2017年11月27日、お参りしました。
説明書より「当社は天児屋根命を祀り、『類聚国史』『古跡志盥魚記』『明和丹波志』等の古書に掲載され、和銅2年(709)の創建と伝える。清和天皇の貞観5年(863)5月5日丹波に国に雪が降り五穀不穣、しかるに、井路の地だけは神徳によって豊かに実り、それらの種子を分け与えた。これによって一地域を挙げて御赦免朱印地とせられ、井路村を印地村と改め、この文字を用いるようになった。梅田神社の称号は最明寺時頼(北条時頼)、鎌倉幕府の執権(1227~1263)が諸国巡行の節、謹みて『梅田神社』の称号を賜った。室町時代には、丹波守護細川氏の崇敬があつく、細川勝元は宝徳2年(1450)神領地を寄進し、境内地とともに免租地としたという。天正5年(1577)明智光秀の兵火にかかり衰退したが、本殿は焼失を免れたと伝える。その後、当地を領域とする篠山城主青山下野守は特に信仰が篤く、かつてのように境内及び神領をご赦免地とし、古式による神事祭典を行った。当社には葺替等の修理に関する棟札が多く伝わり、社殿にかける人々のあつい思いがしのばれる。境内には大変めずらしい榁の古木がある。」
京都府亀岡市旭町宮ノ元23
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鳥居

ムロノキ(亀岡の名木)
「常緑低木まれに高木。やせ地や湿地に生え、成長は遅くまれに大木となるが、これだけの大木は極めて珍しい。一般に用いられる名前はネズでネズミサシ、ネズとはこの枝を鼠の通り道に置くと葉が鼠を刺し、そのうち鼠がいなくなったことから『ネ居ず』が転訛してネズとなったといわれている。胸高幹回2.2m、樹高12m」




本殿(重要文化財)
「現在の本殿は、建武5年(1338)北条高時、執権のとき、家臣藤井盛次に命じて建立した。一間流れ造、檜皮葺である。長禄3年(1459)の修理をした。全体に装飾は控えめで、架構は簡素である。細部様式は古様を示すものが多く、その中で身舎頭貫に大仏様系の木鼻を用い、斗栱肘木に禅宗様の笹繰を施すなど、鎌倉時代に宋から伝来した様式を採用していることが注目される。緩やかな屋根の曲線と軒反りの美しい、繊細高雅な建築である。」




説明書より「当社は天児屋根命を祀り、『類聚国史』『古跡志盥魚記』『明和丹波志』等の古書に掲載され、和銅2年(709)の創建と伝える。清和天皇の貞観5年(863)5月5日丹波に国に雪が降り五穀不穣、しかるに、井路の地だけは神徳によって豊かに実り、それらの種子を分け与えた。これによって一地域を挙げて御赦免朱印地とせられ、井路村を印地村と改め、この文字を用いるようになった。梅田神社の称号は最明寺時頼(北条時頼)、鎌倉幕府の執権(1227~1263)が諸国巡行の節、謹みて『梅田神社』の称号を賜った。室町時代には、丹波守護細川氏の崇敬があつく、細川勝元は宝徳2年(1450)神領地を寄進し、境内地とともに免租地としたという。天正5年(1577)明智光秀の兵火にかかり衰退したが、本殿は焼失を免れたと伝える。その後、当地を領域とする篠山城主青山下野守は特に信仰が篤く、かつてのように境内及び神領をご赦免地とし、古式による神事祭典を行った。当社には葺替等の修理に関する棟札が多く伝わり、社殿にかける人々のあつい思いがしのばれる。境内には大変めずらしい榁の古木がある。」
京都府亀岡市旭町宮ノ元23
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鳥居

ムロノキ(亀岡の名木)
「常緑低木まれに高木。やせ地や湿地に生え、成長は遅くまれに大木となるが、これだけの大木は極めて珍しい。一般に用いられる名前はネズでネズミサシ、ネズとはこの枝を鼠の通り道に置くと葉が鼠を刺し、そのうち鼠がいなくなったことから『ネ居ず』が転訛してネズとなったといわれている。胸高幹回2.2m、樹高12m」




本殿(重要文化財)
「現在の本殿は、建武5年(1338)北条高時、執権のとき、家臣藤井盛次に命じて建立した。一間流れ造、檜皮葺である。長禄3年(1459)の修理をした。全体に装飾は控えめで、架構は簡素である。細部様式は古様を示すものが多く、その中で身舎頭貫に大仏様系の木鼻を用い、斗栱肘木に禅宗様の笹繰を施すなど、鎌倉時代に宋から伝来した様式を採用していることが注目される。緩やかな屋根の曲線と軒反りの美しい、繊細高雅な建築である。」





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