天下に名高い「鴻門の会」です。
〚鴻門の会迄の流れ〛
ちなみに鴻門の会(こうもんのかい)は、紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都、咸陽の郊外(現在の陜西省西安区臨潼区)で会見した故事。楚漢の攻防の端緒となった。がその前にとんでも無い事が起こります。とこれはさておいて。
宋義は趙の張耳・陳余の救援要請を受けて趙の鉅鹿(きょろく)へ向かったが、進軍を安陽までで止めてしまった。そして46日間安陽に留まってしまった。項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言い、「狂暴で使命に従わないものは斬刑に処す」という項羽に対してあてこすった命令を全軍に出す。宋義は斉と和親、講和するため、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていく息子の宋襄を送るための大宴会を開く。
その一方で、兵は飢え、凍えて苦しんでいた。二世3年(紀元前207年)11月、項羽は、「秦が趙を打ち破れば、さらに強大になる。懐王は宋義を上将軍に任じ、国運を託しているのに、宋義は兵を憐れまず、子の出世という私事ばかり考えている。社稷の臣ではない」と言い、懐王の命令と偽り、宋義が斉と謀り反逆したとして、宋義が帰ってきたところを殺害する。諸将は項羽に従い、項羽を仮の上将軍とする。また、宋襄も追いかけて殺害した。懐王は、項羽を上将軍に任じ、項羽が趙救援の軍を率いることとなった。
劉 邦
項羽は北進を開始し、鉅鹿を包囲していた秦の章邯が率いる20万を超える大軍と決戦を行い、大勝利を挙げる(これを鉅鹿の戦いと言います)。この戦いで数に劣る楚の兵は皆一人で十人の敵と戦ったと伝えられる。同年12月、項羽の勇猛さと功績により各国の軍の指導者たちは項羽に服属し、項羽は各国諸侯の上将軍となり、諸侯の軍はその指揮下に入った。
項羽はその後も章邯率いる秦軍を攻めて連戦連勝する。同年6月章邯は配下の司馬欣や趙の陳余に降伏するよう進言を受け、項羽と盟約を結ぼうとする。この時の盟約は成立しなかったため、項羽はさらに章邯を攻撃して勝利して、章邯と盟約を結んだ。同年7月、章邯は降伏し、擁王(の位)に引き立てることで、戦いは終わった。降伏した20万人以上の秦兵を先鋒にして、新安に進ませた。
しかし、漢の元年紀元前206年、秦の兵隊が(秦卒)暴動の気配が見えたため、新安において、夜襲を行い、章邯・司馬欣・董翳(とうえい)の3名を除いて、全て阬(穴に埋めて殺すこと)した。一説によると、20余万人の投降を受け入れたものの、兵糧が全くない。其処で谷合いに駐屯させ、入り口を塞いで、火、火焔を用いて焼き殺し穴埋めにしたと「史記」では書いてありますね。
項 羽
また紀元前207年、倒秦に立ち上がった楚の懐王は関中を初めに平定したものを関中の王とすると諸将に約束した。
項羽は行く先々で秦の土地の平定を行い、同年12月、関中に入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽を目指していた劉邦が先に関中に入っていた。劉邦は、項羽によって章邯が雍王になると聞き、劉邦が関中の王になれないと思い、函谷関を兵で防ぎ、項羽の関中入りを拒否したため、項羽は関中に入れなかった。劉邦に関中入りを阻まれたことと、先に劉邦が咸陽を陥落させていたことを聞いて、項羽は大いに怒り、函谷関を攻撃して関中に入った。また、劉邦の配下の曹無傷から「劉邦が関中の王となろうとして、元の秦王・子嬰(しえい)を宰相にして、咸陽の財宝を自己の所有としました」と知らせたため、項羽は怒って、劉邦を攻め殺そうとした。
劉邦は慌てて項羽の叔父の項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。これが有名な鴻門の会であります。
項羽の叔父の項伯は夜密かに馬を走らせ、劉邦に客将として従っていた張良に会った。項伯は張良とかねてより親しく、また仇持ちとなった際に匿ってもらった恩義があった。事の顛末を話し、君だけは助けたいと共に脱出するよう誘うが、張良はそれを拒否し一部始終を劉邦に伝えた。劉邦は驚き、項伯と会って姻戚関係を結ぶことを約束し「咸陽に入って以来、宝物などを奪う事もせず、項羽将軍を待っていました。
関中に兵を置いたのは盗賊と非常時に備えたものです。これを項羽将軍に伝えて下さい」と言った。項伯は納得するがそれを項羽へ伝える条件として、劉邦が明朝項羽の陣営へ直接来て謝罪する必要があると言い、劉邦はこれを受け入れた。一方の項羽も項伯の取り成しにより怒りを和らげ、弁明を聞くことにした。そして翌日、後に言う「鴻門の会」が行われることとなった。
劉邦は慌てて項羽の叔父の項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。これが有名な鴻門の会であります。
鴻門の会
翌朝、劉邦は鴻門に項羽を訪ねた。しかし護衛の兵は陣外に留め置かれ、本営には劉邦と張良だけが通された。劉邦はまず項羽に謙って謝罪し、「私達は秦を討つために協力し、項羽将軍は河北に、臣は河南に戦いました。思いもよらず先に関中に入りましたが、小人の讒言によって、互いの関係にヒビが入っているのは残念でなりません」と弁明した。それに対して項羽は、「それは曹無傷が言った事だ」と返した。
項羽は宴会を始め、項羽・項伯は東に向いて上座に座った。范増は南向き、劉邦は北向き、張良は西向きにそれぞれ座った。宴会中、范増は項羽に目配せして、劉邦を斬るよう合図を送った。そもそも劉邦を陣中に入れたこと自体が謀叛を大義名分として斬ることを目的としたもので、彼を項羽のライバルとして警戒する范増が強く進言したものだった。
しかし、劉邦が卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は討つ気が失せ、一向に動かなかった。三度合図を送っても全く動かなかったので、范増は一旦中座して項荘(項羽の従弟)を呼び、祝いの剣舞と称して劉邦に近づき、斬るよう命じた。これを受けて項荘は剣舞を始めたが、企みに勘づいた項伯も相方として剣舞を始め、項荘を遮り続けた。
この時、張良も中座し、陣外に待機していた樊噲に事態の深刻さを伝えた。樊噲は髪を逆立てて護衛の兵士を盾ではじき飛ばし宴席に突入。「戦勝の振る舞いがない!お流れを頂戴致したく願います!」と項羽をにらみつけ、その凄まじい剣幕に剣舞が中止となる。項羽はその豪傑ぶりに感心し、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊噲はそれを一気に飲み干した。更に、豚の生肩肉をここで項羽がもう一杯と丸々一塊出すと、樊噲は盾をまな板にして帯びていた剣でその肉を切り刻み、平らげた。酒を勧めると、樊噲は「私は死すら恐れませんのに、どうして酒を断る理由がありましょうか。これが有名な一場面、項伯と樊噲の剣舞です。
その後、劉邦が席を立ったまま戻ってこないので、項羽は陳平に命じて劉邦を呼びに行かせたが、劉邦は樊噲と共に鴻門をすでに去り、自陣に到着していた。この際、張良は、劉邦が酒に酔いすぎて失礼をしてしまいそうなので中座したと項羽に謝罪し、贈り物を渡すと自らも辞去した。
贈り物を前にした項羽はご機嫌だったが、范増は情に負けて将来の禍根を絶つ千載一遇の機会を逃した項羽に対し「こんな小僧と一緒では、謀ることなど出来ぬ!」と激怒し、贈り物の玉斗を自らの剣で砕く。さらに深い嘆息をもらして、劉邦を討ち取る事ができなかったので、「そのうち天下は必ず劉邦に奪われ、我らは捕虜となってしまうだろう」と嘆いた。劉邦は自軍に戻ると、さっそく項羽に讒言をした曹無傷を誅殺した。
これが有名な「鴻門の会」の一節です。漢の劉邦は危機の連続を巧くかわしてとうとう項羽を追い詰めて自刃に追い込み天下を手中に収める事になります。