晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大唐内のこと(21) 鬼伝説 12/18

2010-12-18 | 歴史・民俗

2010.12.18(土)曇、雨

 まず丹波志とはいかなる古文書であるか、府立総合資料館の資料によると以下のごとく説明してある。

「寛政6(1794)年にまとめられた丹波地域の地誌です。福知山藩士古川茂正と篠山藩士永戸貞著が、丹波6郡を対象に編纂を目指しましたが、天田・氷上・多紀郡を成稿したのみで没してしまい、未完に終わりました。しかし、大正年間にいたって北村竜象によって新たに丹波六郡の地誌「丹波誌」が完成しました。」

ということは何鹿郡については大正になってから書かれたものだろうか。その中に「草ヶ部村ニ高野聖リ住シ当山ニ来リ祈リ退治ス」とあるのが大唐内と有安を結ぶ重要なポイントだろうと思う。かつては有安は草壁の一部だったのだろうか。角川の地名辞典では草壁村も有安村も近世以降のことしか記述が無くて確認ができないのだが、少なくとも草壁については古代からの村だろうと推察される。
 草ヶ部村の高野聖が祈祷によって退治したのと、有安村の藤元善右衛門が弓の神技によって退治したのとの二つの説話があるということだ。これは古代の伝説に弓で名を馳せた名人が付加されたものと考えたい。草ヶ部村の高野聖はおそらく有安村に住んでいたものだろうし、ひょっとしたら藤元一族の先祖に当たるものかもしれない。そういう風に考えるのは、大唐内に有安谷、有安迫という地名を見いだすからである。Img_1308
 大唐内にはいると仏徳谷、有安谷と続く。

もちろん大唐内と有安を結ぶ大きな伝統行事は甘酒講である。
 また、弓の名人藤元善右衛門が大蜘蛛退治の主人公となった背景に、酒呑童子退治の影の主人公渡辺綱がたいそうな弓の名人であったということも考えられないか。次に大蜘蛛退治伝説の真相を探るために、かすかな状況証拠ではあるが、有安の地名、日下部一族とは、聖大明神、藤姓についてなど述べていきたい。

 話は変わるが先日老富町のWTさんから大唐内のとある家で温石石(おんじゃくいし)が取れるという情報を頂いた。もちろん現在では使わないが、懐炉の原型のようなものである。そこでしか取れないということだったが、黒色ということだったので安山岩、角閃石あるいは蛇紋岩かもしれない。次に大唐内を訪ねるのが楽しみになってきた。つづく
(大唐内のこと(20)は2010,12,17)

今日のじょん:じょんカレンダーを作製依頼する。じょんのいい写真というより季節の景色を重点に置いたので、そういう眼で見ていただきたい。ワン。表紙はじょんのび村に来るまでの写真。Img_1938

 

 

 

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