それは、サイレント映画の魔術師であった彼が、最初のトーキーとして撮ったあの作品のラストで、世界平和を高らかに謳う正論を“演説”によって表現したからだ。
地球儀のバルーンと無言で戯れるシーンで独裁者の幼稚さを喝破したあのチャップリンが、というわけだ。
しかし逆に考えれば、ヒトラーの台頭に、ユダヤ人としてのチャップリンは、芸術を犠牲にしても、あの演説だけはどうしても言わずにおれなかったととることもできる。
ハンナ・アーレントはドイツ系ユダヤ人の政治哲学者。ナチズムにより塗炭の苦しみをなめた彼女は、数百万のユダヤ人を強制収容所に送ったアイヒマンが逮捕され、裁判が行われると知りエルサレムに飛ぶ。
彼女がそこで見たアイヒマンは、極悪人でもなんでもなく、ただ役人として法律を守っていたにすぎない凡庸な男だった。彼女はそれを雑誌に書き、ユダヤ人のなかにも収容所のなかでナチに迎合した人間がいたことも冷徹に描く。
結果、彼女は壮絶なバッシングを受け、友も離れていく……
彼女が大学で行うラストの講義が白眉。アイヒマンは悪魔ではない。しかし何も疑うことなく法律を遂行するその凡庸さこそが罪だと。わたしたちは常にそのふるまいは正しいかを考えなければならないと。
民族的な悲劇の傷から立ち直っていないユダヤ人に、その正論は酷ではないかとする世論が圧倒的。その意味でハンナは確かに傲岸ではあるかもしれない。
常にタバコを吸う彼女(2時間強で30本は吸ってます)はもちろん完璧な人間ではない。しかしだからこそ、自らのユダヤの血に反するような言葉を、火の思いで吐くハンナの強さにうたれる。
ハイデッガーと公私ともに関係し、彼がナチズムを賞賛した事実に激しく失望した彼女にとって、それはどうしても言わずにはおれなかった言葉だろう。
この映画は、しかしその感動的な講義のあとに、友人からの反論もきちんと描くなど、節度あるすばらしい作品だった。エンディングはニューヨークの摩天楼の夜景。数十年後にここで起きた悲劇、その反作用としてアメリカ人が(そして日本人が)行ったこと……わたしたちは正しいふるまいをしているだろうか。