針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

サボテンの花が咲きました。

2024-09-20 16:38:21 | サボテン・植木・花

針外しは近所の自動車部品屋さんに勤めていた佐藤さん(一つ上だったかな)の影響を受けて中学の頃からサボテンの栽培に興味をもちました。特に人気のあったのが白い棘で覆われてオレンジ色の花をよく咲いてくれる雪晃(せっこう)でしたね。

とはいっても当時花屋さんには、サボテンは置いてありません。近所で栽培している所謂駄物のエキノプシス属(ウニサボテン)の短毛丸や団扇サボテンの宝剣がせいぜいでしたね。本屋さんで東京の栽培している駒込にある鶴仙園(かくせんえん)さん迄東京タワーの処からママチャリこいで買いに行ったりしました。疲れたよ。成長を我慢出来ないんだよね。

人が立って入れるような立派な温室なんか買えるはずもなく、それでも窓枠に取り付けるようにして、温室作り、水を遣り過ぎて随分枯らしましたね。

それから何十年も経って残ったサボテンがコリファンタ属の象牙丸(ぞうげまる)です。うちのビルも老朽化してリフォームをしたのでベランダの植物を処分することになり、とは言っても捨ててしまうのではなく山に持っていって植えたのですが。

                   

残ったのがこの象牙丸。サボテン一種のみ。サボテンの花は植物界でも奇麗さは一番だと今でも思っています。工事しているときは。また冬は部屋の日当たりのいい処において大事に育てていたわけです。

                   

しかし、結局ベランダに置いて半ば放って置いたのですが、ご存じのように近年夏は猛暑の連続ですね。サボテンは日焼けするって知ってました?。こんな処に置くのは可哀想だと思いましたが、ある時所用で出かけた時にホッタラカシになってしまった事がありましたが、なんと、棘もしっかりしているし肌も濃い緑色して艶やかです。部屋で冬を越して春から外に出しっぱなしでしたがむしろそれの方が良かった。

                   
春先からしっかり日に当てていたので猛暑も屁とも思っていません。そういえばメキシコなんかでは砂漠の中でジリジリと日に当たって生きているんですものね。

                   
この象牙丸、親木が20㎝位の大きさでそれに子が4っつ5つ付いていたのが親木が枯れてしまい2㎝位の子が残ったのがこれです。人間の浅はかな考えなんか何の役に立ちませんね。むしろこの猛暑の方が現地の環境と似ていたんですもんね。

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物置小屋にLED付けました。

2024-09-11 23:14:59 | 立科・信州の話。

念願の「物置小屋」に電灯、LEDを付けました。これによって中に入ってシャッターを閉めても十分に作業出来ます。シャッターを下ろすのには中で「ベルトサンダー」で音が出てもかなり音が軽減されるので気が楽になりました。

電源はデッキの向こう側に有る為。長いコードを這わしてログのあまり干渉しない処で立ち上げて其処からワイヤーを引きそれにコードを這わせて物置小屋の中に引っ張った訳です。ワイヤーには「ターンバックル」を利用してワイヤーの張りを出しました。

                

     
                  

ワイヤーが入る処は「シャッター」の巻き上げて、膨らんでくる処なので巻き込まれないように配線を止めなければなりません。ここが一番苦労しましたね。なんせ狭い処なのでドリルが入り辛いからです。まだまだ抗癌剤の後遺症でフラフラするので余計大変でした。
 

                 

それに簡易ブレーカーも付けました。ここいら辺は、雷がよく落ちます。群馬県程じゃありませんけどね。東京方面から、雲が押し寄せて滞るので落ちるとものすごいですよね。とは言う物のこちらの方でも以前うちのカミさんが庭にいたら、青白い閃光が我が家の土台の空気取り入れ穴に入ってそれが水道管に巻いてあるヒーターに入ってショートしてしまい。ブレーカーが落ちてしまいました。ま、ブレーカーを上げたら湯沸かし機とかちゃんと作動したのでホットしましたが。

それからというもの、冷蔵庫は電源を下ろさないで東京に戻るので「ビリビリ君」という簡易ブレーカーを付けています。


                

先日も近くで「バーン」と雷が落ちてブレーカーが落ちた事がありました。やはり中間にブレーカーを入れないと安心できません。

                

先端は2連のソケットです。これでグラインダーとかドリル、サンダー等色々使えますね。

             

これで物置兼作業場が出来ました。物置には色々な作業に必要な工具、ネジ類が揃っているので、あっちに物を取りに行ったり無駄な動きをしなくて済みます。

                  

山の生活というのは兎角色々な作業を要求されます。結構、手順とかを十分に考えて立ち向かわないと綺麗に完成出来ませんね。

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ここでちょっと、諱の意味。

2024-09-08 21:35:58 | 漢詩・古典・エトセトラ

前々から諱という字はどういう意味なのか分からないまま、ずっとほったらかしにしていました。

諱という漢字は、日本語において「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味するものです。

この漢字は、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の実名・本名のことを指すようになった。本来、名前の表記は生前であれば「名」、死後は「諱」と呼んで区別するが、のちになって生前に遡り諱と表現するなど、混同が見られるようになった。

諱と対照して普段人を呼ぶときに使う名称を「字」といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。

諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が行った場合は極めて無礼であると考えられた。
ここで、孔明軍師を例に取ると諸葛 孔明(しょかつ こうめい、 Zhūgě Liàng ジューガー?、紀元181年-234年8月末)は、後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・武将(軍師)。亮は諱で字は孔明中国語で読むとイメージが狂っちゃうね)司隷校尉。諸葛豊の子孫。泰山郡丞・諸葛珪の子。諡(おくりな)は忠武侯。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があります。

だから諸葛孔明と言ってもよいが、諸葛亮と言ってはいけないのですね(多分)。で、諡(おくりな)は主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味するものであります。

 

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李白の蜀道難

2024-09-08 11:03:07 | 漢詩・古典・エトセトラ

テレビで「空旅 中国、英雄がかけた道」という番組があったので早速、録画をしました。諸葛亮孔明が、宿敵曹操を討たんが為に漢中攻略を目的に出兵するのですが、今だから簡単?に「パンダ」なんか見に行けますが、馬と船しか交通の手段しかない三国時代。それも蜀という辺鄙な国から漢中に出て行くのにただでさえ大変なのに森林の中の細い道大剣山。小剣山蜀の桟道を通って行くのによくもまあ軍馬が通れたものだね。本当に此処を通って漢中迄行ったのかね?。

その大変さに後の唐の詩人「李白」が「蜀道難」で詠っています。  

蜀道難 李白 (しょくどうなん) 

噫吁戲危乎高哉  蜀道之難難於上青天  (ああ)危いかな高い哉かな蜀道の難(かた)きは青天(せいてん)に上(のぼ)るよりも難(かた)し
ああ、なんと危ういことよ険しいことよ。蜀道の険しさといったら、晴天に登るよりも大変なほどだ。

蠶叢及魚鳧  開國何茫然  さんそう)と魚鳧(ぎょふ)と国を開くこと 何(なん)ぞ茫然(ぼうぜん)たる
蚕叢(さんそう)と魚鳧(ぎょふ)が開国した頃のことは今では知りようもなく、それ以来四万八千年の月日が流れているが、境を接する秦国と人の行き来はなかった。
爾來四萬八千歲  不與秦塞通人煙 西當太白有鳥道  可以橫絕峨眉巔じらい)四萬八千歳(しまんはっせんさい)(しんさい)と人煙(じんえん)を通(つう)ぜ
西のかた太白(たいはく)に当(あた)りて鳥道(ちょうどう)有(あ)り

西方の太白には鳥の通う道があるが、それも峨眉山の頂には達していない。

地崩山摧壯士死  然後天梯石棧方鉤連 地崩(ちくず)れ山摧(やまくだ)けて壯士死(そうしし)し、然(しか)る後(のち)に天梯(てんてい) 石棧(せきさん) 方(まさ)に鉤連(こうれん)す 
地が崩れて山がくだけ、ここを通る多くの壮士が死んだ。そんなことがあってから天に登る梯子と吊り橋がかけられたのだ。
 
       

                       太白山         

          この細い林道に於いても牛馬が楽に通れるように石畳みになっています。                    

                                            

蜀の兵も行軍が大変だったけど後、魏に平定される時。魏の兵隊もさぞ大変だったろうね。よくもまあ、造ったもんです。

                                             

しかし孔明という人物は当時奇門遁甲に優れ、兵法に優れ、はたや土木にも優れてその時代に名を馳せたのがわかりますね。ただ残念なのは司馬 徽曰く「蛟龍天に昇らんと欲すれども惜しむらくはその時を得ず」です。

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