三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

誰でも死刑 何でも死刑

2008年06月28日 | 政治・社会・会社

メールでクレームを言ってくる人は、必ず大袈裟な表現を使います。一番多いのが「最悪」という言葉で、ほとんどの人がメールのどこかに「最悪だった」や「最悪!」と書いてきます。
「最悪」という言葉は字面からして「最も悪い」というのが本来の意味でしょう。つまり比較の対象を想定している訳で、ある一定の全体集合の中で最も悪い部分を表現するときの言葉が「最悪」です。
にもかかわらずほんの些細なこと、たとえばコースのデザートを出す前に「デザートをお持ちしてよろしゅうございますか」と訊かなかったことに対して、「最悪の接客」だと表現してきます。この不作為が「最悪」なら、「いらっしゃいませ」や「ありがとうございます」を言わない不作為は「最悪」ではないことになります。入店客を無視する、呼ばれても返事をしない不作為が「最悪」ではないことになります。ひとつの事実が本当に「最悪」かどうかを考えないで、ただ感情の赴くままに書いているだけなのです。そしてこの人にとっては、よくないことはすべて「最悪」なのです。日本語能力が貧しいので、何でもかんでも「最悪」としか表現できないのです。
この日本語能力が本人の考え方にフィードバックして、極端な見方しかできないようになっています。そういう日本人が増え続けているのではないかと思っています。現に、小泉政権による格差社会の誕生、インターネットによる匿名性、人間関係の稀薄化なども手伝って、他人に対して「死ね(氏ね?)」や「殺す」といった言葉を平気で言ったり書いたりする人が溢れかえる世の中になっています。極端さが不寛容を生み出しているのです。そして生み出された不寛容は極めて冷酷非情なものになっているのです。秋葉原の事件を持ち出すまでもなく、実際に見ず知らずの他人を殺す人が出てきたことに何の不思議もありません。

極端な考え方しかできない極端に不寛容な人が蔓延しつつある日本で、裁判員制度なるものが導入されようとしています。どのような判決が出されるかは容易に想像がつきます。評議室では、不寛容な人々による恣意的な議論が行なわれ、真実よりも、被告や被害者をはじめとする関係者の外見や印象、好き嫌いで有罪無罪が決定されるでしょう。量刑は常に極端で、無罪かさもなくば死刑となるでしょう。決して被害者やその家族を慮ってではなく、コンプレックスや憎悪、被害妄想などから、極刑にしてしまうのです。日本はもともと、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」という妥協の考え方があって、その一方では切腹を責任の取り方とする武士道的な潔さを求める部分もあり、両者がうまく噛み合っているときはいいのですが、そうでないときも多々あって、猟奇的な殺人事件が多発したり、あるいは戦争に突入したりしました。そうしたことは、人々の精神状態が不安定なときに起こります。評議室の非日常的な空間では、強硬に死刑を主張する雰囲気があれば、その雰囲気に逆らおうとする人はいないでしょう。裁判員など誰もやりたくない訳だし、満場一致で死刑ということで早く帰れるなら、とっとと死刑にしてしまうのが賢い選択となるでしょう。

不安定なのは評議室だけではなく、日本中が不安定な精神状態になっていて、下手をすると戦争に突入する可能性もあります。個人主義の強い国では、こういうときに反戦運動が広がり、バランスを取って国家の危機を脱出する場合がありますが、日本は右へならへの横並び思想がありますから、ずる賢い政治家が国民の怒りを外国に逸らそうとして、その動きに対してマスコミやコイズミに手を振るおばちゃんたちが旗を振って、世の中の雰囲気が宣戦布告に傾いたら、誰もその傾向に逆らわないでそのまま戦争に突入してしまうかもしれません。評議室で満場一致で死刑を決めるのと同じことが、日本全体で起こるのです。

いったい誰のせいなのか?

かつて消えた年金問題のときにみのもんたさんが「国民のせいだ」と言っていましたが、まさにその通りで、これまでずっと自民党公明党を勝たせ続けてきた選挙民の責任です。特に罪が重いのは、前回の総選挙で自民党を大勝させた人々。風が吹けば桶屋が儲かる風に言えば、秋葉原で人を殺したのは、自民党公明党に投票した有権者です。
日本は救いようがない国なのです。裁判員制度をやって誰でも彼でも何でもかんでも死刑にすればいいと思います。