晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(48) 7/8

2018-07-08 | 山・峠

2018.7.8(日)曇り  二つの大栗を訪ねる-2

  忠町大栗はマイウオーキングコースでもあり見慣れた景色である。ただいつも天気の良いときにしかこの景色を見ていないので、大雨の大栗を見てみたかった。それは大栗という地名が一般的に水の浸食による崩壊地名とされているからだ。地名の考察は次稿に譲るとして雨の大栗がいつもと違うところは、濁流の白波と轟音だ。特に須呂橋から下流が激しい。この状況は十倉の大栗と共通する。ゴルジュ帯(この表現はちと大げさすぎるが、山がせまって、川幅が小さくなったところと理解して頂きたい)洪水となる場合、この狭隘部で水の流れがせき止められ逆流して平坦部の田んぼや家屋にまで及ぶという証言を得た。これも両方の地域で共通である。どちらも28水(昭和28年の大台風)の経験者に聞いたものだが、昨年の台風でも同様の事態が発生したそうだ。

須呂橋から下流を望む、写真では広く見えるが、28水以前は左の土手が田んぼ二枚分出ていたそうだ。古墳は写真の左手辺りにある。
 忠町大栗のすぐ下、河畔の田中に堂ノ下古墳という古墳が2基ある。水面からさしたる高さもないのだが水害に襲われることもなく現存している。そのことも不思議なのだが古墳時代の人たちはどこに住まいしていたのかということも気になる。既に稲作を行っている時代なので現在同様の地域が妥当と思われるが、そうすると古墳のある地域は墓地、聖地として祭祀の場所と言うことになる。では川のどちら側に住んでいたのだろう。左岸の方が谷は発達していて水の便は良さそうである。しかし流路から考えると水害はこちらの方が確率は高い、でも古墳まで陸路で行ける、大栗はその通路となる。とまあいろいろ想像するんだが、橋の無い時代には両岸の通行は相当困難だし、水が出たとき、例えば今日の様子だと絶対に無理である。

須呂橋から上流。大栗は右手の林の部分。水によって浸食された地形とはいえない。

後日須呂橋からの写真、大岩が現れ岩礁地帯は武吉まで続く。
 これらのことは十倉の大栗にも共通する。大栗には大栗1~3号墳があり、金環なども出土しているので相当の古墳のようだ。上林川が狭隘になった部分の左岸にあり、忠町とまるで同一の位置関係にある。古墳の造り方の共通性かと他の地域も調べてみるがそのような共通性はない。ただ、支流の谷の側にある場合が多く、これは石材が得やすいからなどと想像してみる。大栗という地名を着けたのはおそらくこの古墳を造った辺りの人なのだろう。その人々の気持ちになって考えることが大切だ。現場に立って、当時の人の気持ちになること、これは地名解の王道である。つづく

 
 


コメント
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