屈原をWebで調べて見ると
屈原は楚の武王の公子瑕(屈暇)を祖とする公族の1人であり、父は屈伯庸、弟は屈遙、子の名は不詳。閭屈氏は景氏・昭氏と共に楚の公族系でも最高の名門の1つであった(これを三閭)。家柄に加えて博聞強記で詩文にも非常に優れていたために懐王の信任が厚く、賓客を応接する左徒となった。
当時の楚は、西の秦といかに向き合っていくかが主要な外交問題であった。楚の外交方針について、臣下は二分していた。 一つは、西にある秦と同盟することで安泰を得ようとする親秦派(楚における連衡説)であり、もう一つは、東の斉と同盟することで秦に対抗しようとする親斉派(楚における合従説)である。屈原は親斉派の筆頭であった。当時の楚では屈原の政治能力は群を抜いていたが非常に剛直な性格のために同僚から嫉妬されて讒言を受け、王の傍から遠ざけられると同時に国内世論は親秦派に傾いた。
もう少し説明すると秦の強大化に対抗する為に他の六国も軍事態勢を敷いて対立はますます激化していきます。戦国時代にもう一つ縦横家と呼ばれる諸子百家の一学派がいて巧みな話術・郵政と大きな野心を持って諸国の君主に取り入った政略家・謀略家が出た。洛邑出身の蘇秦は最初、秦に赴いて遊説したが受け入れられず、後六国に回り六国の同盟を組んで秦に立ち向かうべきとする合従策を説く。趙の王に認められて一時は同盟の宰相にまでなった。
時に張儀が謀をめぐらし、秦は懐王に縁談を持ちかけ秦に来るように申し入れた。屈原は秦は信用がならない、先年騙されたことを忘れたのかと諫めたが懐王は親秦派の公子、子蘭に勧められて秦に行き、秦に監禁されてしまった。
王を捕えられた楚では頃襄王を立てた。頃襄王の冷尹(丞相)として屈原が嫌い抜いた子蘭が着任したため、更に追われて江南に左遷された。その後秦により楚の首都、郢(えい)が陥落した事で楚の将来に絶望して石を抱いて汨羅(べきら)に入水自殺した。
屈原曰く「世間の人々が皆濁って汚れているのに私だけが清く正しい。衆人は皆酔って(酒に酔っている訳ではありません)道理が分らないのに私だけが冷めて道を守っている。こういう訳で私は追放されたのである。」
中国が和平交渉しても、有利と見れば平気で破る。日本人の感覚とは遠く離れています。これは昔からの風習,理です。和平と偽って騙すのは当たり前の事で日常茶飯事です。
もし将来中国との折衝があって条約でも結ぶことがあるなら、十分注意して、破るのが当たり前の国と承知しなければならない。屈原はそんな中にあって、心が純な人なんだろうね。自分が純だからといって相手もそうだなんて間違っても思 っては駄目だ。屈原は戦国の世に自分の国がレベルの低い人の為に国が滅んだのを嘆いて入水した。ただの純粋とか清廉潔白とちょっとレベルが違います。純粋の愛国者です。
嘗て社民党の土井委員長は「北朝鮮が人を拉致するなんて絶対にあり得ない」なんて北を信じ切っていましたが、結果北朝鮮はその罪を認めた。
世の中の知識の低い人は自分を中心に物事を判断するね。こういうのを「愚の骨頂」と言いますね。土井委員長は後に「自分の意見で我が身を削る羽目になりました。
論理を組み立てるのに、
① 物事を主観だけで判断する。自分の頭から抜け出せていません。こういう人の共通な物の一つに、人の言葉尻をとってくだらない問答をします。後自分の意見に酔いしれます。
② 次に人の意見、書物、社会的経験を見てその意見に傾倒して、受け売りをしてそのレベルだけで物申す人がいます。自分がいません。
③ ②の経験値+苦労して得た自分の経験これを腹の中でこなして自分の意見を確立する。
これが論理を展開するのに基本中の基本です。まずここからが始まりです。無駄な意見も削りおとします。正しい意見を蓄積していきます。
戦国時代であっても自分の頭から抜け出せない人がほとんどだ。こんな事では国を滅ぼしてしまいますね。
だから、賢明な人は、単純頭の人、偏った人が出てきたら瞬時に判断して、すんなりと上手くかわして相手にしません。
とまあ、なかなかそのレベル・境地にはたどり着けませんけどね。