針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

金陵鳳凰台置酒

2022-02-28 09:03:28 | 漢詩・古典・エトセトラ
                       
 
  金陵鳳凰台置酒   唐  李白

  置酒延落景,金陵鳳凰台。 酒を置いて、落景を延ばす、金陵の鳳凰台。
  日の暮れるまで酒宴を張る 金陵の鳳凰台で

  長波寫萬古,心與雲俱開。 長波万古に寫ぐ、心は雲與(と)俱(ともに)開く。
  長江の万古変わらずそそぐを見れば心は雲と共に開け広がる

  借問往昔時,鳳凰爲誰來。 借問す往昔時、鳳凰誰の為に来る。
  言問はんその昔、鳳凰は誰の為に来たのか?。

  鳳凰去已久,正當今日回。 鳳凰去って已に久し。正に當に今昔廻るべし。
  鳳凰去りてすでに久しまさに今日こそ廻り来る時である。 

  明君越羲軒,天老坐三台。(今や)明君羲軒に超え、天老三台に座す。
  いまや明君は伏羲・黄帝にも勝り 賢臣が三公の位にある。

  豪士無所用,彈弦醉金罍。 豪士(ごうし)用いる処無く、琴を弾いて金罍に酔う。

  文豪も用いるところなく琴を弾いて美酒に酔うのみ。

  東風吹山花,安可不盡杯。 東風(こち) 山花を吹く。安ぞ(いずくんぞ)杯を盡(つく)さざる
  春風は山花を吹く好季節。どうして杯を重ねて、痛飲せずにいられよう。

  六帝沒幽草,で深宮冥綠苔。 六帝、幽草に没し、深宮綠苔に冥(くら)し
  六朝(りくちょう)の皇帝の遺跡も草に埋もれ、その深宮は苔むして暗い
  
  置酒勿複道,歌鍾但相催。 置酒して復言う勿れ歌鍾、但(はなはだ)相(あい)催(もよお)さん
  そんな事なんてもう言うな。只、酒宴を張って謳って囃し立てよう。

           

「今の皇帝は明君で伏羲・黄帝にも勝り 賢臣が三公の位まであって、盤石だ!」。此処で現皇帝をうんとよいしょしておかないとね。豪士たる我々は(豪士と言うのは、暗に李白達)。

用いられる処も無い。琴を弾いて酒に酔うのみである。
自分達が宮中で居場所が無くなって、しまっています。宮中が安定してしまって、自分達の棲む場所(活躍する場)が無くなってしまったのは何とも嘆かわしい。

ここで、針外し曰く、「でもねえ、狡兎死して走狗烹らる」って言うじゃないですか。用が無くなって殺されるよりいいじゃないですか?
金陵鳳凰台
昔、ここ金陵 (南京) の鳳凰台の上には、鳳凰が飛んで来て遊んだと伝えられているが、今では、鳳凰は去り、台だけが空しく残り、台の下の長江 (揚子江) のみが昔ながらに流れている。はるか西南の方向に見える三山は、雲の上にまでそびえ、中腹から下は青空の外へ落ちかかっているように見え、また二水は白鷺洲をはさんで二つの流れとなっている。

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北京冬季オリンピックを観て。

2022-02-24 08:52:24 | 日記

一寸前に、書いたので、この記事がタイムリーでは無くなってしまいましたが、ワリエナのドーピング問題は未だ解決していません。 
 先日、ハーフパイプの採点が偏っているという話をしましたが、氷上での競技が、いくら氷の上だからとはいえ、転倒者が多すぎるような気がする、最初の「羽生選手」の4回転アクセルの時も氷が妙に掘れていて回転出来ずになってしまったし、高木兄弟佐藤さんのパシュート、姉の菜那さんの時も本来あんな転倒をするはずがない。あの転び方は、「ガクンッ」という位の衝撃を受けた感じのものだ。

 それがなんと、2回。2回目でうんと「胡散臭い」気がしました。IOCは開催国の面子を重んじる傾向がある事は前に書きましたが、(そうしないと開催してくれる国が無くなってしまうからだ)品目の少ない冬季で,常勝国を作りたくないというのが本音だろう。
それもそうだが個人が3つも4つもメダルをぶる下げているのをIOCは特に嫌っているんだろう。

 だから、開催国と協議して、常勝国にメダルを渡すのを少なくするのは十分に考えられる。パシュートにしても高木兄弟が独占に近い、また小平奈緒選手も金の予想がされる。IOCがもっと弱小国にもメダルが渡って貰いたいと思うのはあり得る。
 高橋沙羅さんにしてもワールドカップとかでビュンビュン飛んで優秀な成績を残しているのを見てIOCは面白くないと感じたのかも知れない。(針外しはもっと秘密裏にしていた方がいいのではないかと前々から思っていました)

で、そうしないと、参加する国でメダルが一個も取れていなければ面白くない。結果、冬の参加を見直してくる。当然冬季のオリンピックへの賛助金も減ってくる。

今冬季オリンピックで覇を唱えているのはオランダ、ロシア、アメリカ、日本が主。嘗てチェコはアイスホッケーでロシアと優劣を決めていましたが、最近はカナダ辺りが出てきて影が薄くなってきた感があります。
今回の氷上での競技でスピードスケート、パシュートで転倒者が多かった。中国のメンテの悪さが上げられるのかも知れませんが、何かわざと感が感じられてしまうね。

 日本の方々はご自分達の正義感とか人柄の良さで「そんなことはありえない」と仰るかも知れませんが、ひねくれ者の「針外し」は穿った見方しか出来ません。その選手の通るべきデータを取って氷上での軌跡上に細工をするなんて事は平気でやってくる。何回も言うけどあんな処で高木(姉)が転倒するなんてありえない。

昔、社民党の土井氏が「北朝鮮が拉致をするなんてありえない」と喧嘩腰で息巻いていたのと同様に(結果、北朝鮮が拉致を認めた)中国と言う国はそういう一面を持った国なんです。IOCもね。

 夜にそういう担当者が暗躍しているとしか考えられない。また、コースのメンテをしていた係員をもう一人の上司か分かりませんが後ろから急かせていたのを観ました。

 確かにメダルの平均化は理想だけど、真面目に取り組んで金メダルを目指している、選手はたまったもんではありません。

こういう構図をみていると、幼稚園、小学校の運動会の競技で、全生徒が平等に一等賞を取る構図(落ちこぼれを出さない)に似ているね。IOCはやはり幼稚なのかね?。

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誰か教えて。

2022-02-18 08:37:06 | 針でも知ってるパソコンの話し

 以前から針外しを悩ませていたものに「ONE DRIVE] があります。通常、YAHOO辺りに設定しておくとサッサとワンクリックで開いてくれるものらしいのだが、例えば針のブログを開こうとすると、一緒に立ち上がって、これがなかなか時間が掛って鬱陶しい。

 上のバーに一緒に立ち上がって、先に開こうとする訳だ。だから、ヤフーを消してブログを開こうとするとこれも遅い!。

 検索して、プログラムに入り込んでいるONE DRIVEをアンインストール。PCにあるダウンロードの中にある此れも消したんだが、パソコンを立ち上げた時にまで一緒に出てくる。

 スタートの横にある検索でファイルのある場所を見ても見方が分からない。誰か詳しい方が居ましたら教えて下さいませ。

パソコンから完全に抹消したい。

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子夜呉歌

2022-02-15 22:03:55 | 漢詩・古典・エトセトラ

 またまた唐詩です。唐詩300首の一つね。
               

            

子夜呉歌    <李白>

  • 長安 一片の月       ちょうあん いっぺんのつき ぽつんとある月
  • 萬戸 衣を擣つの聲     ばんこ ころもをうつのこえ
  • 秋風 吹いて盡きず     しゅうふう ふいてつきず
  • 總て是 玉關の情      すべてこれ ぎょっかんのじょう
  • 何れの日か 胡虜を平らげて いずれのひか こりょをたいらげて
  • 良人 遠征を罷めん     りょうじん えんせいをやめん

    長安の夜空にはぽつんと一つの月がかかっており、あちこちの家々から砧を打つ音が聞こえてくる。また秋風は絶えまなく吹き続け、さらにこれらは(月光・砧の音・秋の風)すべて玉門関に遠征している夫を思い慕う情をかきたてる。いったい、いつになったら夫は異民族を平定して、遠い戦地から帰ってくるのであろうか?。          

    この詩は李白なんですが、東晋の時代に呉の国(江蘇省)に「子夜」という女性が作ったと言われる歌曲。これに多くの詩人が「調べ」に合わせて「詩」を作り唱和したとの事です。

この詩を見る度に、日本の万葉集の「防人の歌」に行ってしまいますね。2,3挙げてみると

国国の 防人つどひ 船乗りて 別るを見れば いともすべ無し

(現在語訳) 全国から集まった防人が(任務のため)船に乗って別れることを見れば、なんともなす術もない。

わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず

(現代語訳) 私の妻はとても恋しがっているようだ。飲もうとする水に影までもみえていて、決して忘れられない。

唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして

(現代語訳) 唐衣にすがって泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきてしまったなあ、母もいないのに。

大分前にうちの長男が中国に修学旅行に行った時に八達嶺の万里の長城は、とてつもなく「寒い」と言ってました。昔の兵士はさぞ辛かったんだろうね。今北京でオリンピックを開催していますが、スノーボードとかで落ちると氷が石のように固く、「落ちるのだけは絶対に嫌だ」らしいっす。(何でサマーズが出てくるんだよ)ハーフパイプの平野君も「落ちたら死を覚悟」だってさ。

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世に伯楽有り然して後に千里の馬有り。

2022-02-14 09:26:14 | 漢詩・古典・エトセトラ

 唐宋八家門の中で韓愈の話が出たので、再び登場です。「伯楽と千里の馬」についてです。

これは韓愈の「雑説」の中の文章です。中学校の漢文の授業で出てきてご存知の方も多いかと思います。唐の科挙の元、試験官に「人を観る能力のある奴がいない」と嘆いたもので、「自分を天下の名馬」、試験官が「伯楽」に例えています。

            

『雑説』
世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。故雖有名馬、祇辱於奴隷人之手、駢死於槽櫪之間、不以千里称也。馬之千里者、一食或尽粟一石。食馬者、不知其能千里而食也。是馬也、雖有千里之能、食不飽、力不足、才美不外見。且欲与常馬等、不可得。安求其能千里也。策之不以其道。食之不能尽其材。鳴之而不能通其意。執策而臨之曰、天下無馬。」嗚呼、其真無馬邪、其真不知馬也。
世有伯楽、然後有千里馬。

千里馬常有、伯楽不常有。故雖有名馬、祇辱奴隷人之手、駢死於槽櫪之間、不以千里称也。
千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。故に名馬有りと雖も、祇だ奴隷人の手に辱められ、槽櫪(そうれき)の間(かん)に駢死(へんし/べんし)して、千里を以つて称せられざるなり。

馬之千里者、一食或尽粟一石。食馬者、不知其能千里食也。

馬の千里なる者は、一食に或いは粟一石を尽くす。馬を食(やしな)ふ者は、其の能の千里なるを知りて食はざるなり

是馬也、雖有千里之能、食不飽、力不足、才美不外見。
是の馬や、千里の能有りと雖(いへど)も、食飽かざれば、力足らず、才の美外に見(あらは)れず。

且欲与常馬等、不可得。求其能千里也。
且つ常馬と等しからんと欲するも、得(う)べからず。安(いづ)くんぞ其の能の千里なるを求めんや。

策之不以其道。食之不能尽其材。鳴之不能通其意。執策臨之曰、
之を策(むち)うつに其の道を以つてせず。之を食(やしな)ふに其の材を尽くさしむる能(あた)はず。
之に鳴けども其の意に通ずる能はず。策(むち)を執りて之に臨みて曰はく、

千里を走る馬は、一食に一石のもみを食べ尽くすこともある。
馬を養う者は、自分の馬が千里を走る名馬と知って養っているのではない。
この馬に千里の能力があったとしても、食を十分に得なければ力が足らず、才能の立派さが外には現れない。
その上、普通の馬と同じようにありたいと望んでも、それもできない。
どうしてその馬に千里を走ることを求めることができようか(求めることなどはできはしない)。馬をむち打つのに(=御するのに)、それにふさわしい方法でやるのではなく、馬を養うのに、(十分に食べさせて)馬の才能を発揮させることができない。
(馬は不満を訴えて)鳴いても、(伯楽でない人は)馬の気持ちを理解することができない。
むちを手に取り、馬に向かってこう言う。「天下に良馬なし。」ああ、本当に馬がいないのであろうか?。(それとも、本当は馬はいても)その馬の善し悪しを見分けることができないのであろう。
 人は、韓愈のように、その人によって不遇の感じ方があるかも知れないね。樹木希林さんが、「決して人の生活を羨まない事です」と言った事を思い出しましたが、なかなかその境地には辿り付きませんね。中国は人が多い。駄目な奴が世襲の元。高い地位にのさばっていれば、誰だって不満を持つのは当たり前なのですね。

 天下の名馬と言えば、赤兎馬は正史にもその記述があります。『後漢書』呂布伝や『三国志』呂布伝には、呂布が「赤兎」と呼ばれる良馬に乗っていた記述があり、特に後者では袁紹えんしょうのもとに身を寄せていた呂布が赤兎馬を駆り、袁紹の敵であった張燕ちょうえんを破ったことで、「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」言われるようになったという伝承が記されています。その後、曹操の元へ。その後、曹操が「関羽」を配下にしたいという「助兵衛根性」が仇となり、さっさと袁尚の元に逃げられてしまい関羽の乗馬になりました。

            
                     関羽将軍
  また「汗血馬」と言う馬がいて、実際に血を流していた、或いはそういう風に見えたという説も多い。馬の毛色によっては汗を流した時に血のように見えることがあるようだ。また寄生虫に寄生されている馬は実際に血の汗を流すことがある。この寄生虫による馬の能力低下はあまり無い。寄生虫の寄生(皮膚表面での吸血)による滲んだ血液が「血を流す」ように見え、かつその寄生虫による皮膚の刺激(痛み・痒み)によって、あたかも狂ったかのように(通常の馬としての巡行走行速度や走行距離以上に)疾走したというのが汗血馬のいわれでは、という説もある。
 針外しの大好きな「射鵰英雄伝」には郭靖がモンゴルで「江南七怪」と馬を捕まえますが、それが後に「赤馬」であったことを知ります。黄薬師の娘「黄容」と出会った時に出てきます。体中赤くて「血の汗」を流していました。

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何だか知らないけれど

2022-02-12 08:59:24 | 日記

 オリンピックでやたらと不正とする失格が出てきています。開催国が中国だという事も余計に不信感がありますね。大体オリンピックというのは、「開催国」に花を持たせるのが通例です。この間の日本でも裏では何しているかわかりません。ただ見ている限りでは不正らしい審判は無かったと思いますね。

 笑ってしまうのは隣のK国が中国のあまりに酷い偏ったしんぱんでIOCに提訴しています。普段はK国自体がそれをしているのにね。野球だって年がら年中、審判に言いがかりとも取れる「いちゃもん」を付けています。

 此処が我が国と中国の違いが出ているような気がします。高橋沙羅選手がいつもの検査と違い、服の下に履いている「スパッツ」を脱がされて計測されたとあります。担当者の検査官はポーランドの方らしい。ノルウェーの選手、ドイツの選手も標的にされてしまいました。
サッカーにしても審判の立ち位置、心で思っている感情でコロコロと審判の裁定が酷い物になってしまいます。

まあ、オリンピックと言う所はそういう所だと言ってしまえばそれまでですけどね。

 今回スピードスケートでも、タッチされていないのにそれを認めて挙句に金メダルをとってしまったり。
平野歩夢選手の判定にしても極端の突出した上、下の採点を削除する事で弊害を無くそうとはしているけど、やはり偏った採点がなされてしまいました。

平野君の場合は2回目をホワイト選手に忖度したけど、3回目失敗に終わり平野君が大成功に終わったので、アメリカの審判がこれ以上係わると自分に身が危うくなると判断したんだね

 此処ではひねくれ者の針外しは考えました。審判員が自国の選手に肩入れをするならまだしも、IOCは開催国の中国のIOC役員と共謀してある程度標的を作り、無理難題をふっかけて陥れているとしか思えないね。

中国は昔から「孫子の兵法」や「六韜三略」の戦の国です。いくらでも改ざんするのは当たり前。誤魔化し用の無い「柔道」とか「フェンシング」はいいですが、中東の国で開催されるサッカー等に同じアラブ系の審判をあてがう等もってのほかです。団体競技で審判の裁量で左右される競技が一番危ないね。

もっと、全くと言って関係のない第3国の審判を割り当てる様にしないと駄目ですね。
そうして、発表は当日。これならば賄賂も届かないだろうね。

あとIOCの役員も毎年夏、冬とも総取換えする。金儲けの温床を作らないようにする。これだけやってもまだ十分とは言えないかも知れません。目立った間違えはその都度改革していくのが重要ですね。悪さした審判は永久追放ね。IOCのバッハも更迭しないと駄目だ。

スポーツの世界をもっと純粋に楽しむ為にもこうした、裏での工作は是非無くしてもらいないものでありますね。

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形意拳系図

2022-02-11 08:43:26 | 武道・拳法の話

 前回、形意拳の名人、郭雲深師の話をしましたが、「それじゃー」という事で歴代の尊師の写真でも掲載しようと、「麻布暇人友の会」の針外しは考えましたぞ。(もう、いいよって!)そんな事言わずに。

 源流を辿れば、宋末期の「岳飛」になります。兎角、拳法界を始めとして、色々な門派が師祖として崇めています。三国志で有名な関羽とかね。フリガナはこの系図をwebで取ってきましたんでフレマセン。曹 継武以降、図の左側ね。形意拳門派とすれば始祖、岳飛→姫隆武→曹 継武→載 龍邦→李 洛能→郭 雲深ときます。郭老師の兄弟弟子には車 毅斉師、宋 世栄師師、劉奇蘭師がいます。その後、李 存義師、張 占魁師→傳 剣秋師、尚 雲祥師また別の流れで孫 禄堂師がいます。

 

            
                 師祖 岳  飛

                                     
       郭雲深      車 毅斉           宋世栄    李存義             張 占魁

                  
       傳 剣秋            尚 雲祥    李 洛能   孫 禄堂 

各、老師が丸い帽子を被っていますが、辮髪であり時代が清朝である事を示しています。形意拳の派には河北派と山西派がありまして、ちょっとずつ違いがありますね。って針外しが知っているのはこの位ね。

空手とか南派外家拳みたいな拳ではなく、「蜾絲拳」(らしけん)と「跟歩」(こんぽ)。空手の拳は表から破壊して外部を破壊するのに、形意拳の蜾絲拳は錐のように入って内部を破壊します。また跟歩は発勁を生み出す歩法だという事です。(へん!、知ったかぶりめ)

という事であまり喋ると「ボロ」が出るのでここで打ち切りです。(中途半端だなあ)

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半歩崩拳遍く天下を撃つ。郭雲深 (2)

2022-02-06 08:34:50 | 武道・拳法の話

 毎度毎度、皆様を中国古典の世界に引っ張り込んでしまい、さぞ、退屈されていると思い、此処で一寸、気分転換で拳法の話をします。もしかして、以前に取り上げたかも知れませんが、厚かましくも再度?とり上げようと思いますね。

郭 雲深(かく うんしん・Guo Yunshen、推定1820年~1901年頃)は、中国の武術家。形意拳の達人。諱(いみな)は峪生、字を雲深。

                       
                                  郭雲深
河北省・馬荘の人。一説によれば、貧しい鋳物鍛冶の子として生まれたといい、若年から好んで拳術を学んだが、数年学んだものの、何ら得るところが無かったという。後に李能然に遭遇し、語り合ったところ、形意拳は形式が極めて簡素ながら、その道の奥深いことを知り、郭雲深は形意拳に憧れを抱くようになったという。こうして李能然は郭雲深に真誠の心があると見て、その門下に収め、自ら親しく教授することとなる。 郭雲深は李能然の教えを受けても自ら悟ることがあり、いよいよ練功に励みて、数十年の間、朝夕欠かさず修練を続けたという。

 李能然が郭雲深に教えた手法とは、たとえば2人で対練した時など、一瞬の間に二丈の外に投げ飛ばされてしまう、だが、そこには苦痛は無く、あたかも手を軽々と一振りするだけかのようであるのに、身体が浮かされてしまうのである。その後郭雲深は何を学んでもその極意に達しないものは無かったといわれ、南北各地の同道の士と交流すること広く、体験することも多かったという。郭雲深の練った道理とは、つまるところ腹は実を極め、心は虚を極めることにあったと知られ、また兵書を好んで熟読し、奇門遁甲にすぐれていた。

奇門遁甲の創始伝説によると黄帝が蚩尤(しゆう)と戦っていた時に天帝から授けられたとされる。奇門遁甲を解説した詩賦である煙波釣叟悔賦では周の(太公望)や前漢、の張良、(劉邦の軍師)によって作盤方法の整理が行われたとされる。三国時代の蜀の諸葛亮なども用いたとされるが、これは伝説の域を出ない。紀昀(きいん)の『閲微草堂筆記』によれば、奇門遁甲の真伝は単なる占術ではなく呪術の要素も含んでいたようである。

 郭雲深の生涯は波瀾と数多くの伝説に彩られ、敵に半歩進んで五行拳の一つ、崩拳(ポンチェン)の一打を発すると敵は皆倒れた為、人々は「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」と賞賛を惜しまなかったという。

       
          崩 拳(空手で言う中段突き)両腕の交差によって突きがよく見えなかったらしい。

 また郭雲深は人を殺め、3年間を獄で過ごしてはいるが、これは義憤に駆られた郭雲深が、ある土地で民衆を苦しめる匪賊の首領の館に害意をもって招かれ、彼にピストルで襲われた際に、愛用の月牙剣(鹿角刀)をもってこれを殺傷して、人々の賞賛を浴びたからであり、また獄での郭雲深は、彼に同情的な官警の者たちの配慮と、彼の義挙に感銘を受けた人々からの多額な献金により、獄での3年間を何不自由なく過ごしたという。

      

 その弟子には、李魁元、錢硯堂、閉門弟子で意拳を創始した王郷斎、孫式太極拳の孫禄堂、「半歩崩拳」の呼び名を継承した尚雲祥などがいる。
また、董 海川(とう かいせん)と皇族(名前忘れた)の御前で手合わせをしたが勝負が付かなく、後に原理が同じであった事から、郭の門派は董の門派(八家掌)を学び、董の門派は郭の門派(形意拳)を学ぶ事にしたとあります。

                                       

                                                                       董 海川

董 海川(とう かいせん、1797年? - 1882年)は、清時代の武術家。宦官・八卦掌の創始者。原名は「海」後に「海川」に改名。 河北省文安県朱家塢村人。家は貧しかったが、武術を好んだ。安徽、九華山にて、「雲盤老祖」(別説では華澄霞(紅蓮長老))に出あい、その武術を伝授される。その後、日々練習を重ね、独自の工夫を加えて八卦掌を創造した。その後、北京に出向き、清朝の王族に認められ、絶技的武林大師と呼ばれる。 有名な弟子には、程廷華と尹福がいます。

最近?、の映画で「グランドマスター」に形意拳とか八卦掌が出てきますね。

         
      葉問(イップ マン)の詠春拳とチャンツイ―,宮若梅(ゴン・ルオメイ)の八卦掌

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神輿役員の合同鉢洗いだ。

2022-02-03 19:46:55 | 熊野さんのお祭り

 先日、全町会合同の鉢洗いがありました。年々、熊野神社のお祭りが成功裏に終わりいよいよ、盛り上がってきました。他所の町会に負けじと、色々と趣向を凝らしてきましたので、その町会のカラーも鮮明になってきました。

ご存じ飯倉五丁目町会は当初から町会長を始め、長老方、神輿青年部、婦人部が、それに、元副会長の小池さんの子息を初めとする、神輿同好会(担ぎ屋って言ってますけど)。それぞれしっかりとした、思惑を持って活動してきましたので、最初から血気盛んですけどね。

 熊野神社の祭りは総合芸術だ。ここまで来るのに、それなりに時間が掛かったけど年々と、盛り上がってきたのは嬉しいかぎりですね。

                                 

             左から飯五の軍師小泉さん、森元のお茶屋さん、次の方2名は分からないなあ!。白いYシャツの方が斉藤町会長。右の写真で挨拶をしているのが、森元の仕切り山田さん、と熊野神社宮司、佐々木の充っちゃん。神主さん聞いた所では、結構位が高いんだってさ。

                   

 真中が高井省吾君、と東麻布の杉ちゃん事、相田君。 そういえば飯五のクリス君、内藤君は仕事でこれなかったね。            祭りの立役者、太田の伊知郎(いっちゃん)

                                 
  
青のポロシャツを着ているのが「野田岩」ののぼるちゃん。我が飯五のホープ丸文の古田の誠ちゃん。「子供縁日」や今回の幟等々、企画に関する事は彼に任せています。知恵の宝庫って言っても過言ではないよ。

事を起こすのに、よく引き合いに出すのに「天の時、地の利、人の和」がありますが、時流に乗る、場所、人のやる気が結集した神輿は自然と勢いがでるね。

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唐宋八門

2022-02-02 19:36:21 | 漢詩・古典・エトセトラ

唐宋八大家(とうそうはちたいか/とうそうはちだいか)は、唐~北宋にかけての八人の文人をさします。

唐の韓愈・柳宗元、北宋の欧陽脩・蘇洵・蘇軾・蘇轍・曾鞏・王安石の八人を指し、特に蘇洵・蘇軾・蘇轍は親子(父、長男・次男)で、三蘇とも称されています。

                      
  韓愈『雑説』  柳宗元『柳河東集』   欧陽脩『欧陽文忠公集』  蘇洵『嘉祐集』

                                蘇軾『烏台詩案』  蘇轍『集』50巻  曾鞏『戦国策目録の序』 王安石『臨川集』

昔、「燃えよ剣」だったか忘れましたが、栗塚 旭・左右田一平・島田順二出演で島田順二が何処かの若様だったか武士の子弟が「唐宋八家門文士録」を読んでいるのを見て「凄い書をよんでいますね、偉いなあ!」と言っていたのを覚えています。         

 その中の、中唐の韓愈は、当時流行の四六駢儷文(しろくへんれいぶん)がいたずらに華美であることを忌み、文はすべからく漢・魏の古文を宗として、質朴かつその意を尊ぶべしと主張した。いわゆる古文復興運動です。
 同時に六朝を軸に、隠逸を尊ぶ老荘趣味的な文人の嗜好をあらため、廉士として積極的に社会にまじわり、経世済の経済概念の手段としての文学を行うべしという儒学的文人観の復興、確立でもあり、唐宋を通じて次第に整備される科挙制度の発達とともに、知識人たちのあいだに大いに流行しました。

 また、蘇軾は(057年)22歳のときに(嘉祐2年)弟の蘇轍とともに進士となる。このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾・蘇轍・曽鞏の3名のみ合格した。合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入ります。この時期に親子三人(蘇洵・蘇軾・蘇轍)で唱和し作成した「南行集」は、杜甫や梅堯臣の詩を学び五言古詩が多く収録されている。しかし現存しておらず、50巻の詩集(合註本)の巻一に収める42首が面影を残しているのみである。治平3年(1066年)に父の蘇洵が亡くなってからは、政界から一度離れ故郷に帰って喪に服す。再び政界に復帰したのは熙寧2年(1069年)蘇軾が34歳の時です。(この後も続きますがWEB検索して下さい。(おいおい、此処でうっちゃるのかよ!?。)

まあまあ、個別にやると大きくなっちゃうから、興味があったら勝手に見てね。(笑)。

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