第5夜、浜田省吾篇はこちら。
今となっては信じられないことかもしれないけれど、ひと頃のタモリほど「深夜の人」というフレーズが似合う芸人はいなかった。
早稲田を授業料滞納で除籍になり(友だちに貸してしまって返ってこなかったらしい)、朝日生命の営業やボーリング場の支配人などで糊口をしのいでいた森田一義は、地元である福岡に帰り、喫茶店のマスターをやっていた。ある日、ホテルの一室で行われていたバカ騒ぎにまぎれこみ、彼のあまりの面白さに……そのホテルの宿泊客こそ、山下洋輔や中村誠一などのジャズ・ミュージシャンであり、その人脈から赤塚不二夫の家に居候することが彼のスタート……まあ、ここまでは伝説ですわな。
わたしがタモリを初めて見たのは、東京12チャンネル(今のテレビ東京)がBBCから買い付け、なぜか山形でも日曜深夜に放映されていた「空飛ぶモンティ・パイソン」でのこと。モンティ・パイソンといえば、テリー・ギリアムやジョン・クリーズなどの天才集団がシュールなギャグを連発していた番組で、日本人にはまず理解不能な部分が多く(イギリス人だって果たしてわかってたもんだか)、日本版の司会をやっていた今野雄二や秋川リサ(当時は立木リサ)が「いったいこれはどういう意味なんでしょう?」と困惑している姿が印象深かった。
そしてこの番組におけるタモリはまさしく革命的だった。かの有名な4カ国語麻雀(もともとは藤村有広=ひょっこりひょうたん島のドン・ガバチョ。私生活ではけっこうなホモだったらしい=のネタ)や、レコードプレーヤーに向かって指揮棒を振り、しかもダメ出しまでやる(笑)という密室芸を披露していた。この、初めて見るいわば深夜芸人にわたしは熱狂したが、その後「うわさのチャンネル」などでゴールデンタイムに進出した彼は、それこそ“出ているだけでお宝映像”といったありがたみは薄れ、全裸でなければ意味をなさないはずのイグアナのマネなどでお茶をにごしていた。
賭けてもいい、このままだったらタモリは現在「あの人は今」的なあつかいをされていただろう。ところが……
タモリ篇Ⅱにつづく。