皆さんは韓非という人物をご存知でしょうか?。秦の始皇帝が一篇の書を見たとき「これを書いたのだ誰だ」と言わしめた人です。その言を編纂したのが韓非子です。
其の中の五蠹(ごと)編(五匹の害虫という意味です。蠹は木食い虫です。)其の中に[守 株]と言う一編があります。当時の世相は儒家思想が主流で堯、舜等が崇められて彼等の理想が実現したとして彼等を見習う事が現実の混乱を救う道だとしました。
それを韓非子は時代錯誤だとして嘲笑したのです。それをこの[守 株]の例え話で皮肉ったのです。
宋人有耕田者。田中有株。兎走触株、折頸而死。因釈其耒而守株、冀復得兎。兎不可復得、而身為宋国笑。今欲以先王之政。治当世之民、皆守株之類也。
[守 株](くいぜを守る)
宋人に田を耕す者あり。田中に株有り。兎走りテ株に触れ、頸(くび)を折って死す。其れに因りて、耒(スキ)を棄てて株を守り、また兎を得る事を冀(こいねが)った。兎を復(また)得るべからず。しこうして其の身は宋国の笑いとなれり。文意はお分かりだと思います。
これは皆さんご存知の「待ちぼうけの歌」の元となったものです。この歌を作った人もとんでもない所から、発想して歌を作ったもんですなあ。
韓非子の言いたいのは、昔の偉人と言われる人を見習うのは、この[守 株]をしているのと、大差ないのだと。兎がたまたま獲れた株を後生大事に守るのと同じだと言うのです。政治とかは、其の時其の時によって、場合が違いますので、見習ってもしょうがない」という事です。兎が株に触れて死んだのは、偶然であり、聖人が治世したのはその時代の事であり、聖人の施政のコツなんて分かるはずが無いし今の世には通用しないという事です。
これと同じ事を書いて居る物に荘周[荘子]の天道編にあります。
斉の桓公が御殿の上で本を読んでいると、車大工の輪扁と言う男が来て「殿様の読んでいる御本は誰の言った事が書いてあるんですかい?。「聖人の言葉が書いてあるのだよ。」「じゃーその聖人は今生きているんですかい?。」「いや、もう亡くなられた方達さ。」
「じゃー、殿様の読んでいなさるのは、昔の人の糟粕(かす)じゃないですか!?。」
桓公「車大工の分際でけしからん。其れ相応の申し開きが立たなければ其の方の命は無いぞ!」
「いやー私は自分の仕事の上で申しますが木を削って輪に仕組むのにあまりゆっくりやりすぎると甘くなってガタガタになりし、急ぐと硬くなって、上手く嵌り込みません。このコツは口で言っても伝わらないですよ。倅が自分でやらないと、会得出来ないんですよ。だから、昔の聖人も死んでしまえばその心の術が伝わるはずがねえ。だから殿様の読んでいる本は昔の人の酒粕だと言っているんですよ。
形骸化した基準を鵜呑みに信奉する教条主義、固定化された経験に頼ろうとする、経験主義に対する、痛烈な批判です。
まあ、状況の変化に柔軟に対応する、柔らかい頭を持とうと言う事ですね。しかし、今の議員殿、官僚達は、昔の施政の真似事すら出来ない御仁が一杯ですねえ。やっている事が甘い。これは規律が甘いからですね。昔は悪いことすると、即、首を落とされたからね。