2021年12月12日、お参りしました。
由緒書より「当神社は、680(天武天皇8)年9月15日、豊前国宇佐八幡宮より勧請されたという言い伝えがある。848(嘉祥元)年、社殿を再建した記録があり、以来、幾度か修復再建が繰り返され、現在の社殿は明治29年5月に再建され、瓦葺きのものであったが、老朽化が著しく、昭和60年9月拝殿を、翌年、本殿を修復、銅板葺としたものである。当宮は徳川将軍より1648(慶安元)年、御朱印、高九石を下され、主松平兵部大輔殿以来1860(萬延元)年まで216年御朱印領として栄えた。現存建築物の主なものは、本殿銅板葺流造六坪、拝殿銅板葺入母屋造16坪2合5分、門守3坪、能舞台10坪、昔は橋掛り楽屋等があった。古来より氏子地は、平野町下村、向井、福中、芝崎、大野、慶明および玉津町田中、居住、小山の9地区であった。当神社北の台地に三木別所方の福中城があり、1578(天正6)年織田信長の軍勢が三木城を攻める時に、この城から、古三木街道の神出との境にある坂(矢の坂)に陣取った秀吉軍に矢を放ったため、所在がばれ落城したとの話が残されており、その弓が今も当神社に残されている。また、拝殿の前には能舞台があり、江戸中期の元禄時代以降、明治時代末期まで一般庶民が歌舞伎や能舞を演じて楽しんだ。」
神戸市西区平野町184
map
社碑
鳥居
神門
社務所
手水舎
由緒書
古札納所
狛犬
拝殿
本殿
石灯籠
能舞台
太鼓蔵
稲荷社
末社
庭園
由緒書より「当神社は、680(天武天皇8)年9月15日、豊前国宇佐八幡宮より勧請されたという言い伝えがある。848(嘉祥元)年、社殿を再建した記録があり、以来、幾度か修復再建が繰り返され、現在の社殿は明治29年5月に再建され、瓦葺きのものであったが、老朽化が著しく、昭和60年9月拝殿を、翌年、本殿を修復、銅板葺としたものである。当宮は徳川将軍より1648(慶安元)年、御朱印、高九石を下され、主松平兵部大輔殿以来1860(萬延元)年まで216年御朱印領として栄えた。現存建築物の主なものは、本殿銅板葺流造六坪、拝殿銅板葺入母屋造16坪2合5分、門守3坪、能舞台10坪、昔は橋掛り楽屋等があった。古来より氏子地は、平野町下村、向井、福中、芝崎、大野、慶明および玉津町田中、居住、小山の9地区であった。当神社北の台地に三木別所方の福中城があり、1578(天正6)年織田信長の軍勢が三木城を攻める時に、この城から、古三木街道の神出との境にある坂(矢の坂)に陣取った秀吉軍に矢を放ったため、所在がばれ落城したとの話が残されており、その弓が今も当神社に残されている。また、拝殿の前には能舞台があり、江戸中期の元禄時代以降、明治時代末期まで一般庶民が歌舞伎や能舞を演じて楽しんだ。」
神戸市西区平野町184
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社碑
鳥居
神門
社務所
手水舎
由緒書
古札納所
狛犬
拝殿
本殿
石灯籠
能舞台
太鼓蔵
稲荷社
末社
庭園