hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

麹町市場~麹町グルメ

2015-02-08 05:00:55 | グルメ

今週は雪かと天気予報に言われ1回飲み会がキャンセルになるトラブルもあり、珍しく週1回だけの飲み会となった。

今日は前の職場の後輩というか、戦友とも言えるAくんと約半年ぶりに杯を重ねる。店の名前は『麹町市場』、場所は有楽町線麹町駅から3分くらい四ツ谷方向に戻った新宿通り沿いの地下一階。

店のドアには現在予約で一杯の張り紙、予約はしてあるので階段を降りると直ぐに店。意外に洋風で4人の席が多く、その奥が冷蔵庫、その中には銘酒の数々。さらに奥にはカウンター席となかなか広い。軽快なジャスがかかる中、まずはビールで乾杯、お通しは『タコ胡瓜の酢の物』『五目豆』。早速、酒のメニューを観るが中々やるな。


まずは刺身3品盛り合わせ、しめ鯖・炙り鰆・鰤刺が3切れずつ。味付けもよく、特に鰤の脂の乗りが素晴らしい。合わせたのは楯野川(清流・山形県)、自分で選択したのだが、らやはり純米大吟醸だけに少し弱い。


次は鮟肝酢、ジュレがかかっているが、酢が弱めにし、少し暖かいため、鮟肝がとろけて美味い。いつも鮟肝は冷たいため少し放置してから食べるのだが、なかなかこちらの気持ちの分かった一皿。

さらに『出し巻き卵』、これは出し巻き卵に人参の細切りと白魚を乗せ、さらに出汁を掛けて蒸したもの。卵焼き自体に味はしっかりしていて酒のあてに最高である。酒は少し強めにと而今(三重県)純米吟醸、この酒がまずいわけなし。


少しボリュームをと鳥唐揚げを注文、味は醤油味醂味付けで酒が進む。酒は新政(秋田県)の白(エクリュ)、新政にしては素直な味。他にも新政が2本出てきたが、いつも飲む6Rではなく、これを選択。


少し腹も膨れたしとお新香を頼むが、これが、玉ねぎ醤油漬け・べったら漬け・ツァーサイ塩漬けなどかなり凝っている。酒は王祿(島根県・超王祿★5)、久々だがやはり小生には最高峰。


次に出てきた大根風呂吹きはじっくり煮た15~20cmの面取り大根が出汁の中に2本うかび、これに柚味噌がつく。酒は残草蓬莱(神奈川県)これはこの店用に作られた濁り酒、さっぱりしているが、あじわい深い。

酒はそれぞれ0.5合で供されるが、これだけ飲んで食って2人で約1万円、いや~久々の大ヒットな店かも。店の人は若干少ないが、皆丁寧で好感が持てる。いや、新たな麹町の隠れ家にしたい。



麹町市場
千代田区麹町4ー2ー6第二泉商事ビルB1
0362726752

愛宕山の坂

2015-02-07 05:00:50 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』番外編その2。今回は愛宕神社の坂に挑戦してみる。

誰でも一度は口ずさんだことがある鉄道唱歌は明治(初版は1900年)に大和田建樹という人が作詞し、神戸まで66番が収められている。その中で有名なのは1番の『汽笛一声新橋を 早我が汽車が離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として』であるが、その愛宕山にある愛宕神社に向かう坂は男坂・女坂ともにいずれも階段だが、その勾配は中々のものである。

その前に実は愛宕山は標高25.7mであり、頂上には山の証の三角点がある。今は周囲は高いビルに囲まれているが、江戸時代は東京湾や房総半島まで見える見晴らしの名所で自然の山としては23区内では最高峰である。

男坂は上から見下ろすとその勾配は尋常でなく驚くが、寛永11年に曲垣平九郎が将軍家光が見ている中この石段を馬で上り、源平の梅の枝を取り、階段を下り、将軍に梅の枝を献上したという故事から出世の石段と言われている。

その石段を登るのだが、勾配がきつく、真ん中辺りから下を見てもその高さを感じる。今の季節は汗もかかないため、問題なく上がれるが、夏なら汗だらけになりそうである。女坂は男坂の右手にあるが、これも男坂程ではないが、きつい坂であることには変わりない。


頂上に登ると愛宕神社の鳥居、さらに本殿と続く。その縁起は1603年に徳川家康により防火の神様として祀られたもの。一度は火災で全焼したが、1878年に再建、さらに関東大震災、東京大空襲でも焼失したが、1958年に再建されて今に至る。


頂上には池や大黒天など3社もある。左手に行くとNHK放送博物館があるが、これは1925年に放送開始後、その年の7月から本放送を始めたのがこの地で、それに因み1956年に建てられたものである。(なお、今はリニューアル工事中である。)

今は愛宕山からの眺めはビルに阻まれかつての眺めは望めないが、その高さは中々のもの。石段を登らずともエレベーターも設置されたため、楽に登ることもできる。まあ、折角ならば出世の石段を登ることをお勧めしたいが。


雪景色の記念切手

2015-02-06 05:00:06 | 日記

切手シリーズ その43。昨年からかもしれないが、東京に居ても『雪』景色を見ることが、増えた。そんなこともあり、日本のは記念切手でスポーツ・公園切手を除き、雪の風景のある図案を探して見た。

まず、最初と思われるのが、1956年11月発行の『マナスル登頂記念』の10円切手である。マナスルは標高8163mの世界第8位の高さがある山でこの年の5月に槇有恒らが初登頂に成功したものである。

2番目は1960年10月発行の国際文通週間3作目・広重画『蒲原』である。広重の名作東海道五十三次の中でも名作であり、唯一雪の風景を捉えたものである。

3番目は1967年10月発行の国際観光年50円『霊峰飛鶴』横山大観画である。今まで富士山の切手はいろいろと出ているが、小生はこの富士山が最も好きである。

4番目は1969年2月発行国宝シリーズ第5集の50円切手、『秋冬山水画』雪舟画である。雪舟の山水画の中でも名作であり、そのしっとりとした雪景色が素晴らしい。
5番目は1971年4月発行の郵便創業100年記念の15円切手『郵便配達』で、雪の中を郵便配達をする職員の図案であるが、小学生の公募作品から選ばれたものである。原題は『雪の郵便集配』、書いたのは青森県柏村の小学生葛西くんである。(冒頭の切手)

6番目は1981年2月発行の近代美術シリーズ第9集『雪の発電所』岡鹿之助画である。

さらに近代洋風建築シリーズの『札幌農学校演武場』(通称、札幌時計台・1982年1月発行)、『旧済生館本館』(1982年3月)や中央銀行制度100年記念の『永代橋際日本銀行の雪』(井上安治画)などやはり名画が多い。

しかし、小生が最も好きな雪の切手治郵便配達のおじさんが雪の中で懸命に集配する姿である。

最後に対象外にはしたが、1967年1月に発行された日本3名園の一つ『兼六園』の切手は灯篭に降りかかる雪景色はなかなか素晴らしい。

木瓜(ぼけ)

2015-02-05 05:00:42 | 日記

今日で立春と暦の上では春だが、実際には千両やポリアンサスのような赤い実はあってもなかなか花は咲いていない。もちろん、花壇のパンジーやビオラ、ジュリアン、クリスマスローズのように大切に育てられているものはあるが。
その中で遂に近所の紅梅が咲き始めた。


何か本当の春を見つけたような気がして人の庭の紅梅も愛おしく思われる。また、ジンチョウゲものだそろそろつぼみが膨らみ始めてきた。

その梅より少し早く、また、大ぶりの花をさかせるのが、木瓜(ぼけ)の木である。木瓜はその名前の通り『木に瓜のように見える実』がなることからその名前がついた。もとは木になる瓜で『もけ』が転じて『ぼけ』となったという説が有力、別にボケている訳ではないのはもちろんのこと。元は中国原産で果実はカリンなどと同様に果実酒などに用いられる。

我が家の近くの庭にある木瓜にも収穫されることのなかった実が付いたままになっているが、実は始め緑で熟すると黄色になるが、大きさは梅より大きくなる。


我が家でも一鉢300円程度でまた苗を買ってきて朱に近い蕾が膨らみ、小生は赤の花が咲くのを楽しみにしている。これも上手く育てれば毎年花が咲くのに我が家の木瓜は葉ばかり育つが花が咲いたことがない。これは植物が悪いのではなく、育てている人がボケなのかもしれない。来年こそ何とか花を付けさせてみたいものだ。

東京駅発着の都バス

2015-02-04 05:00:04 | 日記

バスシリーズ その3。前回のこのシリーズでかつては東京駅からは多数のバスが発着していたと書いたが、昭和47年(1972年)当時のバスの資料が出てきたので今と比べてみる。

1972年当時は営団地下鉄(現在、東京メトロ)は1964年のオリンピックまでに銀座線、丸ノ内線、日比谷線は開業済、1969年にようやく東西線が全面開業、千代田線はまだ部分開業(代々木公園~綾瀬)と合計5本しかなかった頃(有楽町線は1975年10月開業)で、一方、都電が順次廃止されていた言わばバス黄金時代である。


まず、東京駅八重洲口からみてみるが、今もある深川車庫(東15)、深川車庫(東16、かつては東京駅丸の内南口発着)、南千住(東42)の3系統以外に枝川2丁目(東17)、葛西車庫(東26)、王子駅前(東51)、新宿駅西口(東72)、等々力(東82)、幡ヶ谷(東85)、池上駅前(東94)、五反田駅(東96)の8系統が運転されていた。

東京駅丸の内北口は今は錦糸町駅(東20)、錦糸町駅(東22)、荒川土手(東43、かつては終点が西新井駅)の3系統のみだが、当時は浦安終点(東28)、東京球場(東40)、常盤台教会前(東50)、上板橋駅前(東52)、志村車庫(東55)、大久保駅前(東71)、品川車庫(東91)の8系統が運転されていた。

まだ、東40系統は都電31系統の代替バスだったが、この頃には東京オリオンズ(現在、ロッテマリーンズ)のホームグラウンド東京球場まで走っていた。(しかし、その後1973年には東京球場が閉鎖されたため、三ノ輪橋~東京駅と短縮)

東京駅丸の内南口からは当時なかった豊海水産埠頭(都04)、晴海埠頭・東京ビックサイト(都05)の2系統が現在運転中だが、当時は、と言うと勝どき5丁目(東16)、門前仲町(東18)、新都橋(東19)、北砂7丁目(東21)、清水操車場(東75)、恵比寿駅(東80)、桜新町(東83)、経堂駅前(東84)、丸子橋(東90)、等々力(東98、高速経由)の10系統が運転されていた。(等々力行きは東急バスと共同運行だったが、今は東急単独路線として存続。)また、東98系統は1987年まで目黒~霞が関は首都高速を利用していた路線であった。

つまり、東京駅を離発着する都バスは今は全部で僅か8系統しかないが、この当時は32系統もの都バスが運行されていた。それにしてもバス乗り場が例えば東方向は全て八重洲口といった整理がされておらず、全く自由気儘に3か所から出発していたのが興味深い。


三重テラス

2015-02-03 05:00:15 | 日記

アンテナショップ巡り その15。今回は『みえテラス』、名前の通り三重県のアンテナショップである。場所は日本橋室町、日本橋三越の斜め前あたり、新しいビルの1~2階にある。

キャッチフレーズは『三重のいいとこ、ぜんぶ日本橋へ』、それほど広くはないが、カフェと名産物の販売店が隣り合わせにある。販売店に入るとすぐに名物松阪牛の加工品の販売コーナー、松阪牛カレーやしぐれ煮など各種物品が並ぶ。右隣は伊賀焼や万古焼、伊賀染めなど工芸品が並ぶ。


反対側には寒天や化粧水など。少し奥にはまずは伊勢うどんとタレのコーナー、さらに海藻を中心に海産物などが並ぶ。


奥にはお酒のコーナー。半蔵や伊勢物語、おかげ川など定番に加え、『作』の搾りたてや純米吟醸も並ぶ。


隣のレストランコーナーにはランチのお客様が多数。海産物のスパゲッティ(三重の海)、松阪牛のミートソーススパゲッティ(松阪イタリアン)などメニューも豊富で『御食つ国』と名付けたコース(6000円)もあるようである。

三重県は海の幸、山の幸が豊富な県で売りは松阪牛と牡蠣や伊勢海老など色々ある。これらを上手く売り出した進化系のアンテナショップである。

三重テラス
中央区日本橋室町2ー4ー1
yuitoanex1~2階

東16系統に乗って

2015-02-02 05:00:48 | 日記

バスシリーズ その2。久しぶりに都バスを起点から終点まで乗ってみた。路線は『東16 東京駅八重洲口~東京ビックサイト』、東京駅はかつて都バスの一大ターミナルであったが、今は八重洲口からは南千住行、晴海トリトン経由深川車庫行とこの路線の3本しかなく、茨城県や千葉県、東名方面などに向かう高速バスに圧倒されている。



バスに乗ったのが13時03分、定刻より2分程度遅れていたため、乗客を乗せるとすぐに出発する。八重洲口を出るとまっすぐ八丁堀方向に進む。乗客は始めは3割程度であったが、次々と乗ってきて新川辺りに着く頃には立つ客が出てくるほど。リバーシティー21へ行く老人や子供連れもいるが、サラリーマン風な人が大多数。幾つかの橋を越え、結構よく揺れる。



月島駅で左折して立体交差を進み、豊洲駅を経由するが、昔ながらの焼豚が有名な肉屋もあるが、高層ビル群やマンション群が目につく。
さらに深川車庫入口を過ぎると日本ユニシス前、IHI前など企業の本社前を経由して有明に到着。有明コロシアムや有明テニスの森駅辺りは道幅も片道3車線と広くなる。


有明テニスの森駅を左折する。この辺りからはかえつ学園や武蔵野大学など学校が移転してきているが、ゆりかもめなどの駅からは遠く、通学は大変そうである。


左に曲がるとフェリー埠頭入口を通り、東京ビックサイトに到着、13時48分つまり45分で着いた。あまり渋滞はなかったが、信号が多く、道幅が広い割には時間がかかる。


橋を5回も渡り、隅田川沿いの景色も車窓から楽しめる路線で、ゆりかもめならば380円(新橋~国際展示場正門)かかるのだが、都バスならば210円、時間に余裕がある時は利用しても良いかもしれないな。

目黒駅付近の坂

2015-02-01 05:00:34 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その23。今回は目黒駅付近の坂。目黒駅の周辺は高台になっており、言わば坂の頂上にある。因みに目黒駅は目黒区ではなく、品川区にあることはご存知であろうか。

目黒駅西口を降りて山手線恵比寿方向にしばらく歩くと富士見坂に到着。かなり急な坂で前も見通しが良い。この坂は大正時代に出来た比較的新しい坂でかつては坂の途中から富士山や品川の海が見える絶景ポイントであったようだ。


今はビルの建設が進み富士山は拝めないが、近くの坂からは今も富士山が見えるそうである。



少し戻って目黒駅を右折すると有名な『権之助坂』である。この坂は江戸時代に開かれた坂で地元の名主、菅沼権之助の偉業に因みに付けられたと言われる。菅沼が義民と称えられるのは当時急坂の行人坂しかなかったため、荷車や馬などの通行が大変であったが、これを解消すべく緩い坂を新たに付けた。しかし、幕府に無断で道を付けたとして刑死したとする説と年貢に苦しむ農民を救わんと勝手に年貢を軽減したため刑死したとも言われている。坂の途中には権之助坂商店街があり、ラーメン店を始め数多くの店があり、栄えている。



また、戻り今度は急坂の行人坂を降りる。この坂の名前の由来は寛永年間に出羽国湯殿山の行人・大海法師がこの辺りに大日如来堂を建立して修業を始め、周辺にいた不良の輩を一掃したため、徳川家康から大円寺の寺号が与えられた。この寺には行人が多く住み着くようになったため、行人坂と呼ばれている。しかし、行人坂という名前は番町にもあり、結構江戸には同じ名前の坂があったことがよくわかる。坂の途中にある大円寺には大黒天が祀られ、また行人坂の火災で亡くなった人の供養のため、500羅漢像がある。



坂を下りると目黒雅叙園、1931年に同名の料亭を開業したのが嚆矢。一旦、創業家の会社は倒産し、外資が買収、今はワタベウェディングが運営、施設は森トラストが所有している。


元の目黒通りに戻り、まっすぐ行くと大鳥神社前に到着。ここが金比羅坂の底になり、緩やかな坂が多摩大学付属高校方向に伸びる。坂の名前の由来は坂の西側にかつてあった金比羅権現社、しかし、明治に廃寺になってしまった。


1907年には目黒競馬場ができ、1932年に府中市に移るまで活況を呈した。
大鳥神社は806年に創建されたと言われる目黒区最古の神社。今も11月に行われる酉の市で賑わう。


とにかく、目黒駅付近の坂は勾配が急なものが多く、富士見坂などは勾配15度の表示すらある。この坂を登ったり下りたりはとても夏には難しいなあと実感した。