私は滅多に駆け込み乗車をしません。滅多にというのは仕事で誰かと一緒の場合、同行者が駆け込み乗車をする人だと、付き合って駆け込まざるを得ないからです。そして一度でもそういうことがあった人には、少し時間を置いてから、私が坐骨神経痛持ちで走るのが辛いことを説明します。大抵の場合はその説明で納得してくれて、次からは少なくとも私と一緒のときは駆け込み乗車をしなくなります。稀にはそんなの関係ないとばかりに駆け込み乗車を繰り返す人がいますが、二度目からは付き合いません。先に電車に乗ったその人に頭を下げて、次の駅で、というジェスチャーをします。その人が私のことをノロマだと思うのか、それとも坐骨神経痛の話を思い出して悪いことをしたと反省するのか、どちらでも構いません。兎に角私は駆け込み乗車が嫌いだし、他人に迷惑をかける行為だと思っています。駅の放送でも、駆け込み乗車は他の迷惑になると言っています。
ところが依然として駆け込み乗車をする人がたくさんいます。東京で毎日電車に乗っていると駆け込み乗車する人を見ない日がありません。他人の迷惑だとわかっているのに、どうして駆け込み乗車をするのでしょうか。
それは倫理観よりも損得勘定の方が上回っているからです。他人の迷惑など関係ないという人はたしかにいます。他人の迷惑になるのはわかっているけれども駆け込み乗車をしてしまう人もいます。後者の方が数は多いかもしれません。両者に共通する認識は、駆け込み乗車をした方が得だという判断、あるいは駆け込み乗車をしないと損だという判断です。駅のホームでいまにも出発しそうな電車を見た途端、一瞬の間にその判断が行なわれ、命令は足に伝わり気がついたら駆け込み乗車をしているのです。
私の場合も例外ではありません。同行者が駆け込むのを見たら、その人とはじめての場合は付き合わないと関係が悪化する恐れがあり、同行者が上司だったりすると最悪の場合は理不尽な叱責を受けることになります。要するに一瞬の間に損得勘定をしているのです。
私と同じように上司や同僚の駆け込み乗車にやむを得ず付き合っている人もいると思います。しかし頻度からすると、私の場合で年間に1度か2度くらいです。それに対して朝の通勤時に見掛ける駆け込み乗車は、もっと頻繁に行なわれているように見えますし、その殆どがどう見ても同行者に付き合ってという感じではないので、自発的に駆け込み乗車をしているのだと思います。
そこで私の疑問は、駆け込み乗車は果たして本当に得なのかということです。
もちろん表面的には様々な理由があることはわかっています。発車しようとしているのが最終電車で、乗り遅れると高いお金を払ってタクシーで帰るか、タクシーに乗るお金がない場合はなんとかして時間を潰し、始発に乗るかまたはそのまま仕事に行くかしなければならないから、定期券を使った分とタクシー代を使わなかった分が得になるという場合はたしかにあるでしょう。田舎の路線で1時間に1本しか電車が来ない場合は、電車に間に合えば1時間を損しないで済むということもあるでしょう。たとえ5分置きに電車が来る都内でも、5分後の電車だと会社や学校に遅刻してしまうという場合もあるでしょう。人と待ち合わせをしていて、1分でも待たせる訳にいかないのかもしれません。乗り換え時間がタイトで、走らないと次の電車になってしまう場合もあると思います。
しかしそういうことは、あくまでも表面的な理由であって、人が駆け込み乗車をする心理の本質的な理由ではありません。人は何故、駆け込み乗車をするのでしょうか。
実はその答えは、19世紀にロシアの文豪によって書かれています。
「生は不安です。生は恐怖です。いま人間が生を愛するのは不安と恐怖を愛するからです」(ドストエフスキー「悪霊」よりキリーロフの台詞)
つまり人は不安と恐怖に駆られて、電車に駆け込んでいるのです。
いや、俺はそうじゃない、約束や約束事をきちんと守りたいだけだと言う人もいるかもしれませんが、約束を守ろうとするのは信用を失う恐怖心の裏返しです。仕事や学校に行くのも、行かねばならないというよりも、行かないと将来が不安定になるという恐怖心から行くのです。浮浪者になって野垂れ死にするのが怖いのです。日常的に見慣れている駆け込み乗車ですが、実はあの行動は倫理感や公共心の欠如ではなくて、社会的な動物としての人間の不安と恐怖が具現化されたものなのです。「他の迷惑となりますのでおやめください」というアナウンスは、本当の理由を素通りしてただ空疎に響くのです。