
鉄道シリーズその33。今回は食堂車について。小生が初めて食堂車に行ったのは高校時代に九州に向かうブルートレインの『さくら』だと記憶している。とにかく、友人との二人旅で食堂車で何を食べるか悩んだことを思い出すが、何を食べたかは覚えていない。


日本で食堂車が初めて運行されたのは1899年(明治32年)に山陽鉄道が運行した京都~三田尻(現、防府)の食堂付き一等車である。当時、瀬戸内海航路との争いに勝つためのサービス合戦によるものだった。その後、官営鉄道にも付いたが、戦前は多少の例外はあったが、1・2等車のセレブな乗客のみしか利用できない特別なものだった。
戦後は1949年に連合軍専用車両に限り営業を再開、その後、1949年9月の特急『へいわ』(東京~鹿児島)などで復活した。

すぐに寝台特急にはかなり併結されるようになり、1958年発表の松本清張の名作『点と線』にも『被害者の遺留品の中に特急あさかぜの食堂車のレシートを見つけて、なぜ男と女が連れ立った情死行の際に男だけが食堂車に行って食事をしたのか、実はこの列車に乗っていたのは男は一人ではなかったのかと鳥飼警部補が推理するシーン』は有名である。

1958年デビューした特急『こだま』にはビュフェ(半室食堂車)が設けられ、1960年には電車特急となった『つばめ』には食堂車が併結された。さらに1961年には電子レンジが登場し、この辺りから昼行の急行や特急にも食堂車が付けられた。当時は東海道本線の急行には寿司屋のカウンターも設けられた。


小生の記憶の中では1975年頃に急行『信州』(上野~長野)にはそば屋の屋台のようなブースがあり、珍しいので食べたが、あまりうまくなく、駅そばにすれば良かったと後悔したことがある。(写真のメニューは1967年9月)
しかし、その後1972年の北陸トンネルの事故や新幹線の増加などによる利用客の減少、キオスク・コンビニの発達で昼行特急や急行から徐々に割高な食堂車やビュフェが無くなっていった。
一方、新幹線は1964年の開業時にはビュフェを併結、当時ビュフェに速度計が付いており、200km/hにならないかをわざわざ親父と見に行ったことを良く覚えている。

1975年の博多延伸を機に所要時間が6時間を超えるにあたり、食堂車を併結した。さらに1985年にデビューした100系では2階建て車両の1階に食堂車というユニークな編成もあったが、1992年の300系のぞみ用車両では食堂車が製造されず、2000年にはあえなく食堂車の営業を終了した。

小生は新幹線の食堂車は好きでよく利用したが、最後に乗ったのは1997年5月大阪に転勤になる際に食堂車でカレーライスを食べたことである。あまり混んでいない食堂車で見事な富士山を見ながら食べたカレーライスの味は色々な複雑な思いが重なり、忘れることができない。
今も一部夜行の優等列車『トワイライトエクスプレス』『北斗星』『カシオペア』、そしてビュフェは『ゆふいんの森』に付けられている。最近デビューした『ななつ星in九州』には素晴らしい食堂車が付いており、一度利用したいものである。ただ、一方で食堂車がまた戦前のように一部の人たちしか利用できない高嶺の花になってしまったのは少し寂しい気がする。
