御存知、夏の甲子園。針の母校の日大三高が甲子園に出場を決め。四国の強豪。徳島商業と対戦して、2-0で勝利することが出来た。四国勢と初回から当たってしまった三高、こりゃ危ないぞ!と危惧していたのだが、なんとか勝利することが出来た。徳島商業で三高は2点しか入らなかったところをみると、流石、猛者揃いのチームであったのは間違いない。
三高は都会っ子の集まりなのでひ弱さは免れないし、ど根性のあるチームと当たると当然初回敗退が多かったが、最近の三高は少しは骨が出来てきたせいか、何とか関西勢、四国勢、九州勢と当たっても、「何やってんだ、○鹿野郎」という言葉は出てこなくなったね。(笑)←オイオイ、随分と偉そうな物言いじゃねーかよ!。
日大三高関連のサイトをいくつか載せたので暇な人は見てね!。
三高のH・P
http://www.nichidai3.ed.jp/s_index/s_guide/
当時、針の通った三高は、赤坂にありまして、都電も走っていた大昔(笑)。入った時は、質実剛健の校風で、頭は当然、丸刈りだった。当時の校長先生は亡、鎌田彦一先生で、授業は9時でしたが、8時半までに入校しなければならず、15分を過ぎると、独特の口笛を吹き、それを、聞いた学徒は帽子を手に持ち替えて、鞄を小脇に抱え一目散に校門を目指して突っ走るので、赤坂辺りではとっても有名な話だったのだ。
当時の三高の先輩達は、質実剛健でも、とっても下級生には優しくて、よく面倒をみてもらいましたぞな。 でもよく言われましたのが、赤坂「山王下」で降りるのが、日焼けで真っ黒で勉強出来なさそうなのが三高生で、「赤坂見附」で降りるのが青白くて秀才風な日比谷高校生だとね。ガハハ(泣笑)。
その後、鎌田彦一先生が御逝去され、娘婿の鎌田三太夫氏(これ実名)に移るわけであります。この先生も情があっていい先生だったなあ!。
これはもう時効で、故人になられたので言いますが、針が高3の時の冬(大学の推薦が決まっていた時)校門の前で旗を持っていた三太夫先生の頭が(天辺の毛の無い所が)3階の窓をあけるともろに目に入った。そこで針は窓に積もった雪を丸めてその頭を目標に投げたんですね。普段はコントロールの良さのヒトカケラのないのにその日に限って、ど真ん中に命中してしまったのだ。そんなー!。そんなー、当てる積もりはなかったのにー。(半分は、オオ、してやったり!)←コラー!。
そうしたら、三太夫先生、怒って3階まで上がってきた。当時針さんは、品行方正で通っていまして、(3年A組の文化委員をやってました)先生も全く針の事を露ほども疑っていない。「おい、今、上から雪を投げた奴が居たが針はそいつを見なかったか?」
ちょと後悔していた針は「すみません」と言おうと思ってたんですが、口が、・・ああ、口が勝手に動いて、「先生、僕も今此処に来たんですが、何かあったんですか?」と言ってしまった。30年も経った今も後悔しきりです。ぎゃはは、本当だよー。
三高のウィキぺデリア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%AC%AC%E4%B8%89%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
三高応援団
http://www.h6.dion.ne.jp/~sanko350/index.html
以前、お得意さんの部品部門の三沢君から、「針さん。うちの学校に日大三高出の「小枝監督」って方がいるんですけど、知ってますか?」と言うんで、「小枝は針の同級生だよ」 「え"ー、三沢君学校何処なの?」。「僕は、拓大紅陵です」。甲子園のテレビ解説者でよく出ています。お地蔵さんみたいな顔立ちですよ。
成る程、小枝君、当時、三高の監督になってたんですが、父兄との折り合いが悪く、三太夫先生が拓大出なので、その伝手で小枝君を拓大紅陵に引っ張ったんですね。小枝君、普段は大人しい仁徳者でしたが、野球になると熱血漢でしたからね。
それだけ、現代っ子の集まる野球部は軟弱の集まりだったんでしょうね。暫くは都の代表にも出ませんでした。
今回のナイン、は重量打線と言うよりコンパクトにヒットを重ねる打線とか!?。ピッチャーの関谷君は元巨人軍、パイレーツの桑田真澄氏(塾)の門下生とありました。
最近、針の同級生の原君が三高の経理に入りまして、いよいよ、大変な盛り上がりになりました。原君は最初「城南信用金庫の支店長をしていまして、後、川崎フロンターレの顧問→山脇学園(女子高)→日大三高の経理という経歴の持ち主なんです)一体どういう伝手で山脇学園に入ったんだろう?。(笑)
こういうチームは好きだなあ!。今回は期待しちゃうけど、「勝敗は兵家の常」とありますからね、いい試合を期待するばかりだ。