わたしが猪木の試合を意図的に無視していたのは、彼が“テレビ朝日の人間”に見えたからだ。正確に言うと当時はまだテレビ朝日ではなく、NET(日本教育テレビ!)の時代。「踊る大捜査線」の号でもお伝えしたように、山形県は日テレ系列の山形放送1局体制が長くつづき、したがって力道山時代の日本プロレス→ジャイアント馬場の全日本プロレスが金曜8時という『伝統の枠』で放映されていた。
ここからは猪木信者に気を使った表現になるけれど、力道山が刺殺されたことに始まる日本プロレスから全日本プロレスへの移行には謎が多い。馬場にシンパシーをよせる人は猪木を裏切り者扱いし、猪木信者は馬場を悪鬼のように語る不幸な時代がここからはじまった。逆にいえば、B(馬場)とI(猪木)という二人の天才が切磋琢磨することで、プロレスは日本でだけ異様な進化を達成したのだけれど。
そんな事情をつゆも知らない山形の「巨人・日テレ・卵焼き」な少年だったわたしは、うーん猪木はどうもうさんくさいなあ、と感じていたのだ。だから世間がどれだけ猪木VSアリ戦でもりあがっていようと、さめた目で見ていたわけ。
しかし東京に移り住み、金曜8時の新日本プロレスの中継(日テレは「太陽にほえろ!」にかわっていた)を観られるようになってたまげた。予定調和な全日本プロレスとは違う、それはそれは派手な肉弾戦が展開されていたから。特にタイガーマスク(佐山聡)には驚かされた。マット上からリングサイドに助走をつけて吹っ飛んでいくパフォーマンスは、どちらかといえば鈍重な全日本にはありえないものだったし、スタン・ハンセンの、ランニング・ネック・ブリーカー・ドロップを改良した(このあたりは『1、2の三四郎』で学習しました)ウェスタンラリアットはマジで痛そうだった。
「うわ。こっちの方が面白いじゃないか!」
と気づいたときには、しかし猪木のピークはとっくに過ぎていたのだった。76年のリアルファイト以降、猪木は興行主としてIWGPや異種格闘技戦に活路を見いだし、だが経営者として放蕩の限りをつくして新日を追い出されることになる。
あ、ひとつ言い忘れた。東京に住んでいたころ、わたしの友人に完璧な馬場主義者がいて、まもなく田舎に帰らなければならないわたしをプロレスに誘ってくれた。これが今でも語りぐさのPWFヘビー級選手権「ジャイアント馬場VSスタン・ハンセン」だったのだ。1982年2月4日、東京体育館で行われた伝説の一戦は、両者反則負けといういかにもな結果にもかかわらず観客を熱狂させた。わたしも思いきり興奮したのだったが……以下次号。