彦之命の社

権兵衛大神

氷室大明神、丸亀大明神、尊通大明神



おせき天



八大龍王大神

氷室稲荷



氷室

氷室入口の石碑

雑感
武器の海外販売が解禁であるとか、各地で戦争、派兵が当然視されようとする世になりつつある中で、まず話し合いで紛争となるのを防ぐ努力がいるのではないか。神や仏を信ずるかどうかは別としても、だいこくさまのお気持ちが通じてほしいものです。
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立江寺

2014-05-03 23:00:16 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
立江寺(タチエジ)「たちえのお地蔵さん」で親しまれています。真言宗 大覚寺派 立江寺別院です。幼稚園も併設しています。
四国八十八ヶ所霊場第十九番立江寺の別院として大正10年に創建されました。戦災で一切が消失し、昭和26年に再建されましたが、阪神・淡路大震災で大きな被害にあい平成10年9月に無地完成となりました。
神戸市内が一望できる地にあります。参道には四国八十八か所霊場があります。

神戸市兵庫区北山町12-5
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参道での如来など

































平和の鐘

萬霊堂

境内にて



手水





立江子安千体地蔵尊

本堂新築記念碑

境内からの景色
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大山咋神社と平清盛

2014-05-03 22:09:39 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
大山咋(おおやまくい)神社は、石井川上流の石井橋北東の山王町にあり、「西攝大観」には、「村社大山咋神社石井村字湊山に在り、大山咋命を祭る、建物二棟境内二百坪余なり」とあります。祭神の大山咋命は山をつかさどる神様なので、「山王さん」と呼ばれていました。山王町の名はここからきました。
由緒書によれば、創立年月は不詳ですが、平清盛福原遷都に際し、五條大納言邦綱に雪御所鎮護のため再建造営なさしめたと伝えられ古くから日吉山王の社として崇敬されています。
5月4日の例祭のために氏子の世話役の人達が境内の清掃をしていました。
神戸市兵庫区山王町1-6-5
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鳥居

拝殿

手水舎

境内



石井川での鯉のぼり
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「塞神(サイノカミ)」の碑、「塞神(サイノカミ)の松跡」の碑、祇園遺跡、雪見御所旧跡

2014-05-03 21:48:25 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
塞神の碑、平野の交差点と平野の祇園神社の中間あたりにあります。同じところに塞神の松跡の碑もあります。
昔、このあたり(奥平野村)を東西に通る古代からの人道「古道街道」がありました。この碑は、古道街道を通る旅人らの道中の安全を守ってくれる神さま(道祖神)として言い伝えられています。
天保の時代(一八三○~一八四四)このあたりに「塞神」をまつった塚があり、そこに生えていた榎が倒れたので掘り起こしたところ、大きな石が現れ、その 下から甲冑、剣、馬具などが出てきました。しかし、当時の人はたたりがあっては大変と埋めてしまい、山伏をよんで祈祷させたとの言い伝えがあります。


塞神の松跡の碑
 昔、上祇園町のこのあたりに「塞神ノ松」とか「祇園の一本松」とよばれていた大きな松がありました。「和田の沖をゆく船が、この松を見て舵を直した」と言われるほど有名な松でした。この松は戦時中に枯れて今はありませんが、その跡に昭和十六年十二月、上祇園町内会がこの「塞神の松跡」の碑をたてました。


祇園遺跡
治承四年(一一八〇年)、平清盛によって福原遷都が強行され、わずか半年ではありましたが、福原荘・和田荘と呼ばれたこの地に都がおかれていました。平清盛の邸宅はここ平野にあり、平野殿と呼ばれていたことが記録の上で確認できます。
大輪田の泊や福原荘・和田荘を見晴らす、ここ平野の地が福原京の中心地域でした。一九九三年、国道四二八号線拡幅整備工事に先立つ発掘調査で、この公園 のすぐ西側から、底に石を敷く池がある貴族の邸宅の庭園が見つかりました。出土した宋からの輸入陶磁器や大量の土器などから、貴族の生活がうかがわれま す。ただし、この調査ではそのごく一部が見つかったにすぎず、池の大部分や御殿などは今もこの地下に眠っています。


雪見御所旧跡
神戸市兵庫区雪御所町2-1
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説明文より
平安時代末期、平家一門が日宋貿易の港である大輪田泊を見晴らす福原の地を領有し、ここに多くの邸宅を構えた。治承四(一一八○)年、政権の強化を図った 平清盛が孫の安徳天皇を奉じて都造りをはかったのが「福原遷都」である。しかし都造りは中途で頓挫、半年で平安京に遷都したため実態としての都は完成しな かった。
 「平家物語」などには平清盛が福原の地にいくつかの邸宅を持っていたことを伝える。そのひとつが「雪見御所」で、その名を伝える雪御所町に存在した可能 性が高い。
一九八六年に湊山小学校の校舎建設に先立ち行われた発掘調査(雪御所遺跡第一次発掘調査)で確認された石垣のひとつはこの南の字境に一致する。これは雪見御所の南を画する石垣、またはそれを踏襲する字境の石垣である可能性が考えられる。
 雪見御所の北に安徳天皇が「福原遷都」の半年を過ごした「本皇居」=「平野殿」のあったこと、また清盛邸の近隣に子息宗盛(むねもり)邸のあった可能性 が当時の貴族の日記の記述などから知られる。発掘調査によっても雪御所町の東にあたる上祇園町の祇園遺跡で平安時代末期の貴族の邸宅あとの庭園の存在が確 認されている。古記録と発掘調査の成果から、この地に「福原京」の時期を中心とする平家の邸宅がいくつも存在することを推測することができる。ここ「平 野」の地はまさに碑の名の示すとおり「平」家の本拠があった「フィールド(野)」といえるだろう。
 この「雪見御所旧跡」の石碑は、明治三九年に湊山小学校の校庭より掘り起こされた、往時の御所の庭造りに使用されていたと考えられる石に、明治四一年に湊山小学校三代校長篠崎三郎氏が、生田神社宮司田所千秋氏の揮毫を得て、設置したものである。



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平野祇園神社と平清盛

2014-05-03 20:39:38 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
祇園神社(ぎおんじんじゃ)は神戸市兵庫区上祇園町にある神社です。
主祭神は、素戔嗚尊、櫛稲田姫命です。創建は不詳です。
由緒書によれば、第56代清和天皇の御代貞観11年(869)、京の都では、大雨が降り続いて川が氾濫して疫病がはやり多くの犠牲者が出ました。この疫病をおさめるため京都の北白川に祇園さんを建てる事になり、姫路市の城北にある広峯神社より素戔嗚尊のご分霊を頂き、京都におうつししました。その時、みこしがこの平野の地に一泊され、霊験あらたかなのを仰ぎ、お社を建てておまつりしたのが始まりと伝られています。
素戔嗚尊は仏教で祇園精舎の守護神とされている牛頭天王と同一視されたため、祇園神社はまた天王社とも呼ばれました。
清盛公は、豊かな国造りを目指し、日宋貿易の拠点であった大輪田泊に、波浪を避ける目的の人口島「経ヶ島」を築造する際、祇園神社の裏山にあったとされる潮音山上迦寺(現在は廃寺)で、海潮の響きを聞きながら、その計画を練ったと言い伝えられています。
神戸市兵庫区上祇園町12-1
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石灯篭
生島四郎奉献の灯篭です。生島四郎は、奥平野村の乾八左エ門の次男として文化2年(1805)に生まれ24歳で松屋(生島家)の養子となり明治19年、81歳で没しました。
神戸村の大庄屋を勤め、地主と酒造業、廻船業で家業の繁栄を築き豪商として知られていました。幕末、勝海舟と共に神戸港開港、外人居留地の開拓に尽力し、神戸の歴史に名を馳せました。













手水舎

従軍者記念碑

境内の市杵島姫社
市杵島姫命は弁才天と同一視される女神です。

境内の白玉稲荷社

境内の烏原神社
祭神は応神天皇です。石井川上流の烏原村にあった社が1905年(明治38年)の貯水用ダム(烏原水源地)によって水没したため、氷室村へ遷座するも1945年(昭和20年)の神戸大空襲で被災し、1995年(平成7年)の阪神大震災で石造の鳥居なども倒壊したため2006年(平成18年)に祇園神社境内に移されました。

境内の猿田彦社
道祖神・庚申講と関係が深い猿田彦大神を祭ります。

境内からの景色


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五宮神社

2014-05-03 20:14:28 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
五宮神社(ごのみやじんじゃ)は神戸市兵庫区五宮町に鎮座する生田裔神八社の一社です。
御祭神は、天穂日命(あめのほひのみこと)
由緒書によれば、天穂日命は、天照大御神が、弟神素戔鳴尊(すさのおのみこと)と剣玉を交換して誓約の時にお生まれになった五男神の一神で、天照大御神のご命令により出雲国に降り、国土開発と経営に努力された神と言われています。
この神社は、神功皇后三韓出征の帰途、巡礼された一社でもあり、厄除け・天下泰平・五穀豊穣のご神徳の高い神社として知られています。出雲国能美郡天穂日神社と関係があり、古来より平野一帯の氏神としてまつられています。
神戸市兵庫区五宮町22-10
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本殿

境内の猿田彦社

境内の岩松稲荷社

境内の出雲社
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祥福寺

2014-05-03 19:55:39 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
祥福寺(しょうふくじ)は神戸市兵庫区五宮町にある臨済宗の仏教寺院です。
貞享2年(1685年)12月、もと僧正眼が営んでいた平野五宮神社のほとりの小庵に、雲巌和尚によって創建され、盤珪禅師を招いて開山とし、禅寺の道場となりました。
本尊は、釈迦如来です。福原西国三十三箇所 第18番札所。
神戸市兵庫区五宮町22-17
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山門

階段の途中に



さらに階段

境内に



本堂







手水鉢

十三重塔

鐘楼

南天聖紫観世音

灯篭

手水舎

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荒田八幡神社

2014-05-03 18:32:17 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
荒田八幡神社の由緒書によれば、古くは高田神社といい、後に宝地院境内にあった八幡社を神仏混淆を避けて、明治31年(1898)にここに合祀して荒田八幡神社とされました。八幡神社の土地は、平清盛の弟・池大納言平頼盛の山荘であり、治承4年(1180)6月3日の福原遷都の際には安徳天皇の行在所となりました。

神戸市兵庫区荒田町3丁目99
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鳥居

本殿

清荒社と高田稲荷

安徳天皇行在所址碑

福原遷都800年記念碑
昭和55年(1980)6月3日に建てられました。
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安徳天皇菩提寺、宝地院、平頼盛公

2014-05-03 18:16:51 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
寺の説明によれば、当寺域はもと、平頼盛公(平清盛の異母弟)の山荘地で、治承4年(1180)の福原遷都の際、6月3日 安徳天皇が頼盛邸に入御された。御父の高倉天皇は、清盛公屋敷の雪の御所に入御された。しかしご都合があって、6月4日に安徳天皇と高倉天皇は、それぞれの御所を替わられて、高倉上皇が頼盛公屋敷にお移りになりその年の10月まで此の山荘に居られた。その因縁により、約百年後の弘安2年(1279)に、安徳天皇の菩提を弔うために僧 智鏡(智譽大圓)を開山として、宝地院が建立された。昭和20年のアメリカ軍の空襲で本堂は消失し、昭和24年に再建されたが、平成7年の阪神・淡路大震災で甚大な被害を受け、大規模修繕をし、現在となっています。

神戸市兵庫区荒田町3-17-1
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本門佛立宗・佛立寺

2014-05-03 17:57:49 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
佛立寺は、寺の説明によれば、高祖日蓮大菩薩(1222~1282)が,建長5年4月28日,久遠本佛の宗旨を開宣ときに創まります。その後,門祖日隆大聖(1385~1464)が高祖の真義を発揚して,法華経本門八品の教えにより上行要付本因下種の教旨をあきらかにし,再興された。更に安政4年1月12日,開導日扇聖人(1817~1464)が,本門佛立講を開き,蓮隆両祖の本意を伝えてその要義をあらわし,僧俗一体の信心を確立し,「上行所伝の南無妙法蓮華経」を唱えて御題目口唱の宗旨を立てられました。明治31年には寺号を「佛立寺」と公称される。

神戸市兵庫区荒田町3-7-19
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佛立開寺・日扇聖人像





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