針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

蟷螂臂を怒らせて以って車轍に当たる。

2021-12-29 09:21:44 | 武道・拳法の話

「蟷螂のひじいからしてって車軼しゃてつたるがごとし」

一般的には「蟷螂の斧」と言う言葉で皆さんご存知。


   

猶螳螂之怒臂以当車軼ー   荘子 外篇 の中に収められています
(荘子:三十三篇。戦国中期の道家荘周とその一門の思想を記したもの。
原文
猶螳螂之怒臂、以当車軼则必不適任矣。

{書き下し文}
螳螂とうろうひじいからしてって車軼しゃてつたるがごとし。すなわかなら不適任ふてきにんなり。螳螂の臂を怒らして以って車軼に当たるが如し

意解
螳螂かまきりかまを振り上げて 車の車輪に立ち向かっていくことで、無謀むぼうなことのたとえとして引かれている。

風車ふうしゃに立ち向かうドン・キホーテ」 ぞういどあり も同意に使われている。
「猶お蟷螂の臂を怒らして、 以て車轍に当るがごとき、
即ち必ずにんしょうえざるなり。」蟷螂かまきり獲物えものねらうときに前の両足を頭上にかざす姿が、おのるうのにている。虫の世界ではその斧は大きな脅威きょういともなろうが、いくら蟷螂かまきりの向う気が強くとも、これしきの斧では、 小虫以外の、大きな相手に対してはまったく威力いりょくはない。

 即ち、「蟷螂とうろうおの」とは、弱者が自分の分や力をわきまえないで、ただ意気がって大敵に当ったり、 猪突猛進ととつもうしんしたりすることをいうのである。三国志、曹操軍そうそうぐん劣弱れつじゃくさまふうして「蟷螂とうろうおのもっ隆車りゅうしゃ(大車)のすい(轍)をふせがんとほつす。」自分の力量をわきまえる
一、相手の力を知る
彼を知り己を知れば、百戦して百戦、殆うからず」(孫子)を忘れるべきではない。私たちは、日々、何をするにしても大なり小なり、身贔屓、過信によって決断(選択)をしている。その折々に思い出し、より善い選択(決断)ができるよう、在りたいですね。

蟷螂と言えば、蟷螂拳が有名ね。蟷螂拳の伝承者に広く知られる伝説に拠れば蟷螂拳は、清代初期に山東省出身の「王朗」という人物によって創始されたとされている。別説によれば古代より伝わるとしており、古代の兵法書「六韜」に「蟷螂武士」の名があることから、蟷螂拳のルーツと関係があると見る説もある。

蟷螂拳の創始伝説によると、蟷螂拳を創始する以前の王朗は、数多くの門派(流派)の拳を学んで中国全土を巡り、武者修行の途上、各地の優れた武術家と立ち合ってこれをことごとく撃破した。しかし、ついに武術の総本山ともいえる嵩山少林寺に立ち寄った際に、どうしてもある一人の技量の優れた僧侶に勝てず、悶々として悩んだという。王朗がその少林僧を打ち破るべく修行を重ねていたある日、カマキリが蝉を捕らえる瞬間を目撃し、王朗はこれに強いインスピレーションを得て、蟷螂拳を編み出した。

           

王朗は再び少林寺を訪れたが、かつて王朗を打ち破った僧侶も彼に敵わなかった。少林寺を離れた王朗はその後、故郷の山東省に帰り、螳螂拳を澇山の道士に伝えたとされています。

と言う訳で、皆様におかれまして、今年一年、針外しの拙いブログにお付き合い頂きまして感謝に耐えません。年明けは酔っぱらって「グダグダ」していなければ、また早々に立ち上げたいと思っています。また来年も暇ならお立ち寄りくださいませ。それでは皆様良いお年をお迎えくださいますよう。

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女性は聞きたくない話。

2021-12-26 07:25:37 | 針の政治談議

この記事を上げるかどうか散々迷いましたが、やはり出します。それ相応の非難も在るとはおもいますが。

これから述べる事は韓国の歴史的背景、中国の属国だったという事、その為国は絶えず極貧状態。その上両班という無能な貴族がのさばって国としての形態をなくしてしまっている。

昔、韓国では「試し腹」「乳出しルック」がありました。

朝鮮半島では嫁が不良品であってはならないため、「種男」と言われる男に嫁候補と性交させ、妊娠出来ることを証明させたという。のとき生まれてくる子供は当然そんなわけのわからない子供なので生まれてきたらそのまま奴隷にされ一生を過ごしたという。当然恐ろしい習慣であるので韓国併合時に禁止し、なくなったという。日本としては、このおぞましい風習を完全に抹殺して金輪際語る事の無いようにしたに違いない。韓国民に、とてつもない負の歴史、ハンデ、を背負わせられないと判断した。

こんな事だからベトナムの「ライダンハン」だって平気な訳だ。
韓国の男子の顔が皆同じ顔をしているのも、違和感を感じざるを得ない。

                 

また近親相姦、試し腹、奴隷的女性蔑視が、世界に例を見ない乳出しルック=シマチョゴリの原点はなるほどと思った。あのスタイルに不純な不自然さを感じていた人もいると思うが,そのような乳出しをルーツとするシマチョゴリを民族衣装として外交で着ていたパククネは、歴史を知らない羞恥の極みとしか思えない。此処に幾つか文献がありましたので紹介です。

                                             
此処に文献を引用した記事があります。

★朝鮮半島伝統 "試し腹" ★ 

1マンセー名無しさん2019/02/28(木) 09:46:07.92ID:rh7MPmEZ
【試し腹】
儒教の行き過ぎた社会風潮で、李氏朝鮮を含め朝鮮半島で600年以上続く因習である。日本が日清戦争に勝利するまでいや1910年の朝鮮併合まで続いていた「近親相姦」の因習である。朝鮮併合後、日本政府に「試し腹」と「病身舞」は禁止された。

 女性は子供を生む道具とされていたため、「子供が生めるか試す」ことで、父親、兄弟、叔父、伯父などの「親戚と娘との近親相姦」が、長年行われていた。生まれた子供は白丁と言う
奴隷階級(家畜扱い)に落とされた。日清戦争直後、この白丁階級が朝鮮人の人口の85%いたことが、明治政府の調査でわかっている。
韓国は中国の属国でありましたから、中国だって韓国の悪習を止めさせても良かった。

 wikipediaでは都合が悪かったのか削除済みです!学術的にも遺伝子レベルで、この近親相姦の跡が残るのが朝鮮人である。米人類学者Cavalii-Sforzaの遺伝子勾配データによれば、朝鮮人は類を見ないほどの「近親相姦の遺伝子配列」だそうだ。

 通常3代もすればその痕跡はなくなるそうだが、数百年もの近親相姦の歴史により、遺伝子レベルでも復元不可能になっている。
韓国は反日で「慰安婦」「徴用工」とやたら喰って掛かってきますが、そんなウソより、何百年と続いて来た風習を日本に止めさせられた事をどう思っているんだ。日本が韓国に行かなかたら、下手をすると今でもその風習が残っていたかも知れないね。こう見ると「宮廷女官 チャングム」にしても嘘で固められた物語だという事です。
マッカーサーの陰謀を鵜呑みにして、「反日反日」といつまで経っても止めないのでこうした忘れたい事実を暴き立てられたりするんだ。日本、韓国はもう行き着く処まで来てしまった感があります。
何処の国にも、語りたくない悪習があります。中国、韓国は清代迄人肉を食べていたし、纏足だって、良くなかった。韓国は上に書いた通り、日本だって切腹、明治の中頃まで男の子が生まれると食者が無い為に「口減らし」で爺さんが夜更けにまな板の上で殺し、女の子は「色町」売り飛ばしていました。
 
韓国は今更ながら、ありもしなかった「従軍慰安婦」とか「徴用工」を持ちだして騒いでいるのかね?。日本だって言われっぱなしは御免蒙りたい。そんな事だから、こういう忘れ去られた過去の恥を暴き立てられるのだ。
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鴻門の会

2021-12-23 08:33:03 | 漢詩・古典・エトセトラ

天下に名高い「鴻門の会」です。

〚鴻門の会迄の流れ〛
ちなみに鴻門の会(こうもんのかい)は、紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都、咸陽の郊外(現在の陜西省西安区臨潼区)で会見した故事。楚漢の攻防の端緒となった。がその前にとんでも無い事が起こります。とこれはさておいて。

 宋義は趙の張耳・陳余の救援要請を受けて趙の鉅鹿(きょろく)へ向かったが、進軍を安陽までで止めてしまった。そして46日間安陽に留まってしまった。項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言い、「狂暴で使命に従わないものは斬刑に処す」という項羽に対してあてこすった命令を全軍に出す。宋義は斉と和親、講和するため、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていく息子の宋襄を送るための大宴会を開く。

 その一方で、兵は飢え、凍えて苦しんでいた。二世3年(紀元前207年)11月、項羽は、「秦が趙を打ち破れば、さらに強大になる。懐王は宋義を上将軍に任じ、国運を託しているのに、宋義は兵を憐れまず、子の出世という私事ばかり考えている。社稷の臣ではない」と言い、懐王の命令と偽り、宋義が斉と謀り反逆したとして、宋義が帰ってきたところを殺害する。諸将は項羽に従い、項羽を仮の上将軍とする。また、宋襄も追いかけて殺害した。懐王は、項羽を上将軍に任じ、項羽が趙救援の軍を率いることとなった。

                                   
                 劉   邦

 項羽は北進を開始し、鉅鹿を包囲していた秦の章邯が率いる20万を超える大軍と決戦を行い、大勝利を挙げる(これを鉅鹿の戦いと言います)。この戦いで数に劣る楚の兵は皆一人で十人の敵と戦ったと伝えられる。同年12月、項羽の勇猛さと功績により各国の軍の指導者たちは項羽に服属し、項羽は各国諸侯の上将軍となり、諸侯の軍はその指揮下に入った。

 項羽はその後も章邯率いる秦軍を攻めて連戦連勝する。同年6月章邯は配下の司馬欣や趙の陳余に降伏するよう進言を受け、項羽と盟約を結ぼうとする。この時の盟約は成立しなかったため、項羽はさらに章邯を攻撃して勝利して、章邯と盟約を結んだ。同年7月、章邯は降伏し、擁王(の位)に引き立てることで、戦いは終わった。降伏した20万人以上の秦兵を先鋒にして、新安に進ませた。

しかし、漢の元年紀元前206年、秦の兵隊が(秦卒)暴動の気配が見えたため、新安において、夜襲を行い、章邯・司馬欣・董翳(とうえい)の3名を除いて、全て阬(穴に埋めて殺すこと)した。一説によると、20余万人の投降を受け入れたものの、兵糧が全くない。其処で谷合いに駐屯させ、入り口を塞いで、火、火焔を用いて焼き殺し穴埋めにしたと「史記」では書いてありますね。

                               
                                                                項  羽

また紀元前207年、倒秦に立ち上がったの懐王は関中を初めに平定したものを関中の王とすると諸将に約束した。

項羽は行く先々で秦の土地の平定を行い、同年12月、関中に入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽を目指していた劉邦が先に関中に入っていた。劉邦は、項羽によって章邯が雍王になると聞き、劉邦が関中の王になれないと思い、函谷関を兵で防ぎ、項羽の関中入りを拒否したため、項羽は関中に入れなかった。劉邦に関中入りを阻まれたことと、先に劉邦が咸陽を陥落させていたことを聞いて、項羽は大いに怒り、函谷関を攻撃して関中に入った。また、劉邦の配下の曹無傷から「劉邦が関中の王となろうとして、元の秦王・子嬰(しえい)を宰相にして、咸陽の財宝を自己の所有としました」と知らせたため、項羽は怒って、劉邦を攻め殺そうとした

劉邦は慌てて項羽の叔父の項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。これが有名な鴻門の会であります。

項羽の叔父の項伯は夜密かに馬を走らせ、劉邦に客将として従っていた張良に会った。項伯は張良とかねてより親しく、また仇持ちとなった際に匿ってもらった恩義があった。事の顛末を話し、君だけは助けたいと共に脱出するよう誘うが、張良はそれを拒否し一部始終を劉邦に伝えた。劉邦は驚き、項伯と会って姻戚関係を結ぶことを約束し「咸陽に入って以来、宝物などを奪う事もせず、項羽将軍を待っていました。

関中に兵を置いたのは盗賊と非常時に備えたものです。これを項羽将軍に伝えて下さい」と言った。項伯は納得するがそれを項羽へ伝える条件として、劉邦が明朝項羽の陣営へ直接来て謝罪する必要があると言い、劉邦はこれを受け入れた。一方の項羽も項伯の取り成しにより怒りを和らげ、弁明を聞くことにした。そして翌日、後に言う「鴻門の会」が行われることとなった。

劉邦は慌てて項羽の叔父の項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。これが有名な鴻門の会であります。

鴻門の会

翌朝、劉邦は鴻門に項羽を訪ねた。しかし護衛の兵は陣外に留め置かれ、本営には劉邦と張良だけが通された。劉邦はまず項羽に謙って謝罪し、「私達は秦を討つために協力し、項羽将軍は河北に、臣は河南に戦いました。思いもよらず先に関中に入りましたが、小人の讒言によって、互いの関係にヒビが入っているのは残念でなりません」と弁明した。それに対して項羽は、「それは曹無傷が言った事だ」と返した。

項羽は宴会を始め、項羽・項伯は東に向いて上座に座った。范増は南向き、劉邦は北向き、張良は西向きにそれぞれ座った。宴会中、范増は項羽に目配せして、劉邦を斬るよう合図を送った。そもそも劉邦を陣中に入れたこと自体が謀叛を大義名分として斬ることを目的としたもので、彼を項羽のライバルとして警戒する范増が強く進言したものだった。

しかし、劉邦が卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は討つ気が失せ、一向に動かなかった。三度合図を送っても全く動かなかったので、范増は一旦中座して項荘(項羽の従弟)を呼び、祝いの剣舞と称して劉邦に近づき、斬るよう命じた。これを受けて項荘は剣舞を始めたが、企みに勘づいた項伯も相方として剣舞を始め、項荘を遮り続けた。

この時、張良も中座し、陣外に待機していた樊噲に事態の深刻さを伝えた。樊噲は髪を逆立てて護衛の兵士を盾ではじき飛ばし宴席に突入。「戦勝の振る舞いがない!お流れを頂戴致したく願います!」と項羽をにらみつけ、その凄まじい剣幕に剣舞が中止となる。項羽はその豪傑ぶりに感心し、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊噲はそれを一気に飲み干した。更に、豚の生肩肉をここで項羽がもう一杯と丸々一塊出すと、樊噲は盾をまな板にして帯びていた剣でその肉を切り刻み、平らげた。酒を勧めると、樊噲は「私は死すら恐れませんのに、どうして酒を断る理由がありましょうか。これが有名な一場面、項伯と樊噲の剣舞です。

その後、劉邦が席を立ったまま戻ってこないので、項羽は陳平に命じて劉邦を呼びに行かせたが、劉邦は樊噲と共に鴻門をすでに去り、自陣に到着していた。この際、張良は、劉邦が酒に酔いすぎて失礼をしてしまいそうなので中座したと項羽に謝罪し、贈り物を渡すと自らも辞去した。

 贈り物を前にした項羽はご機嫌だったが、范増は情に負けて将来の禍根を絶つ千載一遇の機会を逃した項羽に対し「こんな小僧と一緒では、謀ることなど出来ぬ!」と激怒し、贈り物の玉斗を自らの剣で砕く。さらに深い嘆息をもらして、劉邦を討ち取る事ができなかったので、「そのうち天下は必ず劉邦に奪われ、我らは捕虜となってしまうだろう」と嘆いた。劉邦は自軍に戻ると、さっそく項羽に讒言をした曹無傷を誅殺した。

これが有名な「鴻門の会」の一節です。漢の劉邦は危機の連続を巧くかわしてとうとう項羽を追い詰めて自刃に追い込み天下を手中に収める事になります。

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神田沙也加さん、亡くなりました。

2021-12-20 08:56:28 | 日記

 立ち入った話はあまりしたくないのですが、神田沙也加さんが急逝しました。これはご本人しか分からない話ですので、ある意味邪推になってしまうので申し訳ありませんが。
親の末だ聖子さんは「天の時」を得て芸能界で大成功を治めました。一方神田沙也加さんも類希な才能をお持ちで私的にはやはり大成功を収めたと思うのですが、本人ははたしてどうだったんでしょうか?。勝手な推測ですが、まだまだ追いついていないと絶えず思っていたに違いないね。本人的には才能があるのに絶えず「親の松田聖子さん」に敵わないとか、親と別れて生活をして「親を自分の元に戻したい」とか色々考えていたんだろうか?。

 皆は芸能界で成功を収めて羨ましいと思っている方が大多数でしょうけど、いつも思うのですが、必ず何処かに歪が出てしまうのではないかと思っています。大体神田正輝氏との結婚もその当時から見ても違和感を感じていました。結局最後には何処かにその「付け」が回って来てしまうと感じざるを得ない。人間何が幸福かを考えるとこの華々しい芸能界も決して安楽な世界ではないのですかね?。
芸能界で成功する人は極一部の人で、かつて演歌歌手の北島三郎さんだって、今は時代が変わってしまって、職が無い状態らしいね。(演歌歌手全般です)彼女の場合は順風満帆だと思っていましたが端で見ているだけでは分かりませんね。「何と勿体ない」と思えてなりません。

つくづく、残念です。

 

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李白の静夜思

2021-12-16 09:18:25 | 漢詩・古典・エトセトラ

   静夜思 李白
               

李白の代表的な詩「静夜思」です。中学校の教科書には大概載ってました。中国でも誰もが知っていると言ってよい有名な詩です。非常にわかりやすく、通俗的ではない、清らかな月の光としみじみとした郷愁が染み入ってくる詩です。訳文を沿えなくても十分に理解できます。

静夜思の原文

床前看月光   床前しょうぜん月光を看る       寝台の前で月の光を見る

疑是地上霜   疑うらくはれ地上の霜かと  地面に降りた霜のようだ

挙頭望山月   こうべを挙げて山月を望み     顔を挙げて山の上の月をながめ

低頭思故郷   首をれて故郷を思う     頭を垂れて故郷を思う

中国人は古代からベッドで眠り、これを「床」と言います。冬にはこの下に炭、石炭?なんかを入れて暖を取りました。(温床・オンドル)冬は厳しい寒さの中国東北部では炕(オンドル…煮炊きの熱を誘導して暖かいベッドのようにした暖房装置)の上では小机を置いて食事をしたりお茶を飲んだりしています

またこの「床」を井戸(正確には井戸の縁)と取る説もあります。中国語では今も「井床」と言います。もしこの意味なら詩人は部屋の中ではなく、外で月を眺めていることになります。

第1句の最後「看月光」の3字を「明月光」とする読み方もあり、中国人にこの詩を読んでもらうとこちらで読む人が多いです。古い資料では「看月光」となっており、日本の漢文の教科書もそうなっていますので日本人はたいていこちらで覚えています。

実は漢詩は長い時間をかけて写し続けているうちに一部の作品は元の姿とは幾分違ってしまっているのですが、その中で昔の面影をそのままとどめているものが2種類あります。そのうちの一つは遣唐使などが日本に持ち帰ったもの、もう一つは敦煌文書として発掘されたものです。遣唐使が持ち帰った唐代の写本は正確に写されて後世に伝わり、元の作品と異なってしまっているものはありません。替えるほどの中国語の知識がなかったこともあるでしょうが、やはり何といってもそこには深い尊敬があったのでしょう。

敦煌文書というのは20世紀になって発掘された中国の敦煌・莫高窟からの大量の文書で、11世紀の宋代初期、この石窟の入り口が封印されたために昔のものがそのまま保存されているのです。

ともあれこうしたことを考えるとおそらく李白が書いたのは「看月光」、その後伝わる中で中国では「明月光」となり、多くの中国人はこちらで覚えているのでしょう。

ニュアンスとしては「看月光」は最初から月の光を見ようとして見ていますが、「明月光」だと月光にふと気づいた感があります。こちらの方が味わい深いとする人もいます。

第2句の冒頭「疑是」は「~と疑った」ということではなく「これって~ではないの?」という語感を持つ比喩・たとえです。「霜かと思ったら月の光だったんだ…」ということです。地面が白く光っていたんでしょうね。そして一瞬霜と見間違えるのですから季節は秋、それも深まりつつある秋でしょう。

秋の夜更け、すでに人は寝静まっている時間です。詩人は寝付かれないまま寝台の前の月の光を眺めます。一瞬霜かと思うほどの白い光に、「ああ月の光だ」と顔を挙げると遠くに山並みが見え、その上にしらじらとした光を放つ月がかかっています。

この月は満月でしょう。中国人が愛でる月は基本満月です。満月こそが家族だんらんのシンボル。満月を見れば家族を思うというのが、典型的な中国人の心性です。

中国の中秋節は秋の満月を愛でる節句ですが、この日は家族団らんの日でもあります。まるい形は一人として家族が欠けていない、中国人の幸福と理想を意味するのです。

また月を見れば別の場所を思うというのも中国詩における定型的な発想の一つです。月はこの世をあまねく照らしていますから、自分が見ているこの月をはるか彼方のあの人も見ているだろうと思うのです。

月を見れば家族を思い故郷を思い…詩人はいつの間にかうつむいて思いにふけっています。

『静夜思』李白 【原文・書き下し文・現代語訳・解説】 (chugokugo-script.net) 引用させて頂きました。

 

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加害者の少年こそ本当の意味で被害者です。

2021-12-13 10:47:21 | 日記

 今、同級生が同級生を刺殺して、社会問題になっています。マスコミも警察も殺人だけを取って問題提起していますが、針外しも一応、法学部を出て、物の因果を分かっているつもりです。

此の加害者の少年が人を殺害した事を殊更大きく取り上げています。こうした問題の事の起こりは一方がもう一方を「虐めた」のが最初です。また虐めている側は多数の暴力が多い。口撃、暴力を含めてね。何度も何度も虐められたら、虐められた方はどういう気持ち、行動に出るのでしょうか?。

「いつかきっと仕返しをしてやる」「相手が数の暴力でくるなら、こっちは闇討ちをしてでも報復したい」と思うでしょう。もしくは打開出来なくて自殺に追い込まれる事になります。

 良く「相棒」なんかの杉下右京の問答を見ていると「復讐は復讐の連鎖を呼ぶ」なんて理想を言って被害者の気持ちを考えないで加害者を擁護するが如き決着で終わっている事があります。結果、短刀を購入して殺害に至ったりします。ただ、これには復讐すると、その者の罪がまた出てきてしまうので、「法の力」で善処すると言う意味が込められていますね。

 こういった因果関係で、障害事件、殺人事件が発生するとマスコミはこの元は被害者だった者で加害者になった者を、障害、殺人だけをとり上げるだけで、この加害者がどういう因果関係でこの経緯になった事を説明しません。これでは虐めた側の味方してい虐められていた加害者を擁護していません。自分の身内が一方的な虐めを受けて死亡したら、誰だって復讐を誓うに違いない。まして法の下に守られたりしていたら決して納得しないでしょうね。

 私の同級生で検察になったのが居まして、例の「オウム」の事件も携わったのですが、ある事件で上司から証拠の改ざん命令を受けて辞めた者がいましたが、辞めると弁護士に自動的になります。裁判官も判決を考えるのに両方の顔を立てる事になります。俗に言う「やくざの手打ち」です。20年の求刑に対して、12,3年に落ち着くなんて事になります。こんな法曹界で一方的に罪を押し付けられたらたまったもんじゃありません。

 同窓会であってこの経緯を聞いて、「良く、決心したね。見直したぞ」とは言いましたが、日本の法曹界も忖度が始まってもはや「法の番人」の役割を果たさなくなった。

 アメリカでは身内を不当に殺されたら州の監獄に収監される前に、鉄砲で打ち殺してしまうそうです。これはこれで非常に拙いのですが、一方で被害者の親族にとって受け入れがたい判決が出るのが「当たり前」になっているのでこういう事が起きているんですね。

良く、死んだ子の事を殺されて「可哀想」とかいう風潮が流れますが、元はと言えば、殺された人間がこの少年に虐めをしたのが原因です。死んだ人間の悪口を言えないからこの加害者となった少年をやり玉に挙げてしまいます。マスコミも少し頭が悪いとしか言いようがないね。もっと因果関係を詳しく調べて報道しないとね。

日本の司法も法曹界を含めてそろそろ、刑罰の量刑を少し変えた方がいいと思います。

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またまた退屈な話しですけど

2021-12-09 08:38:01 | 漢詩・古典・エトセトラ

 今、ケーブルテレビで明代の 第3代 朱棣 (永楽帝)から朱高熾 (洪煕帝)、その直孫の朱瞻基(宣徳帝)まで話をまとめた「大明皇妃」の映画が放映されています.この話は朱元璋から3代目からです。

モンゴル帝国(Yeke Mongγol Ulus)から分裂した後、大汗(大ハーン位)を継承しモンゴル平原と中国大陸を支配した元(Dai-ön Yeke Mongγol Ulus)は、14世紀に入ると複数の皇后が生んだ男子に漢人が文官として後ろ盾となり、(かつてジンギス汗の時は耶律楚材 がいた。他)帝位の相続争いが起こり統治能力が低下した。


                                                                     

 さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に「紅巾の乱」を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、元の皇帝・恵宗(トゴン・テムル・ハーン)は大都を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の中国は明に統一され、江南から誕生した王朝が中国を統一した。

 洪武帝は中華統一を達成すると外征を抑え、農村の検地や人口の調査を進めて里甲制・衛所制を布き、内政の安定に力を注いだ。一方で洪武帝は建国の功臣を粛清し、宰相にあたる中書令を廃止して六部を皇帝に直属させる皇帝独裁体制を築いた(詳細は胡藍の獄を参照)。

 1398年に洪武帝が崩じて皇太孫の建文帝が即位すると、建文帝の叔父に当たる各地の親王は帝室の安定のために排除されるようになった。北平を中心に北方の防備を担っていた洪武帝の四男である燕王朱棣は追い詰められ、遂に反乱を起こした。1402年燕王朱棣は首都南京を占領して建文帝から帝位を簒奪し自ら皇帝に即位した。(これを靖難の変と言います)。これが永楽帝である。永楽帝の即位により、政治の中心は再び北平改め北京へと移った(ただしその後も南京に南京六部を置き、副都的な扱いをしていた)。

 永楽帝は、北京に遷都し洪武帝の慎重策を改めて盛んに勢力を広げた。北に退いた元朝の残党(北元、明ではこれを韃靼と呼んだ)は1388年にトゴン・テルム・ハーンの王統が断絶していたが、永楽帝は遠征により制圧した。満洲では服属させた女真族に名目的な役職を与え羈縻衛(キビエイ)とし、1411年(永楽9年)黒竜江流域に奴児干都司を設置し管轄した。南方では大越(ダイベト・ベトナム北部)を陳朝・胡朝の内乱に乗じて征服した。

 さらに海外の東南アジア。印度洋にまで威信を広げるべく鄭和に率いられた大艦隊を派遣し、一部はメッカ・アフリカ東海岸まで達する大遠征の結果、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせた。ジンギス汗以来西方への討伐侵略が象徴されていましたが、明王朝も負けじ劣らず、世界征服に近い事をしていた訳です。

 永楽帝の死後、モンゴルへの遠征、東南アジアへの艦隊派遣は中止され、女真族を管轄した奴児干都司も1435年(宣徳10年)に廃止、大越(ダイベト)では征服からわずか20年で黎朝が独立した。しかし永楽帝の子の洪武帝・孫の宣徳帝の二代に明は国力が充実し、最盛期と評価される。(仁宣の治)。 

1 太祖 開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝 洪武帝 朱元璋 洪武 1368年 - 1398年 孝陵
2 恵宗[1] 嗣天章道誠懿淵功観文揚武克仁篤孝譲皇帝[1]
恭閔恵皇帝[2]
建文帝 朱允炆 建文 1398年 - 1402年  
3 太宗
成祖[3]
体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝
啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝[3]
永楽帝 朱棣 永楽 1402年 - 1424年 長陵
4 仁宗 敬天体道純誠至徳弘文欽武章聖達孝昭皇帝 洪熙帝 朱高熾 洪熙 1424年 - 1425年 献陵
5 宣宗 憲天崇道英明神聖欽文昭武寛仁純孝章皇帝 宣徳帝 朱瞻基 宣徳 1425年 - 1435年 景陵
6 英宗 法天立道仁明誠敬昭文憲武至徳広孝睿皇帝 正統帝 祁鎮 正統 1435年 - 1449年 裕陵
7 代宗[1] 恭仁康定景皇帝[4]
符天建道恭仁康定隆文布武顕徳崇孝景皇帝[1]
景泰帝 祁鈺 景泰 1449年 - 1457年 景泰陵
8[5] 英宗 法天立道仁明誠敬昭文憲武至徳広孝睿皇帝 天順帝 祁鎮 天順 1457年 - 1464年 裕陵
9 憲宗 継天凝道誠明仁敬崇文粛武宏徳聖孝純皇帝 成化帝 朱見深 成化 1464年 - 1487年 茂陵
10 孝宗 建天明道誠純中正聖文神武至仁大徳敬皇帝 弘治帝 朱祐樘 弘治 1487年 - 1505年 泰陵
11 武宗 承天達道英粛睿哲昭徳顕功弘文思孝毅皇帝 正徳帝 朱厚㷖 正徳 1505年 - 1521年 康陵
12 世宗 欽天履道英毅聖神宣文広武洪仁大孝粛皇帝 嘉靖帝 朱厚熜 嘉靖 1521年 - 1566年 永陵
13 穆宗 契天隆道淵懿寛仁顕文光武純徳弘孝荘皇帝 隆慶帝 朱載坖 隆慶 1566年 - 1572年 昭陵
14 神宗 範天合道哲粛敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝 万暦帝 朱翊鈞 万暦 1572年 - 1620年 定陵
15 光宗 崇天契道英睿恭純憲文景武淵仁懿孝貞皇帝 泰昌帝 朱常洛 泰昌 1620年 慶陵
16 熹宗 達天闡道敦孝篤友章文襄武靖穆荘勤悊皇帝 天啓帝 朱由校 天啓 1620年 - 1627年 徳陵
17 毅宗[1]
威宗[6]
懐宗[7]
紹天繹道剛明恪倹揆文奮武敦仁懋孝烈皇帝[1]
荘烈愍皇帝[7]
崇禎帝 朱由検 崇禎 1627年 - 1644年

 とまあ、「明朝の系図」はこんな処です。普段こんな系図なんて見もしませんが、書籍やDVDを見る時に多少なりとも把握が出来ていればより一層理解を深める事が出来ますね。この後満州王国となる訳ですが、満州だって中国の北の民族で、滅茶苦茶、「毛嫌い」する事も無いと思うのですが中国は万里の長城の中が漢民族と思っているのか、清王朝は、「反清復明」として根強い抵抗を受ける事になります。一説によると、忠告以外の部族は皆「辮髪」(べんぱつ)でありそうした民族は東夷、西戎、北狄、南蛮とされ日本の髷(まげ)も辮髪の一種だそうです。

 今、新疆ウイグル自治区にしても目の敵にしていますね。嘗て、チベットのダライラマでお馴染みの「ラマ教」も目の敵にされ、毛沢東はラマ僧を何十万人も虐殺した事があります。昔「片腕ドラゴン」の中でもラマ僧の左龍、左虎が悪逆非道の僧として設定されてとり上げられていました。ラマ僧にそんな僧はいません。

「中華思想」と言う言葉がありますが、中国人にとって自分達以外は全て蛮族で「奢りとも取れる誇り」を持っていました。

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チェーンソーが壊れて新しいのに替えました。

2021-12-05 08:42:07 | DIY

 もうかれこれ20年以上も前に「リョービ」のチェーンソーを購入して結構使っていて重宝していたんですが、キャブレターが駄目で、またスロットルを引いてもプラグに火が飛ばないらしく修理をお願いしてあちこち回ったのだが「もう部品が無い」との事でおじゃんになってしまいました。

 地元の農家で農機具に詳しい方が農協に一緒に連れてってくれ、手ごろのを購入しました。外国製です。その方が曰く、この機械はプロが使うし、部品の供給も変わっていないんだそうだ。

 此の型の特徴はスロットルの機構が2重になっていて、「引く力が少なくて軽く掛かる」点です。これは楽ですね。それに馬力が凄いね。前の機種だと木の固い所とかで食ってしまうと止まってしまうがこれは結構切り通してしまうね。吹き上がりが強いです。

     
           STIHL MS-170C←このCが付くとスロットルの引く力が軽くて楽です。

 欠点はちょっと、価格が高いね。農家の方の副業は、木の伐採等もされるそうで木の上の作業も多く、軽くて小さくないと駄目なんですって。でもそういうのに限ってうんと高いね。確かに小さくても頑丈に出来ています。

          

 ま、針外しとしましては、大した事はしませんけどね、ちゃんとした機械は取り敢えずに揃えて置こうという事です。今回ついていたのは、キャンペーン中なのか、替えのチェーンソーブレードがおまけでついてくるという事です。おまけと言っても、これが結構お高いね。国産の物でも3000弱の価格です。この一つで、針が使う量的にはかなり長く迄使えるだろうね。

                  
                        帽子も貰っちゃいました。 兎角人間「おまけ」に弱いね。「タダ」と言う言葉が魔法に言葉のようだ。(笑) 

 国産と外国の違いは国産の方は、故障してもすぐ対応してくれる。外国の物は希少な物は中々対応が遅い。ま、最近は代理店がしっかりしてきて、これは大分解消してきました。ただ部品供給に関しては、例えばコールマンの「ランタン」を見てみると、先日、中のバーナーが錆びてヒビが入ってガス漏れが起きると危ないので交換した訳だが、何十年も経っているのに改変していなくそのまま、交換出来ました。これは有難いね。ただ家電なんかはショッチュウ、モデルチェンジをしていかないと売り上げが落ちてしまうからそういう訳にいかないね。

 外国の物は得てして変に改変しません。これは購入者にとって心強い。

 物置に入れておくと劣化が早いので、ビニール袋に入れておくのも「手」だね。機械は使わないと駄目だって。前にも言いましたが、針も自動車の鈑金工でしたが、「工具」は一度でも使えば「無駄に購入したのではない」という事だ。代価に見合う分が取れたという事だけではなく、その人間にとって十分に利用価値があって役にたったということだね。

此の機械が無ければ、用を足せないという事です。「用を足せない」と言ってもおしっこの事じゃないよ。(笑) これで作業して目的を達成出来ないと行き詰ってしまうという事です。他人はどうであれ、その人間にとっての「活路」なんですね。・・・・でいいじゃない。話が大袈裟になっちゃったかね?。ガハッ。

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勝手な推理なんですが。

2021-12-01 14:56:34 | 針の政治談議

 終戦、当時、マッカーサーは、日本と言う国に恐れを抱いた。で彼の考えたのは、アジアの同民族をお互いいがみ合わせて仲が良くならないようにしようと画策したと言う事だ。

 中国と韓国と日本をお互い反駁させて、結び付かないようにした。韓国の李承晩、中国の江沢民に事もあろうに「反日」を植え付けた。と言うのが針外しの考える処です。これにまんまと乗っかってしまったのが、中国と韓国です。

 極東で明治維新を皮切りにインフラや交通網、学業等、一気に進んで改革を成し遂げた日本。欧州各国が清朝を傀儡してある意味植民地化しようと画策していました。其処へ清朝のルーツである満州国を設立して、欧州と対抗しようとした日本。そういう構図だと思っています。

 毛沢東にしても最初は独裁王国を打倒して共和国を設立しようとしましたが、結局彼自信が独裁の長たる皇帝になってしまいました。これじゃ歴代の王朝の君主と変わりありません。と言うか,もっと酷い状態です。

  歴代皇帝は一人ですが、今の中国共産党は何十万人の皇帝がいる状態で、各々が利権を貪っていてもっと酷い状態ですね。それも、直接、国民からの選挙で選ばれている訳ではありません。

で、中国は、未だ、秦の時代の考えをそのまま維持しています。当時の楚の国を「攻め滅ぼせば我が国が潤う」という事です。中国人は同じ人民同志根本ではいがみ合っているから、国家間のスタンスなら尚更です。そのくせ友人、家族、兄弟、親戚とかになると物凄い身贔屓があります。武侠小説なんか好きで見ますが、人の言う事を聞かないので結果、直ぐに喧嘩が始まります。

 嘗てベトナムと中国派共産党国家として中が良かった。(当時、ホーチミン氏)また、キューバにしてもそうでしたが、此処に来て中国は自分勝手、我儘が行き過ぎて世界各国から、見放されてしまいました。針の家の隣はキューバ大使館ですが、皆、明るく陽気で、気さくな人達です。踊りも上手いしね。

 キューバの人、うちの町会とも皆、仲がいいです。中国の人は、一般の人はそうではないと思いますが、上層部の人は油断のならない、裏があると感じてしまいます。今の中国は政策を実行する時、党の意向を優先。人民がその為にないがしろにされたり、被害を被っても全くの無視です。中国国民は、国から「馬鹿」の教育しか受けていないのか、国を信じ切っています。(こういうのは我が国でもありますね。)

 中国は国がでかい。軍部もどんどん増えてしまって、歯止めが効かない状態です。一説によると、習近平も軍部を押さえきれなくなってしまったとか。いう事を聞かなくなった軍部。だから台湾進攻をほのめかしたり、アメリカと好戦的になったりしています。穿った事を言うと習近平は膨れ上がった軍の縮小を画策しているとか。何とか小競り合いでもいいから、戦って死んでもらいたのかも。
とまあ、色々書きましたが、私自身、身贔屓を排除して書いたつもりです。つくづく中国に生まれなくて良かったよ。一部の上部の贅沢さ、我儘が国を駄目にしてしまっている。
人民が可哀想だとおもわないのかよ?。

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