針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

黄飛鴻(数々の映画が出された)

2024-12-31 21:04:03 | 武道・拳法の話

黄 飛鴻(こう ひこう: 黄飞鸿Huáng Fēihóng(ファンフェイホン)は、清末民初の武術家、元の名は黄錫祥、字は達雲、幼名を黄飛熊と名乗っています。原籍(本貫)は広東県広州府南海県(現・仏山市)西樵嶺西禄舟村。

                                                                 
                                                                                  黄 飛鴻

「広東十傑」の1人に称された武術家・黄麒英(ウォン・ケイイン)の息子で、父より南派少林拳の一派である「洪家拳(こうかけん・はんかけん))」を叩き込まれ、父と共に中国各地で演武および武者修行の流転旅を続ける少年期を送る。その技は13歳の時点で既に道場主に匹敵するほどの完成度であり、「少年英雄」と称された。

鐵線拳の元である鐵線技法は、五枚尼姑・方詠春より学んだ短橋狭馬の技を洪熙官(ハンシークァン)がまとめたとされ、虎鶴双形拳は南少林寺の至善禅師より学んだ長橋大馬の技を洪がまとめたものとされている。

やがて父の死に伴い、父が経営していた漢方薬局兼拳法道場である「寶芝林」の跡目を継ぐ。欧米列強の進出に伴い荒れる時代を予測して農民たちに武道を教え、自警団を率い民間レベルで治安の混乱を防いだ。のちに官軍や警察などにも同様に洪家拳を教授し、動乱時代の国の治安維持に尽くした人物として現在も評価が高い。

仏山市の中心地区にある祖廟の隣接地に「佛山黄飛鴻紀念館」が作られ、家族の紹介や関連映画、粤劇(えつげき)武侠小説に関する展示などが行われているほか、演武や獅子舞が披露されている。中国の武術家の中で、最も多く映像化されている《黄飛鴻》の彼は電影史上のヒーロー、中国近代史上では最大の武術家の一人。

                                                   

                                                     仏山黄飛鴻紀念館の入口

 

道光27年(1847年) 広東南海で生まれる。 咸豊(かんぽう)3年(1853年) 5歳で父の黄麒英から武術を習い始める。 咸豊9年(1859年) 父とともに佛山、広州、順徳など各地で武術を演じる。棍の達人を破り「少年英雄」の名を得る。

咸豊10年(1860年) 13歳頃、佛山豆豉巷で武術を演じているとき「広東十虎」鐵橋三の高弟・林福成の弟子となり、2年間学び鐵綫拳や飛鉈を習得する。同治2年(1863年) 父、死亡。広州に移り住み「寶芝林」館主となって第七甫で労働者たちに武術を教え始める。この頃から見世物の武術を演じなくなった。

同治5年(1866年) 西樵官山で盗賊団に遭遇し、一人で数十人の盗賊団を撃退する。同治6年(1867年) 西洋人が企画した「素手で猛犬を倒せたら賞金」の賭けに挑戦し「無影脚」で瞬殺、その名を轟かせる。

光緒14年(1888年)黒旗軍の劉永福に武術教官に招かれ、劉永福より「醫藝精通」の額を贈られる。民国14年(1925年)広州城西方便医院で逝去。

黄飛鴻の代表的な(伝説的な)技として有名なのが「無影脚」である。これは正式な技の名称ではないが、その素早さは疾風の如く、地面に足の影さえ映る暇もないほどの素早い連続足技だったことから、この名で称された。もともと足技主体の北派少林拳の一種の燕青拳の技だったが、飛鴻は北派の武術家・宋輝堂と自分が伝承してきた洪家拳の技の1つ「鉄線拳」とこの足技を交換教授して会得し、以後は自分の代名詞となるほどに磨き上げていった。無影脚についての公式な試合記録は数点現存しているがいずれもその脅威の速度と破壊力に言及しており、足技においては「彼以前も以降もない」とされている。

彼の伝えた武技は虎拳(伏虎拳、工字伏虎拳)、鉄線拳十毒手梅花拳梅花十字拳夜虎出林二龍争珠三箭拳五郎八卦棍胡蝶子母刀飛鉈など多岐にわたり、高級技法として五形拳(龍形・蛇形・虎形・豹形・鶴形と金行・木行・水行・火行・土行の陰陽五行を相克させた拳法)と十形拳(龍・蛇・虎・豹・鶴・獅・象・馬・猴・彪)を学ぶ。飛鴻は中でも「虎形拳」を大変得意とし武術仲間から「虎痴」とあだ名されるほど多用したと言われる。また父・黄麒英伝の五郎八卦棍少林五虎の1人・鉄橋三(本名:梁坤)の弟子「林福成」から学んだ鉄線拳を練習すると、屋根瓦が震えるほどの剛強な呼吸法だったと言われる。

獅子舞の名手としても知られ、その技術の高さから「獅子王」という称号も持つ。

飛鴻の没直後から、中国各地の新聞や雑誌などで黄飛鴻の伝記小説や武勇伝が盛んに連載されたことを機に一気に飛鴻の伝説は広まる。彼を題材とした映画は、第二次世界大戦後である民国38年(1949年)に制作された(関徳興)(クワン・タッヒン)主演の『黄飛鴻傳上集・鞭風滅燭』が最初である。以降おびただしい数の飛鴻映画が製作され、2007年現在までに香港で製作された飛鴻を描くカンフー映画は84本にのぼり、これは同一題材で製作された映画の数としては現在世界最多でギネスブックに掲載されている。彼を主人公にした作品で日本でも著名なものは、ジャッキー・チェン主演の『ドランクモンキー』や、ジェット・リーやリュウマンチェク主演の『ワンス・アポン・ア・タイム』シリーズなどがある。

飛鴻の弟子の1人であり彼の片腕とされた武術家・林世榮(ラム・サイウィン)の弟子、すなわち飛鴻の孫弟子にあたる劉湛(ラウ・ジャーン)の息子が劉家良(リュウ・カーリョン)である。飛鴻直系と言われる洪家拳を父から学んだ劉家良はその完成度の高さから「洪家宗師」と称されるが、もともと父が武術家としての傍らアクション映画に端役で出演していたことから映画関係にも明るく、やがてショウ・ブラザースを始め数多くの香港映画界でカンフー映画の武術指導を手がけ、自身も多くに出演するなどして香港カンフー映画の隆盛を支えた。なお前述の新聞等で連載された飛鴻の小説の作者・朱愚斎も、本来は林正榮の弟子の武術家である。

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たまには

2024-12-24 14:55:21 | フライの話

針外し「大腸癌」になってがんは綺麗に治ったのですが、抗癌剤の後遺症が残って何やるにしても根気だ無くなってしまいましたが先日、採血取ったらまたヘモグロビンが減ってまた疑わしい。

で胃カメラ呑んできた訳ですが、胃はピカピカに綺麗だった。食道の上の方に出血しているみたいでまたやる気が失せてしまいました。今度、それの結果待ちで外来に行くんですが,嫌ですね。嘗てブログ仲間だったmiddleaxisさん、そのお姉さんの佳純さんが死を待つ気持ちが嫌と言うほど良く分かります。

middleaxisさん、そのお姉さんの佳純さん fusiginamarimoさん ra9gaki_doさんと折角ブログ友達になれたと思ったらブログ閉じてしまって、残念ですね。
折角できた知己を無くすのも辛いですね)
 

とまあ、愚痴っても仕方がないので、暫くフライタイイングをしていないので、巻きたい気持ちが増して来たんですが、再びこんな状態になってしまって、やる気が出ません。結果が出たら覚悟を決めて巻こうと思っています。

 

                            

タイイングしていると色々なマテリアルを出して店を広げますんで、そこまで、「その気」になれないね。それまでは、動画と写真を見てどうやって巻いているかとか、下準備で行程を頭に叩き込んでおこうとします。

                         

とかなんとか言っても見ているとウズウズして、早くこういう風に巻いてみたいと思いますね。写真のフライアントだって、羽の長さにしてもやはり最後には適正さが物言ってきます。

                            

妙に羽が長かったりするとフックに対してもバランスが悪い。ま、フライトいうものは、そうであっても、そんな出来損ないのフライでも食ってくるのもありですが。

                           

兎角フライを巻いていて思うのですが、見ようによっては蜂とも取れるし、要はその人が「こうだ!」と決めて巻けば「蜂」にもなるし「トビケラ」にもなると言う事ですよね。

あー、早くすっきりしてとっかかりたいもんですね。

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香炉峰が出たので。

2024-12-10 21:35:27 | 漢詩・古典・エトセトラ

『枕草子』299段に書かれたエピソード…「かうろほう(香炉峰)の雪いかならん」と主である皇后に問われてお傍の女官のひとり清少納言が「すだれを挙げてみせた」という話で有名です。長恨歌の中の一節の「峨眉山の下、人の行く事稀なり」と「香炉峰」とをごっちゃにしてました。但し書きに書いてあるのがゴッチャになって覚えていたんですわ。

【香炉峰下新卜山居】

日高睡足猶慵起  日高く睡り足れるも猶起くるにものう

小閣重衾不怕寒  小閣しょうこうふすまを重ねて寒きをおそれず

遺愛寺鐘欹枕聴  遺愛寺の鐘は枕にそばだちて聴き

香炉峰雪撥簾看  香炉峰の雪はすだれをあげてながめる

匡廬便是逃名地  匡廬きょうろ便すなわち是れ名を逃るるの地

司馬仍為送老官  司馬はお老いを送るの官と

心泰身寧是帰処  心ゆたかにやすきは是れ帰処

故郷何独在長安  故郷独り長安に在あるのみなるけんや

                               

『香炉峰下新卜山居』訳

陽は高く昇り寝足りていながらなお起きるのはものうい。 小さな二階建ての草堂で布団を重ねて寝ているので少しも寒くはない

近くの遺愛寺の鐘の音は枕に頭をつけたまま耳を傾け。 香炉峰の雪はすだれをあげてながめる

廬山はこれ隠遁の地。 司馬という役職もまた老人用の閑職だ 。 心身ともにやすらかに過ごせるところこそ己が帰るべき場所。 長安の都だけがふるさとではないよ。


六本木に住んでいた頃、龍土町の西麻布の近くに「中華料理・廬山」がありまして、そこのシェフが作る団子(ゴマではなく、色の凄くケバイ色の団子)がとても美味しかったのを覚えています。何かの会でお店を使った時にお土産で出してくれたんですね。

ただ、それを頂いてすぐに、退職されたみたいで、食べられなくなりました。美味しい味が今でも舌に残っています。

なんだよ、最後は「食い物」の話になっちゃうんだ!。

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会稽之恥(かいけいのはじ)と言う故事。

2024-12-06 19:33:00 | 漢詩・古典・エトセトラ

会稽之恥(かいけいのはじ)

会稽山(かいけいざん)は、中華人民共和国浙江省紹興市の南部に位置する山。中国の歴代王朝で祭祀の対象となり、五鎮名山の中の南鎮とされます。

山麓には長江流域最古の新石器文化を示す河姆渡遺跡(かぼといせき)が存在し、古くからの人類の活動が確認できる地域です。越王句践の故事「会稽の恥」でも知られています。この会稽山に有名な「香炉峰」があります。『枕草子』299段に書かれたエピソード…「かうろほう(香炉峰)の雪いかならん」と主である皇后に問われてお傍の女官のひとり清少納言が「すだれを挙げてみせた」という話で有名です。

                                   

旧名を茅山、別名を畝山と言います。夏朝・禹の時代には会稽山の名称が使用されていた。禹が死去した地であると記されており、現在も禹を祭った禹王廟が位置する。地名は禹が死去する際、諸侯が一堂に会しその業績を計ったことから「会稽(会計に通じる)」と称されるようになった。しかし近年の言語学者らの研究により、会稽は越の「矛山」という意味であることが分かった。江南は古代中国では越国の領地であって、言語も当然越語が使われていた。

                                       

 

敗戦の恥辱。他人から受けたひどいはずかしめ。

 中国の春秋時代後期、呉王闔閭(かいりょ)(?~前496年)は呉を一大強国へと成長させたが、隣国の越王勾践(こうせん)(?~前465年)に破れ、息子である夫差(ふさ)(?-前473年)に 復讐を誓わせた。夫差は常に薪の上に寝て復讐の志を奮い立たせた訳です。

 三年の間、夫差は日夜兵を鍛えて復讐に備えているという報せは勾践の耳にも届いた。勾践はこれに先んじて呉を討とうと兵を挙げたが、鍛え上げた呉軍の前に惨敗し、会稽山に逃げ込んだ。こ の会稽山で勾践は降伏して夫差の臣下になり、妻を妾として差し出すという屈辱を受け入れたのでした。

 勾践はひたすら呉に恭順を装い、野良仕事をし、妻には機を織らせていた。そばには、苦い肝を置いて、その肝を嘗めながら言った言葉が「会稽の恥を決して忘れはしない。」 このことから、前 述の夫差と合わせて「臥薪嘗胆」という言葉、つまり目的を遂げるために苦心し、努力を重ねること、が生まれた。

 その後、勾践は努力を重ねて越の力を蓄え、とうとう呉をほろぼし覇者となった。これが「会稽の恥」の故事です。

                       

 

                                                          

 針外しは以前から勘違いしていた事がありまして。長恨歌のなかの一節に 峨嵋山下少人行 峨嵋山麓の成都へと着いたが道を行きかう人は少なく)がありますが「峨眉山」を香炉峰に何故か置き換えてしまって覚えていました。

            

峨眉山は成都の南西方向にあり会稽山から程遠い処ですね。確かに西安から見るとそっちの方向に落ちていったのが頷けます。多分注釈の処に「長恨歌」の作者が白楽天が書いてあり、その時に入り混じってしまったのかも知れません。(中国文学にのめり込んだ頃、白楽天と白居易が別人だと思っていました。

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危険運転致死傷罪。

2024-12-01 16:21:49 | 日記

やっと危険運転致死傷罪にらなったと思ったら量刑が8年だってさ。おかしくないかい?。過失の上限が7年なのにたった1年加算されただけじゃないかい。少し法曹界の奴等頭が変じゃないのか?。

針外しはこう見えて法学部出て、量刑の基準と言うのを多少は理解しています。どんなに少なく見積もっても15年はくだらないと思っていました。

今の法曹界。司法の場では検察止めれば弁護士の資格が残るって知ってましたか?。だから裁判官もどっちの顔を立てるので量刑を「折半」で決めてしまいます。3人殺したら死刑だけど1人なら最大で無期、下手すると10年なんて事がザラですよね?。これじゃ「やくざの手打ち」じゃないかって。

         

娘さんがコメント出していましたけど危険運転致死傷罪になったのは大きな一歩だと言っていましたが量刑に関して「これでいいのか?」と疑問が残りますと言っていましたね。弁護人側の論法って一般常識から随分と離れているように感じます。確かに刑を軽くするのが弁護側なんだろうけどあまりに的外れな論法です。

ちょっと前では工藤会のトップの死刑を言い渡したのに下の根の乾かぬうちに無期懲役に変えてしまった。安倍の事務所に出入りして色々バラされるのが怖いと思ったのか、はたまた報復を恐れたからなのか?。

いいですか、法律というのは厳正でなければなりません。厳しい判決で「示しを付ける」のが根底にないと「法律の役目が果たせない」のですよ

この件に関しても安倍の「森友」「加計」「桜」で裏工作した畝本夫妻がからんでいるのかね?。それともこいつ等を脅かしていう事聞かせている奴がいるのかね?。

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