父、鄭芝龍は福建省泉州府の人で、平戸藩・松浦隆信の寵を受け平戸老一官と名乗った。長崎県平戸市川内町に住んで日本人の女性、田川マツを娶った。身籠ってたまたまマツが千里ヶ浜に解拾いに行った時に俄かに産気づいて家に帰る暇のなく浜の木陰の岩にもたれて鄭成功を出産したので浜には「誕生石」がある。幼名を「福松」と言い、7歳の時に父の故郷の福健に移る。鄭一族は、厦門島(かもんとう)や金門島を根城にして密貿易を行っていたので、政府や商売敵との抗争で私兵を持っていた。
1644年李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自決すると明が滅んで順が立った。すると旧明の皇族達は各地で亡命政権を作り、鄭芝龍らは「唐王・朱 聿鍵(しゅ いっけん)」を擁立したが、清の軍の攻撃であっけなく滅ぼされた。(元号を隆武としたので隆武帝と呼ばれた)
そんな中父の紹介で隆武帝の謁見を賜る」帝は眉目秀麗な成功を気に入り、朕に皇女がいれば娶わせる処だが、残念でならない。その代わり国姓である「朱」を賜るといった。
鄭成功は「畏れ多い」と決して「朱姓」を名乗らなかった。しかし、人からは国姓を賜った大人」と言う意味で「国姓爺」と呼ばれるようになる。鄭成功は勢力を立て直す為に台湾に渡り拠点にしようと試みた。当時はオランダ東インド会社が統治していたが、1661年に澎湖諸島を占領したのちゼーランディア城を落とし、城跡に安平城を築き「王城」とした。オランダ人を一掃して鄭氏政権を樹立したが熱病に罹り死去した。
鄭成功は今日、台湾人の」不屈精神の支柱,象徴である「開発始祖」として社会的に高い地位を占めている。台湾城内に「明延平郡王祠」として祭られています。