2009.5.15(金)晴れ
讀賣新聞朝刊の一面に「殿の墓 小判ざくざく」という記事が載っていた。愛知県幸田町の本光寺の松平忠雄の墓所から副葬品として小判がざくざく出てきたというものである。深溝(ふこうず)松平家といえば十八松平家の一つで、福知山藩から島原藩に移封(領地替え)され、その後変遷あるも島原で維新を迎えた殿様である。島原の本光寺を訪れた際(2007.3.28参照)御廟の葵の御紋を見て、「福知山さん葵の御紋~」という福知山音頭の意味はすっかりこれだと思ったのだが、実はそうでなかった、深溝松平家の家紋は葵ではなかったのだ。島原本光寺では先祖である徳川家の霊廟もあり、そこに葵の御紋があったわけだ。ではなぜ福知山藩が葵の御紋なのか、朽木の殿様がいかに譜代大名といえども葵の家紋のはずがない。福知山音頭の「葵の御紋」の由緒はその2ヶ月後解決することとなる。興味のある方はじょんのびに来ていただければお話ししましょう。
福知山藩領地図、これが島原にあったのには驚いた。
さて、紙面の記事に不思議と思ったのは、なぜ島原藩二代目の殿様の墓が三河にあるかだ。島原本光寺を訪れた際、「国替えと共に家臣も菩提寺も移転するのですよ」と聞いた。元々は三河にあった菩提寺本光寺が、移転して今は島原にあるということだ。当然菩提寺であるから、島原藩の歴代の藩主の墓もあり、忠雄の立派な石塔もここに在るわけだ。では記事の三河の墓所というのは一体何なんだ。
色々と調べてみると墓所というのは三河の本光寺で、島原のは霊廟のようだ。ちなみに福知山藩主であった際には福知山に菩提寺本光寺が在ったそうだが、今そういう名の寺院は旧市内には無い。夜久野町(現福知山市)には同名の寺院があるが、松平家と関わりがあるかどうかは定かで無い。
松平忠房が島原藩に移封された際に家臣や菩提寺の他に福知山城にあった文化的な物品も総て持っていったそうである。本光寺にある丹波の古地図や福知山城下の地図、亀山や宮津などの地図や絵図などを見ると丹波地方の歴史関係者には垂涎の的となるだろう。
【作業日誌】
鷹の爪植え付け
草刈り(3日目)
今日のじょん:例のうなり声が時々聞こえる。寝ている時が多いのだが、いつもの寝言とは明らかに違うので不気味である。というより、吠え方にしてもドスが利いていて迫力満点なので、その理由が知りたいものである。ウーと唸ったときに起きていって確認するしかないのだが、その勇気が起きない。