曹沖、字名は倉舒(そうじょ)。曹操の八番目の息子です。曹操と言う人物は、性癖というか、敵将を亡ぼすと必ず后を自分の側室に取り込んできました。曹沖もその例にもれず側室に入って出来た子なので曹操の子として順列に入ります。
幼少の頃から学問好きで、聡明な上に心優しかったため家臣からの信望も厚く、将来を嘱望されていた。曹操もその才を溺愛し、一時は嫡子曹丕よりも、曹沖に後継させようと考えていたほどであった。しかし曹沖はわずか13歳で早世してしまう。死後、鄧哀王と諡された。
また一説によると、曹操の屋敷の中に百歩蛇という毒蛇がいたが、曹丕がそれを使い,曹沖を毒殺したとあります。長男である自分が、疎まれて、末弟の曹沖が曹操に溺愛されていたのを嫉妬したんですね。その後、先に述べた曹植とも跡目争いをして後に皇帝の座につきました。曹操の子達は皆、異母兄弟だったんですね。
曹操の典医、華佗は中国史上稀に見る名医だった。しかし曹操が華佗を重用しなかったので、華佗は医学書を取りに行くといって故郷に帰ったまま、2度と帰って来なかった。怒った曹操は、諫める部下の言葉に耳も貸さずに華佗を投獄し、拷問の末に殺してしまった。それを知った曹沖は、嘆きのあまり死んでしまったとされる。どれが本当だか分からないね。
これには別の話が合って曹操は脳腫瘍の病気があって、それを治すべく華佗を呼び寄せたが、脳を切り開くと聞いて曹操が激怒して華佗を殺したとあります。その時に曹沖が亡くなったとは書いてありません。
因みに華佗は寿亭候の関羽の臂の治療をして「名医と名患者」の話がありますね。少林寺の五拳は華佗の[五禽の戯]を参考に作られたとあります。
また弟子の法某に医術書を伝授したが、留守にしている時に女房が庭で焚火にして焼いてしまっていて「こんな書は、生活には役にたたない」と言ったとか。
曹操は危篤状態の曹沖を回復させるため、医者のみならず普段は迷信的であるとして馬鹿にしていた「拝み屋」までを各地から集め、祈祷させたという。死後は、同時期に死んだという美しいと評判の甄家の少女の遺体をもらい受け、結婚式と葬式を同時に挙行させたという。吉川幸次郎氏は「いわゆる冥婚の最も早い例の一つ」と『三国志実録』の中で述べている。
幼い頃から学問を愛する心優しい性格の曹沖を、曹操は溺愛しており、周囲の者もその将来を嘱望していました。まだ曹沖は幼少で亡くなった為に詩とかは残っていませんが、数少ないですが逸話が残っています。曹沖の聡明さや優しい性格を伝える逸話がいくつかあります。
倉庫に保管してあった曹操の鞍(馬具)がネズミにかじられてしまったと言うことがありました。この時代、ネズミに何かをかじられるのは不吉の前兆であるという迷信がありました。事を知った曹操は怒り、責任者の倉庫番を処罰しようと考えました。話を知った曹沖は、倉庫番に『三日経ってから自首しなさい』と言った上で、自分の服にわざと穴を開け、嘆き悲しんで見せました。息子のただならぬ様子を案じた曹操が理由を尋ねたところ、曹沖は服の穴を見せ『ネズミに服をかじられました。不幸が起こるかもしれません』と曹操に訴えました。曹操は『それは迷信だから安心しなさい』と諭したといいます。三日後、倉庫番が曹沖に言われた通り自首しましたが、曹操は笑って彼を許し、咎めませんでした。
また、曹操の元に、孫権から贈られたゾウが届いた時のこと。その大きさに感心した曹操は、ゾウがどれほどの重さがあるのかと使者に訪ねましたが、誰もゾウの重さを知るものはいませんでした。
その様子を見ていた曹沖が父、曹操に「まずゾウを船に乗せ、水面のところに印をつけます。ゾウを船から下ろして、代わりに石を積んでいきます。ゾウを乗せた時と同じ所まで船が沈んだら、積んだ石の重さがちょうどゾウの体重と同じになっているはずです」とアドバイスしました。曹沖の利発さに、曹操は大いに喜んだと言われています。
利発な子は針外しはとても羨ましいね。でも早逝したんじゃね。