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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雪中八策 防獣編(21) 3/15

2012-03-15 | インポート

2012.3.15(木)雨、曇

 野生動物を奥山に追いやっていた「人間の営みの圧力」こそが防獣の根本的な解決策として、里山や山に人間の営みを復活し、里山、山の再生をすることを説いてきたのだが、その発想の発端となった田口洋美さん(東北芸術工科大学校教授)の説の趣旨は別の所にある。氏は狩猟と農耕のバランスが大切と説いておられる。

 「農耕と狩猟の、自然に対する立場は矛盾したものです。しかしこれが助け合う関係になるのです。量子力学で言う相補性という考え方です。つまり、狩猟者は野生鳥獣が居てほしい。農耕民は農地周辺の野生鳥獣にいてほしくない。だから狩猟者が農耕地の周囲を猟場にし、野生鳥獣を捕獲する。狩猟と農耕は分かちがたい絆で結ばれるのです。」とまあ、なんとも美しい理論なのである。語っておられる理想は充分理解できるのだが、現実とはあまりにかけ離れているので、鉄条網の中で悶々と日を送っている私たちには、「諦めなさいよ」と言われているようにさえ思える。
 
 農耕以前から人間の生活を担ってきた狩猟が現在どのような状態にあるのか、知る人は少ないだろう。わたしもその実態はよく知らない。上林には二人の猟師さんがおられることを聞いているが、これだけひろい地域の駆除なり殺処分をお願いしているわけだ。しかし猟で生計が成り立つのか、後継者はあるのか、絶対数は足りてるのか、将来はどうなるのか等々の情報は持っていない。最近他地域ではあるが猟師の方と面識が得られたので、機会があればその辺のところを聞いてみようと思っている。2011120619460000
 
これは今季の地元の猪肉である。実に脂がのっていて美味しい。前期は肉質が悪くて売り物にならなかったそうだが、気候や山の食糧などが影響するようだ。






 一般には職業としてほとんど認識されていない猟師、その狩猟と農耕がバランスを持ってと言われても雲をつかむような話である。
 古代には主要産業であった狩猟がすっかり影をひそめた理由は、やはりそれで食べられなくなったからだと思う。それは食肉が野生動物から家畜に変わったからだろう。ただ過去の、仏教思想による食肉習慣の衰退というのは我々が考えているほど影響のあるものではないかもしれない。田口先生も野生動物は食されており、家畜とは明確に区別されていたと述べておられる。
 近代になって、野生動物の食肉としての需要、二次生産物としての毛皮などの需要が減ったことが狩猟の衰退となったと考える。決して乱獲による動物個体数の減少とは思えないのである。つづく

【作業日誌 3/15】
郵便受け箱改造(水濡れ対策、装飾)P1010287_2

今朝の雪で中が少し濡れていた。開閉する蓋を付けることにする。


今日のじょん:又しても雪が降った。八時頃から雨になってきたので、みるみる解けてしまったが、レインコートは必需品。ぽんぽこぽんで強烈木下やえこさんも取れるようになった。えらい進歩である。P1010289

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雨読 李寧煕が解いた古代地名を歩く(2) 3/14

2012-03-14 | 雨読

2012.3.14(水)晴れ 

 例えば飛鳥は「最高の鉄処」と解かれている。アは古代韓国語で天、端、最高、スも古代韓国語で鉄、カは辺、処を表す韓国語ということである。
 古代韓国語でこれこれと言われても確かめようがないのだが、アスが鉄を表すというのはよく言われており、わたしも「浅原のこと」でアサ、アス、アソは鉄を表すという風に書いた。カはよく使われる言葉で、処、場所を表すのだが日韓辞典を引いてもガ、ガッが場所、ところを表すとは出てこないのだが。
 アスカは鉄処という風に解くことは出来るが、李女史が解いた地名を立証すべく著者の仕田原氏がその地を訪れ、飛鳥川の川べりでは砂鉄が採れたと言うのである。しかし本当に川べりの砂を採取し砂鉄が採れるかどうかは調べていないのである。
 そして飛鳥川から砂鉄が採れた証拠は、万葉集に「飛鳥川のしがらみ」というのがあって、「しからみ」とは「鉄(し)絡み」だからとか飛鳥川左岸の川原寺跡の北端部から発掘された「鉄釜の鋳型」の原料は飛鳥川の砂鉄だと主張されるのである。
 もし氏が科学的な史観を持っていたら、実際にその川の砂を調査すれば良いことではないか。
 同様に恭仁京のところでは、「鹿背山の左右に構えた二つのS型の三日月地帯。鉄はここで豊富に採れ、鹿背山で精錬されていたことが分かる。」とある。具体的な場所まで指定しながら、そこの砂を探ってみないのは科学的ではない。鉄が豊富に採れ、精錬されていたと言われても少しも分からないのである。
 また川から砂鉄が採取されたとして、当時川に堆積した砂鉄から製鉄か出来たものなのかその辺の所にも言及して欲しい。
 すべてがこんな風だから、内容が当を得ていたとしても信頼できないのである。

 今ひとつは著者の仕田原氏が李女史に盲従的な態度が文脈に現れている。歴史や民俗学の研究者は往々にして、ある強力な史観を持った学者に幾人かのシンパが集まり、あたかも新興宗教の教祖に対するがの如く盲従するケースが見られることがある。もちろん考えを同じくするものがより深く研究するために集うのは
好ましいことではあるが、盲目的に追随する態度は非科学的である。
 このことが本書に信頼を置けないわたしの理由である。P1010286

 ただ、権力の中枢が存在した都周辺に朝鮮語をルーツとする地名が多く残るのは当然だと思うし、鉄が権力者にとって最も重要なものであったことは間違いがないだろうから、本書の中にいくつか参考になる部分があろうかと思う。
 手元に「地名の古代史 近畿編」(谷川健一・金達寿)「地名は語る 大阪市内編」(大阪民主新報社編)の二冊がある。同一地名のところがいくつかあるので、読み比べてみたいと思うし、朝鮮語起源の地名に関する書物をいくつか探したいと考えている。おわり

【作業日誌 3/14】
レタス、サニーレタス、スナックエンドウ植えつけ
じゃがいも畝造り

今日のじょん:朝起きると一面真っ白、また雪かよ、違うんだな霜なんだな。そういえば霜注意報出てたっけ。おとーが作ったポストの屋根にもつららが、そして水飲みはカチンカチンに凍って飲めやしない。P1010280 P1010284_2

 

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雨読 李寧煕が解いた古代地名を歩く(1) 3/13

2012-03-13 | 雨読

2012.3.13(火)雪、曇

 地名に関する書物を沢山読んでいると様々な見方をされていることが解る。その流れの一つがアイヌ語起源説で、アイヌ語地名辞典のようなものまで出版されている。もうひとつの流れが朝鮮語起源説で、本書はこちらの流れである。もちろんそれだけではなく日本語というものはあらゆる地域からの流入によって形作られたものだろうから一つの国や地域の言葉にのみその起源を求めるのは無理があろうかと思う。
 しかし日本人の多くが半島からの渡来であろうと考えられているし、特に古代の権力の中枢は半島からの渡来人に握られていただろうという考え方も正しいだろうと考える。従って古代地名を解くに当たって朝鮮の言葉を研究する必要は大であろうと思っていた。以前紹介した「日本山岳伝承の謎」(谷有二著)はわかりやすく朝鮮ルーツを解説しておられた。
 ぜひ他にも朝鮮ルーツの地名に関する書物を読んでみたいと思っていたところにこの本を見つけたわけだ。P1010279 

「李寧煕(イヨンヒ)が解いた古代地名を歩く」仕田原猛(しだはらたけし)著 2008年5月第一版発行 自費出版 購入価800円

 自費出版としては随分立派な本である。ページも三百三十六ページあり、装幀もしっかりしている。李寧煕女史は韓国の作家で、「もうひとつの万葉集」「枕詞の秘密」「天武と持統」「日本語の真相」「甦る万葉集」「フシギな日本語」「怕ろしき物の歌」「もうひとりの写楽」などの出版がある。日本語に関する研究、万葉集に関する研究などされているようだがわたしはそれらの内容を知らない。
 明日香から京都まで古代の都とその周辺の地名について古代朝鮮語などをもとに解読されたもので、そのひとつひとつを立証しようというのが本書の趣旨である。
 もうひとつ本書の特徴はその解読する地名のほとんどが金属、特に鉄と関連するのである。
 地名に関する書物では前述のようにルーツとしての言語が特徴的なものもあるが、その起源が金属、農耕、地形とも分かれている。地形起源が大部分であるというのは大方の見方のようだが、金属起源説の方は農耕起源については一言も語らないし、逆に農耕起源説の方は金属に関しては何も語らない。地形起源説の方は何もかも地形起源として、明らかに金属などが語源であろうと思われるものまで地形にこだわるケースが多い。
 読者としてのわたしの立場からは、これら一つの分野にこだわり、他の分野を無視する態度の書物は信頼を置くことが出来ない。なぜなら言葉にすれば、極東の日本はあらゆる方面から民俗と言語が流入し定着する場所だと思うし、文化だって金属や農耕文化だけで発達してきたわけではないし、地形だけが日本人の生活に影響した訳ではないと思うからである。
 そういう意味で本書の内容に私自身は信頼を置けないのであるが、その理由は他にもある。つづく

【作業日誌 3/13】
薪伐採
郵便受け箱完成

今日のじょん:玄関に郵便受け箱が完成した。じょんが散歩に行ってる間に据え付けたものだから、帰ってきて怖がること。新しいものがあると怖いのよね。P1010277 P1010275

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雪中八策 防獣編(20) 3/12 

2012-03-13 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.12(月)雪

 沖縄県農業試験場の外間数雄氏の「畑の景観 文化地理的考察 2.囲い込み農業」という論文に奥の猪垣について詳しいことが載っていた。
 高さは1.5m~1.7mで石組みの最上段はテーブルサンゴなどの平たい石を置き、庇(ひさし)のように突き出ている。リュウキュウイノシシはニホンイノシシの1/3ほどの体格で、跳躍力は1.2m程度という論文もあり、まずは侵入を防止できる高さなのだろう。最上部の庇状の石は、イノシシが前足をかけるのを防ぎ、よじ登っても足下が見えず飛び降りにくいという効果があるらしい。最近の金網柵についても上部が外側に張り出していないと防獣の効果がないと専門業者が語っておられた。先人の知恵は実に素晴らしい。
 また、猪垣の周囲に空間部を設け跳躍力を殺(そ)ぐという風に書いてあり少し理解に苦しむが、居住地に隣接する茂みを無くそうという現在の姿勢に共通するものがある。
 奥の猪垣は1960年代まで続いたとあり、共同管理が1959年に終了したというのは間違いないだろう。しかしその理由につては過疎化が原因と書かれている。今回の論文の資料提供者は奥の区長の某氏ということになっており、両論文とも過疎化が原因というのは奥では定説となっているのだろう。
 ご承知のように沖縄は1972年までアメリカの統治下にあり、農村の状態も本土とかなり違いがあったのかも知れない。だから一概には言えないのだが、私たちの田舎の状態を見る限りでは、1959年に猪垣の管理が不可能になるほど過疎化が進んでいるとは考えにくいのである。
 状況も解らない素人のわたしであるから将にげすの勘ぐりだが、猪垣が使われなくなった理由について仮定の説を考えてみたい。Img_2727
 
辺戸岬周辺の農地、防獣ネットなどは見られない。ただし作物は何か解らない。 


 奥の猪垣は物理的にその高さや石垣の工夫からイノシシの侵入を防いできた。しかし物理的な猪垣だけでは防ぎきれることはなく、猪垣の保守管理のための人間の行動、そしてその周囲の薪炭利用地域(里山)、さらに建築材利用地域(山)における人間の行動による圧力によって、イノシシは源流域(奥山)に閉じ込められた。
 ところがアメリカの統治下にある沖縄では本土の農村よりも早くに燃料革命、資材革命が起きたのではないだろうか。薪炭が灯油に変わるのも、外材による建築も本土より早く変わってきたと予想される。
Img_2778
奥、民宿海山木(みやぎ)の食堂、このような昔ながらの建物は見ることは無い。


しからば猪垣の外にある薪炭利用地域、建築材利用地域に人が入ることがなくなり、イノシシのバリアは猪垣のみとなる。そして猪垣は遂にイノシシの侵入を許す結果になったのではないだろうか。
 その後のイノシシ対策はトタン、鉄網、漁網などといった現在全国でみかける方法になったそうだ。猪垣を村で管理し、山に人が出入りしている時代には侵入しなかったイノシシに今はなやまされているのだろう。Img_2658
 
伊平屋島の風景、石垣は暴風のためか、ネットは防獣用らしい。


 もし猪垣だけでイノシシの侵入を防げたのなら、村人は万難を排して猪垣の管理を続けただろうと思うのである。つづく

【作業日誌 3/12】
郵便受け箱作製P1010271

後の修理や改良に便利なように屋根を着脱式にした。



今日のじょん:今朝の雪、しれてるけど1日降り続いた。じょんは大喜び。
P1010268 P1010269
雪のボールは歯にしみるのよね。 

 

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雪中八策 防獣編(19) 3/11

2012-03-12 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.11(日)曇、雪

 本記事を書くに当たって参考にしたものは讀賣新聞に掲載された立命館大講座「日本文化の奔流」という東北芸術工科大教授 田口洋美さんの記事だけである。(2011.12.2掲載)
 あとはわたしの拙い経験と観察眼、そして想像力のみで書いてきた。そういう意味ではわたしの言っていることが正しいのか、それともまるっきり見当違いなのか不安なところがある。
 沖縄国頭村奥(くにがみそんおく)集落の猪垣(ししがき)についての記事を書くに当たってインターネットで周辺資料を調べていた。そこで「やんばる地域自然環境保全活用基本計画検討調査報告書」の抜粋という堅苦しい文書に奥地域などやんばる三村に関する報告を見つけた。その中で「合理的土地利用にみる空間概念~自然を一体として捉える空間認識」というこれまた堅苦しい項目があるのだが、かつての土地利用の形態を示しているものである。
 要は海に面した川沿いに人の居住区があり、その周りに耕地がある。猪垣はその周りを囲んでおり、その外側には薪炭材利用区域、更に建築材利用区域があり、最奥は源流域といってほとんど人の手が加えられない地域があるというものだ。Img_2719
Img_2720 集落を見おろす丘、このあたりはかつての薪炭利用区域だろうか。山間には茶園が拡がる。 



 薪炭材利用区域とは燃料としての樹木の伐採を行う地域で、一定の面積を皆伐し2,30年でもとの樹林帯に戻っていたそうだ。建築材利用区域とはもうひとつ外側にあり、建材として使用できる樹木を選別して伐採していたそうである。源流域とはやんばるの森の最奥で、人も入ることのない原生林である。
 この文書はやんばるの森の自然環境保全という目的で書かれたものであり、動物の生態について書かれたものでは無いが、わたしが前述したABCD理論、つまり居住区・耕地、里山、山、奥山と分類したものとうり二つだということだ。Img_2723
 
国道に出合う辺りまで登るとそこはやんばるの森、源流域だ。 


 奥集落でイノシシの害が無かったのは単に猪垣が在ったからでは無く、その外に薪炭材利用区域、建築材利用区域という緩衝区域があったからこその結果なのだと考える。その管理に人の営みの軌跡が充分に染みついている猪垣が緩衝地帯をも突破して近づいてきたイノシシを最後の砦として防いでいたのではないだろうか。
 奥の猪垣の共同管理は1959年に終了したとある。原因は過疎化による労働力不足と書いてあるが、はたしてそうだろうか。真の原因は何か知りたいところだが、そのような資料は見当たらなかった。
 わたしが過疎化による労働力不足という理由をいぶかしく思うのは、1959年という年代である。終戦から15年、確かに過疎化が始まってもおかしくない年代だが、戦中戦後はもっと労働力に乏しかったのではないだろうか。それに過疎化と言ってもわたしの郷里などではまだまだ労働力に不自由するほどではなかったと思う。沖縄の寒村とでは条件が異なるかもしれないが、何となく腑に落ちない理由なのである。はっきり言えることは、イノシシの害が無くなったイノシシが存在しなくなったから猪垣の管理を止めたのではないということだ。つづく

【作業日誌 3/11】
郵便受け箱作製(塗装、台つくり)
ヒマラヤ杉腰掛けづくり

今日のじょん:周りの雪はすっかり無くなったが、じょんのびなごりの屋根雪は健在である。じょんの雪遊びもいよいよ最終かなと思っているのだが、夕方には雪が降ってきた。みんなたいしたことないだろうと言ってるが、昨年の3月17日には16cmの雪が降ったのだ。今朝のなごりの雪と昨年3月17日の雪。P1010259 Img_2517


 

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雪中八策 防獣編(18) 3/10

2012-03-10 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.10(土)曇

 雪中八策も18回を迎え、読者も随分減った。防獣の話題なんて街に住む人は関係ないし、田舎に住む人ももう諦めきっているか、例のネットですっかり安心しているかで興味ないのかも知れない。
 そこで今日は柵についてのコラムを書いてみよう。
 
 沖縄にはリュウキュウイノシシといって内地のニホンイノシシよりこぶりの猪がいる。現物を見たことは無いのだが、やはり食害に悩まされているようだ。特に沖縄では山からすぐに海なので、人の居住地と猪の生息地が隣り合わせになっている。わたしの言うところの緩衝地帯が無いわけだ。そして亜熱帯のため繁殖期が春秋の年二回となっている。そんなことでイノシシの食害はかなり深刻らしい。

 2007年2月に国頭村奥(くにがみそんおく)を訪れた。沖縄本島の最も北にある辺戸岬(へどみさき)から南東へ7,8Kmのところにある港のある小さな村である。峠を下りて小さな集落に着くとそこは桃源郷のような感がして三日間も滞在してしまった。Img_2789

国頭村奥の集落。


 この村の特徴は住民の団結が強いことである。ユイマール(結ゆい・共同作業)が発達し、沖縄の素晴らしい制度である共同店もここが発祥の地だということだ。
 そして有名な奥の猪垣(ししがき)というのがある。イノシシ除けの石垣なのだが、村の居住地耕地をとりまき、延長10Kmにもおよぶ大がかりなものだ。村中が取り囲まれているので、薪拾いなど山仕事に行くときや村から出るときは猪垣にはしごをかけて出入りし、また外しておくという念のいりようだ。
 大垣(ウーガチ)という村の外周の猪垣が完成したのが1903年というから明治36年に当たる。凄いのはその維持管理だ。村民全員であたるのではなく、耕作面積に応じて家々の責任において管理するわけだ。そうなると責任重大になる、うっかり石垣が崩れていたり草木が生い茂っていたら村中から責められる。そんなわけで村人は毎日毎日猪垣の保守管理に見回りと修繕を繰り返したそうだ。
 実はこの間さほど興味も無かったせいで猪垣の現物を見ていないのだが、村誌などで見る限りさほど高くもない、珊瑚なども使われたただの石垣に見えるのである。Img_2722
 
奥から少し山に入るとそこはやんばるの森。


 猪垣の完成以来この村にはイノシシの害が無かったと聞くが、それは猪垣の高さでもなく、頑丈さでもなく、実は村人の不断の維持管理による獣に対する圧力なのではないだろうか。つまり石垣の周りを人がうろうろすることで彼らに強い圧力をかけていたのだと思う。
 そして奥の猪垣を調べていたらもうひとつイノシシの侵入を防ぐ大きな理由があった。つづく

【作業日誌 3/10】
郵便受け箱作製

今日のじょん:フキノトウもじょんの散歩のお蔭で見つけられる。我が家の庭でも採れるようになった。欲しい人は案内するワン。P1010257

じょんのぽんぽこグランドにも出て来たぞ。








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雪中八策 防獣編(17) 3/9

2012-03-09 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.9(金)雨

 今、漁業者が山に植林をされていることをご存じだろうか。山が魚を育てるということが解ってきて、漁師が陸に上がり荒れた山に植林を続けているということだ。農業だって同じじゃ無いだろうか、山が荒れたら里が荒れる、里が荒れたら下流の街だって荒れる。山に入っても金にならないから山には入らないでは里も街も荒れてしまう。獣害もその一つだ。里山を再生し、獣達を元の生息地に返すことが真の獣害対策だと思う。
 具体例を挙げて山に入る方策を述べてきたが、肝心の森林の世話が抜けている。伐採と運搬の費用を差し引いたら足が出るほどの杉や檜だけど、世話をしないと余計山は荒れてしまう。
 わたしの家にも山があって、40年から50年前に杉や檜を植林している。父が亡くなって離村し、放置された山に入ったのは6年前だろうか。山道のとりつきから荒れ果て現地に辿り着くのも大変であった。そしてブッシュの中に直径が10cmにも満たないひょろひょろの檜を見たときには愕然とした。世話をしないとこうなるわけだ。
 一方森林組合なんかに頼んで、下刈りや間伐をしてきた山もある。太いのは3,40cm程度に育っている。数年前間伐のまねごとをしに入ったが、やはり真剣に教えてもらわないと危険でもあるし要領も解らない。忙しさにかまけてそのままとなっている。大方の山がこんな状態なんじゃ無いだろうか。Img_0186

マイ森林。右が元田んぼ、左が山、どちらも間伐が必要。


 かつては山の世話もしていたが、その技は子供には引き継がれない。やがて年老いて山にも入れなくなる。やむなく森林組合などにその世話を依頼するが、何をやってもらってるのか、どうなったのか確認するわけでも無い。やがて自分の山の境界も解らなくなる。日本中がこんな風になっているとしたらこれって怖いことだよね。
 山を持ってる人は身体が動くなら自分の山に入って少しでも世話をしたらどうだろう。業者に頼むとしても一緒に山に入り教えを請うのはどうだろう。まだ今なら山仕事の得意な方も居るだろうから、地域で研修でも出来ないだろうか。
 森林組合も補助金目当ての仕事をするだけでなく、所有者自身が世話を出来るように指導すべきじゃないだろうか。
  今回大仰なことを書いたので恐縮している。なぜなら私自身なかなかできそうにないからだ。でも山に入る回数、密度からいうとこの方法が最良で出来るところからやりたいと思っている。
 出来るところと言うのは居住地に隣接した里山である。大植林時代には山に植えるのは勿論のこと里山や以前には耕作していた谷間の田んぼにも植林をした。これは伐採時の運搬(出しという)を考えてのことだろう。田んぼなどは栄養が良いから早く育ってしかも出しが良いと考えたのだろう。ところが材木としては目が詰まっていた方が良いだろうし、栄養分が良いと赤身のところが黒くなって商品価値が落ちるそうだ。なんとも情けない感がするが、居住区隣接の植林こそ獣害の大きな要因では無かろうか。P1000198_2
 
我が家の周りは植林だらけ、写真のところは五,六年前に伐採されたとか、もう低木が育って来ている。(2011.11)



 こういう所の針葉樹は切ってしまって広葉樹の林に返すべきと思う。樹齢が大きければ少しはお金になるかも知れないし、そうで無ければ杭や燃料、ログハウス風の小屋を作るのも楽しいし、安く製材してくれるところもあるそうで、建材に工作材に使えそうだ。つづく

【作業日誌 3/9】
郵便受け箱作製
バイクハンガー完成

今日のじょん:昨日ゆきちゃんが来て一緒に遊んだ。朝起きてびっくり、又しても穴開けられた。恩返しに小判ザクザク掘ってくれよ。P1010251 P1010255 P1010256

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雪中八策 防獣編(16) 3/8

2012-03-08 | インポート

2012.3.8(木)曇

 山の幸にきのこがある。かつて丹波は松茸の産地として有数の地域であった。わたしが子供の頃は季節になればその辺にいくらでも出ていたし、農協の集荷場は松茸の香りでむせるぐらいだった。今どうして姿を消してしまったのだろう、マツクイムシだけが原因なのだろうか。わたしはその答を持たない。
 2006年東北を自転車で回っているとき、その時はクマの出没で大騒ぎだったというのは前述した。山道を走っているとき何度山の中のガサガサという音に驚いたことか。そのすべてがクマでは無くてきのこ採りのプロだった。「何を採っているのですか」と訪ねてもあまりの訛のきつい方言で何か解らなかった。とにかく彼らの腰の袋にはなにかいっぱい入っていた。
Img_0791
八甲田に向かう蔦温泉辺りの森、ここでガサガサッときたらビビってしまう。(2006.9.22)


 信州佐久の秋にもよく通っていたが、とにかく総出できのこを採るのだ。これは丹波では見られない光景である。美味い、お金になる、楽しい、こんなきのこをみんなで採ろうではないか。といってもきのこ文化の無いところではなかなか難しい問題もある。どのきのこをどのように採ったら良いのかわからない。なにしろどれが毒でどれが食べられるかなんて解らないのだから。
 でもその辺のプロも居るだろうし、きのこ文化を広めようなんて取り組みはできるはずだ。
 山に入ってきのこを採るというのが進まなくても、栽培することは出来る。我が家では2008年から椎茸を栽培している。また桜の木が手に入った年はなめ茸も作っている。これだってホダ木は山で調達しているので、山に入る機会となっている。自画自賛ではないが、どこの椎茸より美味いのが不思議だ。Img_3527
 
2009年秋のどんこ椎茸、それからスリーシーズン収穫している。


 椎茸の天敵は猿である。小指の先ぐらいの椎茸が出て来た頃が危ない。根こそぎやられるので、保護が必要である。いまのところ小屋を作ってネットをかけているが、毎冬雪で崩壊するので改良を考えている。
 きのこといえば我が家では毎年夏と秋にキヌガサダケが出る。中華料理の三大珍味で幻のキノコと言われている。Img_2655

2009.7.20、多分初めて見つけたもの。こりゃなんじゃという感じ。


  絶滅危惧種の一種のようでなんとか増やそうとグラバを水に溶いて撒いたりしているのだが、果たして効果があるのか解らない。
 松茸が無くなったら山に入らない、ではなくてもう少しきのこの食文化を見直して山に入る習慣をつけてもいいのではないだろうか。つづく

今日のじょん:じょんのび村の雪はすっかり解けた。屋根の雪が落ちたところだけじょんの遊び場になっている。この雪で遊べるのも少しの間だ、たっぷり遊んで頂戴。P1010248

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雪中八策 防獣編(15) 3/7

2012-03-07 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.7(水)曇

 三年前だろうか里山ねっと・あやべのお誘いで金谷峠に行った。小畑の方々が数年かけて室尾谷観音寺に至るルートを整備されたものである。旭町から安国寺へぬける横峠も山家の方々が整備されたと聞く。志賀郷方面でも峠を巡る活動がなされているようだし、上林では美山町側の方々と交流を深める洞峠の風に吹かれる会が例年開催されている。Img_3430
 
金谷峠を登る(2009.11.14)


P1000022 洞峠の風に吹かれる会(2011.10.16)



P1000385
大栗峠和知側(2011.11.18)


 そして縁あって大栗峠に通い始め、その魅力に取り憑かれて何度も訪れ、雪解けを待って再度訪れたいと思っている。
 このようにモータリゼーションの発達により見捨てられ、荒れ果てていた峠を見直して整備をし、沢山の人に訪れてもらうというのは大変喜ばしいことと思う。願わくはこの傾向が一過的なものでなく長期的に続くことを祈る。
 昨年老富の方々と猪鼻峠を訪れたときのことである、地元の方々は峠や山道を見て驚かれた。すっかり荒れて薮が生い茂り、道を見つけることも歩くこともままならないと思われていたのが、彼らが子供の時のようにきれいな道となり薮なんてどこにも見当たらない状態なのだ。
 人が山に入り、通行しきれいな道や峠だったのが、やがて人が入らなくなってブッシュと倒木の道になり、そして今元のきれいな道に戻っているのだ。元の自然が帰ってきたわけでは無い、鹿が増えて馬酔木(あせび)以外の草木を食い尽くしてしまったのだ。特にかつての山につきものの笹、熊笹の類が一切無いのだ。よく地面を見ると食い尽くされた笹の株が申し訳程度に残っている。鹿に喰われた植物は二度と芽を吹くこと無く枯れてしまうと聞く。山に生きてきた人たちがこの光景をどのように見ているのかわたしは確かめる気持にはなれなかった。Img_2731
 
以前は笹がびっしり生えていたという。丸山の斜面。


 鹿は笹を食べ尽くすほど増えてはいけなかったのである。人間が里山、山といった緩衝地帯を放棄したがゆえに彼らの個体数が増えたとわたしは考える。
 この山は果たして元の状態に戻れることが出来るのだろうか、暗澹たる気持にならざるを得ない。
 わたしは足腰の許す限り、上林の峠を登ろうと思う。そして多くの人に紹介して山に入ってもらおう。機会があれば峠道の整備も手がけたい。多くの人が山に峠に親しむことが、里山や山を人の手に取り戻し、獣達を彼らの居場所に収めることの一助となるからだ。
 それにしてもあの防獣ネットは山に親しもうとする人に対してなんとも威嚇的である。つづく

今日のじょん:なぜかわたしが風呂に入っているときに強烈に吠える。上がってから見ても何も居ない。少しすると又吠え出す。こんなことがよくある。
 湯冷め覚悟で外に出て目を凝らす。何も居ない、でも遠くで人の声がする。田舎では夜中の人声は珍しい。どうもそれに反応しているみたいだ。P1010045 なんかおるでの図
 
 

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雪中八策 防獣編(14) 3/6

2012-03-07 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.6(火)晴 

 落ち葉で堆肥を作ろう。
 田舎で見なくなったものに堆肥小屋がある。堆肥小屋といえば大げさだが藁で囲んであって、土だか藁だか落ち葉だかなんだか解らないものが入っていて、掘るとガト(カブトムシの幼虫)がいっぱい居た。ものの本では広葉樹の葉っぱが一番良いとかで、我が家でも一回やってみた。そこにもガトがいっぱい出て来たので、きっと同じようなものだったのだろう。Img_1610

2008年秋に作った堆肥床。


 小さいとき親たちが大きな竹かごを背負って山に入っていたのを憶えている。あれは落ち葉を集めていたんだろうか。
 今はそんなもの見ることも無くなって、代わりにビニールの肥料の袋が落ちている。無農薬だ自然農法だというのはよく聞くが、落ち葉の堆肥作りはあまり聞かない。これって凄く自然で、山に入る最良の方法だと思うのだが。

 山菜を食べよう。
 都会では中国産のワラビかなんかを食べていたが、他に山菜を食べることは無かった。上林に住んで数多くの山菜を食することとなった。タラの芽、フキノトウ、コゴミ、コシアブラ、ゼンマイ、ワラビ、ウドなどもらって食べるようになったのだが、どういうわけか都会から来た人が多く、地元の人はあまり山菜を食さないように思うのだ。
 家の周りにはワサビ、セリ、ツクシ、ノビル、ヨモギ、ミョウガ、サンショ、タケノコなどもある。もっともミョウガは元々人が栽培したものらしい。聞けばタンポポ、カラスノエンドウなども食せるそうだ。Img_3135_3 Img_2434
 
昨年3月1日のフキノトウ、今年はやや遅い。


 冊子「シデの思い出」に昔は山菜採りが楽しみで、みんなで山に入ったというような記事があった。今でも美味しい食材はあるはずだ、鹿に喰われる前に採りに行こうよ。つづく

【作業日誌 3/6】
木樵

今日のじょん:だいぶ強くなったけど、、、
怖がりのじょんも連日のぽんぽこ訓練で強くなってきた。木の下や障害物のあるところのボールも取れるようになったのだが、見知らぬところでは何でも怖そうだ。
P1010236


木下ヤエコさんもかっちんこっちん。

P1010240
知らないところではクワイヨ~







 

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雪中八策 防獣編(13) 3/5

2012-03-06 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.5(月)雨

 上林にも春が来た、なーんて言ったら奥上林の人には怒られるかもしれない。とりあえずじょんのびには春が来た。今日ですっかり雪は無くなったし、フキノトウは数日前から食卓をにぎわせている。明日は筍を探しに行こう。イノシシ君はとっくに賞味しているはずだから、、、。P1010234
 
どれがフキノトウかわかるかな、ここは形が良くておいしいのが採れる。どこかって、、、内緒。


 雪中八策も筆が重くなってきた、雪中って雰囲気じゃ無いし、わたしがいくら叫んでもどうにもならない、何も変わらないという虚しさが筆を鈍らせる。しかしこの際思いの丈をとことんぶっつけておこう、いつか誰かが気付いてくれるかもしれない。

 折しも節電が叫ばれ、灯油の値も上がっている今、山の燃料を見直してはどうだろうか。例えば薪ストーブ、最近綾部に移住されている方々の多くは薪ストーブを導入されている。わたしの知る限りではなんとか自前で薪を調達されているようだ。P1010239

口上林じっかんさん宅、凄いストーブが入っている。


Img_2865
開店直後のイワンの里、玉切りされたクヌギが生々しい。

 問題はストーブの値の高さだ。ヨーロッパ製のストーブなら煙突もあわせて100万円が相場だそうだ。この値段はわたしも納得がいかない。果たしてベルギーやフィンランドの人々はどのくらいの値段で購入しているのだろうか。輸入代理店や専門店がガッポリ儲けているのではと疑わずにいられない。最近は国産のもので良質で安価のものが出て来ている。中国製のものを自分で改造したりするのも器用な人には楽しいだろう。ただ煙突だけは安全性を考えて導入施工しなければならない。P1000802
 
ご存じじょんのびのストーブ、小さいけれど大活躍。


 金銭的に余裕のある人は調理の出来るタイプを選ぶとより省エネとなる。いずれにしても薪を購入すると燃料費としては灯油を上回ることとなる。例えば我が家で薪を購入すれば一冬の薪代は12万円を超えると試算している。暖房だけで灯油をそれほど使うことはないだろう。
 薪を使う目的は里山を回復させて獣害を無くすということだから例え薪を購入しても販売業者、森林組合などが里山を回復させているだろうと思われるだろうが、わたしは懐疑的である。わたしも森林組合の組合員だが、広報や配布物を見る限り森林組合が里山の回復を目指しているとは思えないのである。
 従って山に入る事によって里山を回復させよう、獣から人の手に取り返そうという方に薪を使って欲しいのである。
 わたしは導入できなかったのだが、お風呂も灯油と薪の兼用のボイラがある。これと調理用の薪ストーブを使えば省エネライフが出来て里山の回復にも一肌脱げるというわけだ。つづく

【作業日誌 3/5】
郵便受け箱作製(塗装)

今日のじょん:鹿の害が続いている。少しずつ侵略されているようで気味悪い。
P1010224
これ鹿の糞、わかるかな。 
 
 

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雪中八策 防獣編(12) 3/4 

2012-03-04 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.4(日)雨

 暖かい日が続きさしもの雪もみるみる減ってきた。雪中八策も雪が残っている内に書き上げなければならないと思うのだが、なにしろ課題な大きいだけに膨大な量となる。獣害に関係の無い都会の方にとっては面白くも無い記事となろうかと思うが、地方や田舎ではこんなことに頭を痛めているのだなあと今しばらくお付き合い願いたい。
 獣害を防ぐ基本的な対策は、獣達の居住区と化した里山、山を人の営みの圧力で取り返すことであることは繰り返し述べてきた。そのためには日常的に人が山に入ることが絶対に必要である。ところが人が山に入らなくなった背景を考えるとそれが速やかに行える事で無いことが解る。
 つまり過去には山に入ることが生活の糧を得ることであり、絶対に必要なことであったわけだ。ところが現在では山に入っても生活の糧は得られないし、その必要もなくなっているわけだ。歴史の歯車を巻き戻して過去の生活環境に戻ることができれば一気に解決できるのだがそのようなことは不可能である。
 従ってわたしたちは無理矢理に山に入らなければならない。その方策を考えてみたい。
 林業で飯が食えるというのが最も理想的な形なのだが、政府がそのようなことを考えていようはずも無く、現在の経済構造で林業が好転するという見込みも望むべくも無い。従って生計を立てるため、金儲けのために山に入ることは一般的には出来ない。しかし前述の山に入らなくなった理由のいくつかは私たちの努力でクリアできるものが在るのでは無いだろうか。P1000844_2
 
薪ストーブ二ヶ月分、風呂も調理も使ったら一ヶ月持たないだろう。


 その一つがエネルギー源としての森林の利用である。家庭のすべてのエネルギーが樹木から化石燃料を元とするものに変わったのはどのような理由からだろう。
 それは都会では当然の成り行きである、都会ではどちらにしてもお金で買うしか無いのだから便利なもの安価なものに流れるのは必定である。では農村ではどうだろうか、農村に於けるエネルギー革命の最大の効果は主婦の解放であると考える。働き手でもある農家の主婦は、早朝から深夜まで家事、労働、育児と働きづめであった。特に薪を使った調理、風呂などを含めた湯沸かし、暖房は時間的にも労働負荷の意味でも大きな負担であった。電気、ガス調理器具、用具の発達は主婦の負担を大きく軽減しただろう。しかしその軽減された時間が休息や余暇に廻ったかというとそれは疑問である。光熱水料の負担が増え、主婦もパート労働などで現金収入を得る必要が出て来て、逆に労働強化になった可能性もある。
 いずれにしても電気、ガス、石油製品の登場は農家も文化的な生活を推進するという大きな役割を果たした。
 反面燃料として樹木が使われなくなったことは森林の循環を断ち切り、獣害、病虫害、自然災害の原因となっている。P1000400

植林の山では間伐材が放置され、鉄砲水やダムに流出する被害が出ている。


  現在山に入ると植林された山はもちろん、闊葉樹の本来の山も非常に不健全な状態であることが素人目にも解るものである。つづく

今日のじょん:先日人もすなるスキヤキなんぞをしてみんとて、久々に肉を食したのだが、これがじょんにとっては大変なことになった。本の切れ端を味も油も抜いてやったのだが、よほど気に入ってか2日ほどドッグフードを食べなくなった。いやーぜいたくさしたらあかんね。P1010203
 

こりゃあたまらん、背後霊じょん。

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雪中八策 防獣編(11) 3/3

2012-03-04 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.3(土)晴

 先日東北地方にも猪が現れたというニュースが流れていた。宮城県の南部が北限とされていたそうだが、それ以北や秋田などでもここ一年で目撃されたり捕獲されたりしているそうだ。原因は温暖化といわれていたが果たしてそれだけだろうか。
 わたしが自転車旅行をした年、2006年は東北地方はクマが異常に出没した年で、各地で熊の被害のニュースが飛び交っていた。ところが猪については何も語られず、地元の人に聞くと猪は居ないとの返事だった。ところが関東地方に入った途端に猪被害のニュースばかりで、熊の話は出てこなくなった。そんなことで東北には猪は居ないものだと思っていたわけだ。Img_0775

2006.9.21、十和田湖近く、この後クマ出没騒ぎがあった。


 さて、人が山に入らなくなったのは山に入るべく人が農村に居なくなったことを前述したが、他にもいくつか理由がある。
 木材の値が下がって林業が成り立たなくなったことは大きな原因である。丹波のように半農半林の農家が多いところは、木材による現金収入は子供の結婚とか家の普請とか大きな出費があるときに大いに役立っていた。村有林や学有林など公の山林も村や学校のものいりの時の資金源となっていた。雑木林を伐採して杉、檜を植林する政策は五,六〇年前頃からだろうか、最も多くの人々が山に入った時期では無かろうか。しかしその林業政策は破綻し、木材は伐採にかかる経費の方が高くつくような事態となった。
 子供達の未来に役立つようにと艱難辛苦山に通い続けた親たちの無念さを思わずにいられない。そして金にならない山には誰も入らなくなった。
 
 もうひとつの大きな理由はエネルギー源が樹木から石油へと転換されたことである。今から五十年前を思い起こして欲しい。おくどさんで煮炊きをし、風呂は薪で沸かす、暖房は囲炉裏、炬燵、火鉢などすべてが山の樹木が燃料源である。人々は薪、柴を得るために山に入り、自家用、出荷用に炭を焼いた。そして今、すべてが石油、ガス、電気に変わり、人が山に入ることは無くなった。Img_2570

わたしはストーブの薪作りで年間15日ぐらいは山に入っている。 


 建築資材として樹木を利用するだけでなく、茅や蔓、竹なども使われた。化学肥料が出てくるまでは、山の落ち葉が堆肥に使われた。山菜、きのこ、木の実など山には食糧も豊富である。しかしこれ等を採りに山に入ることはなくなった。Img_3352

鳥垣のシデ山中腹、かつては大規模な茅場だった。 


 通行もそうである、かつては歩いて峠を越えた。自動車の発達に伴い道は山から川に下り、山を越えなければならないところはトンネルとなった。今や峠はハイカーが年数人訪れるだけで、峠道は荒れ果てている。

 子供の遊び場だってそうだ、わたしたちが子供の頃、山ほど変化に富んだ遊び場はなかった。ターザンごっこ、小屋掛け、木登り、そして丹波では珪石やマンガンの廃鉱探検など男の子の冒険心をくすぐる遊びがごまんとあった。今、山に行ってこんな遊びする子供がいるか?

 そう、このようにして大人も子供も皆が山に入らなくなったのだ。
 これこそが千数百年かかって人間によって奥山に閉じ込められ、員数を増やすことも出来なかった獣達の千載一遇のチャンスだったのだ。つづく

今日のじょん:じょんのうんPは気まぐれである。いつものところ(ドッグランど予定地)ですることもあり、散歩の途中ですることもあり、帰ってきてぽんぽこぽんの途中ですることもあり、今朝はラストぽんぽこぽんの途中でしてしまった。ボールを置いといてうんPするもんだから、その後ボールを持ってくるか、はたまたラストの儀式を憶えているか疑問である。「憶えとったら天才やなあ」と言っていたら、ちゃんと憶えていた。天才じょん。P1010173

 ラストぽんぽこぽんの間に、、、、、。

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雪中八策 防獣編(10) 3/2

2012-03-02 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.2(金)雨

 獣害の原因について述べてきたが、いよいよ解決編である。原因が解れば解決の筋道は容易に解ることなのだが、ことが生態系に関することだけに、個人や地域の努力だけではどうにもならないこともあり、広くは府県単位、国家単位でやらなければならないこともある。これをどの順番で述べていくかが問題である。個人で出来る施策から述べていくと、当初は行動可能な事なのでやる気も出るのだが、段々不可能に感じる問題が出て来て、遂には諦めてしまうので、国家的な大きな問題から挙げていこう。
 その前に獣害の原因をはっきりしておきたい。獣害、野生動物が里に出て来て食害その他の害を及ぼすことだが、その原因は従来人間の営みの圧力が働いていた里山、山に人が入らなくなり、獣達の居住地と人の居住地の間の緩衝地帯が無くなったからである。外濠、内濠を埋められて本丸だけ残った大阪城のような状態である。

 従来の生態系は人間が農耕を初めたときから出来はじめ、千数百年かかって出来上がった人と獣の棲み分けと言える。千数百年かかって出来た生態系を数十年で壊してしまったわけで、回復するにはまた千数百年かかるかといえばそうはならないだろう。人間の知恵と努力をもってすれば数十年で回復するだろうが、現在の国政を見ればそれは悲観的である。

 なぜ人が山に入らなくなったかという問題は、単に個人の都合の問題では無く、国の経済政策による大きな問題である。
  戦後日本は工業国として再興発展してきた。代々農村で農家の跡を継いで暮らしてきた若者が工場の働き手として村を出て都会に出るようになり、村には老人だけが残るようになった。それでも長男だけは残っている時代もあったが、やがてすべてが都会に出、残った老人さえも都会に出るようになった。わたしの家もそのとおりですっかり離村して、生家は原野と化している。
Img_5886  
わたしの生まれた村、真ん中の竹藪のところが生家跡。(2007,5,21)


 学校を出ると都会に行くのが当たり前のような感覚であった。それは農業で食べていけないからである。家業のあるもの、近隣で勤めが出来て兼業農家となるものが数人村に残ったが、まず99%は転出してしまった。
 日本の工業製品を輸出せんがためのバーター貿易の餌食となって農産物の価格は暴落し、零細農家が太刀打ちできるような状況ではなくなった。
 農村では生活できないから都会に出るという働き手の減少が山に入らなくなった理由の一つである。つづく

【作業日誌 3/2】
郵便受け箱作製

今日のじょん:雨が降るとかみさんが先に起きてレインコートを着せてくれる。しゃーないなと諦めて着るようだが、そのまま固まってしまう。「雨降ってじょん固まる」ってやつだが、いつもベランダの戸のところでじっと固まりピクリともしない。わたしが着替えて降りてくるまで随分時間がたっているのだが、同じ姿勢だ。放っておけばいつまで固まっているのか実験してみたいが、病気になられると困るのでやめとこ。写真は25日のものだが、いつも同じ状態なので、参考まで。P1010160  

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雨読 鋳物師 3/1

2012-03-01 | 雨読

2012.3.1(木)晴

 「キューポラのある町」はサユリストにとってはとても懐かしい映画だが、吉永小百合さん17才の時の作品である。そしてこの映画の舞台が鋳物の町埼玉県川口市なのである。キューポラとはキュポラ炉のことであって、鋳物用の溶解炉のことであって川口市にはいくつもあったのだろう。川口市における鋳物の歴史をその起源から大正時代まで追って書かれたのが本書である。

 「鋳物師」内田三郎著 埼玉新聞社 昭和五六年発行 京都府立図書館から借本

 既に雨読で紹介済みの「真継家と近世の鋳物師」(雨読2012.1.29~30参照
では古文書を主にした真継家から見た鋳物師が描かれており、技術的なものや具体的な活動の様子が解らないので、是非そういったものについて書かれている書物を探していた。学術論文的なものはいくつかあるようだが、本書は実際に鋳物業に携わられた経験のある著者がわかりやすくまとめられているので大変参考になった。
 例えば実際の鋳物師についても、「真継家と近世の鋳物師」では古文書の中から抽出しているのだが、本書では主に梵鐘や灯籠といった実際の製品の銘から辿っているので実にリアリティである。P1010231
 
表紙の絵は川口鍋釜製造図(明治初期)


 著者の目の付け所に感心したのは、江戸名所図会や江戸川柳などから、鋳物師や鋳掛の様子を表現されていることだ。河口鍋匠というタイトルの絵では甑(こしき・地金を溶解する炉)を中心に作業のすべてが解り、「繁昌は釜屋芳町小網町」という川柳は釜屋の繁昌ぶりを表現していて面白い。芳町や小網町というのは男娼がいたので上手くしゃれたようだ。
 同じく江戸名所図会で「鍋屋の井」といって吹抜き井戸(掘井戸では無くて、水が噴き出している井戸のこと)の絵が紹介してある。川口は地下水が豊富で云々と説明がしてあるのだが、全国の鋳物師の居所を調べていると実に清水の地名が多いのに気付くのだ。何鹿郡上林の鋳物師村も清水である。地下水、湧き水と金工の関連性について未だ発見していないのだが、何かありそうで期待しているところである。川口に清水という地名は無さそうだが、菖蒲川という川が流れている。これは清水(しょうず)と関連あるのかも知れない。P1010233
 川口が鋳物の町として発展したのは、江戸、東京という大消費地を控えていたこと、幕末から明治にかけて大砲や軍需品の需要があったこと、いち早く機械など生産財としての鋳物を手がけたことなどが考えられるだろう。
 借本でもあるし、内容が多岐にわたるので再度読んでメモを取っておきたい。

【作業日誌 3/1】
郵便受け箱作製

今日のじょん:昨晩風呂に入っていると、隣のチコがやたらと吠えた。少ししてじょんも吠えるので又しても鹿が来たかと思ったが、風呂ではどうしようもない。朝になって見ると、しっかり玄関坂の蔦がやられていた。P1010218 P1010225




  少し行くと波多野さんの畑がすっかり食い荒らされていた。大根とケールのような菜っ葉である。これら一連の害が同一の鹿だとすると、川からの襲来が考えられるが、山側にも足跡があり、木小屋横のネットがはずれたところに侵入跡を発見、やっぱり山のものかな。遂には隣の裏で大根の食い残しを発見、鹿が持ち運びするかなあ?でも鹿の糞も落ちてるのだ。P1010228 P1010223
 
 

 

我が家の侵入口と食い散らかした大根。

 

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