三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

ミュージカル「生きる」

2018年10月26日 | 映画・舞台・コンサート

 赤坂のACTシアターでミュージカル「生きる」を観た。
 http://www.ikiru-musical.com/

 主人公の渡辺勘治は鹿賀丈史と市村正親のダブルキャストで、この日は鹿賀丈史が演じる日だった。黒澤明の映画でお馴染みの作品だが、ミュージカル仕立てというのは興味深い。演出は宮本亜門。
 鹿賀丈史の歌は味があってとてもよかったが、出色だったのは新納慎也(にいろしんや)。180センチの偉丈夫で、長身の鹿賀丈史と並んでも舞台映えは遜色ないし、何よりも歌が抜群にうまい。
 ストーリーは、来年には定年で退職という市役所の冴えない市民課長が、余命半年を宣言されたのをきっかけに、開発で失われた市民公園を再び作ろうとして、役人たちの役人根性や役所の機構、それに政治家の思惑などによる様々な妨害に遭いながらも、諦めずに東奔西走してなんとか公園の完成にこぎつけるが、病魔は待ってくれず・・という悲喜劇である。
 30年間働いてどうだったのかという部下の問いに、忙しくて、そして退屈だったと正直に本音で答えるのだが、人生を嘆くその姿がなんとも切なく、悲しい。人は人生で大したことを成し遂げられる訳ではないが、成し遂げたことの大小は比較されるべきではない。誰もがノーベル賞を受賞できるわけではないし、受賞しない人生を否定されることもない。
 郊外の街で役人としての一生をひっそりと終えたとしても、その人生を否定してはいけない。どのような人生も、ひとつの人生として尊重されるべきなのである。日本国憲法第13条にも「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれている。
 時代のパラダイムによって人を裁く、狭量な正義の味方たちが幅を利かす現代にあって、この芝居の上演は立派な価値がある。宮本亜門の演出は小技がたくさん効いていて、舞台に厚みがあった。いい芝居だった。


映画「億男」

2018年10月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「億男」を観た。
 http://okuotoko-movie.jp/

 予告編は、3億円当たって友達に持ち逃げされて、家族には逃げられ、借金取りには追い詰められて散々な目に遭う悲惨な物語という感じで、あまり観たい気はしなかった。下世話なドタバタ喜劇という印象だったのだ。
 しかし予告編の最後の方に出てくる「お金って一体なんだろう」という言葉が妙に引っ掛かり、観てみることにした。黒木華も出ることだし。
 先ず予告編の印象との落差に驚いた。宝くじを当てた男のドタバタ喜劇ではなく、人間同士の信頼関係、それに貨幣を通じて経済活動の本質にも迫るスケールの大きな作品である。
 学生のときに挑んだマルクスの「資本論」は途中で投げ出してしまったが、最初の方に商品と貨幣についての記述があった。量的な変化は質的な変化に転化するという一節があって、現金も一定以上の多額になると、商品との交換というよりも、現金そのものが資本としての価値を持つ、みたいなことが書かれていた気がする。

 財布の中に千円札があれば、ランチを食べられるし、ランチの代わりにパンと牛乳も買える。十万円あれば、大抵のアクシデントには対応できそうだ。百万円持っていると、これはもう何でもどんとこいだ。場合によっては賃貸の契約もその場でできる。しかし一千万円持っていたらどうだろうか。会社の経理担当者や銀行員が扱う分にはどうということもないだろうが、個人で現金で一千万円持っていると、目的がはっきりしない限り、少し不安になるかもしれない。では3億円の現金はどうだろうか。
 実はこの映画を観るまで、3億円が30kgだとは知らなかった。ときどきドラマで見かける手錠付のジュラルミンのケースが1億円入りだから、3億円は3ケース分だというイメージはあったが、1億円で10kgの重さがあるとは思っていなかった。ジュラルミンのケース自体が1個2kg位ありそうだから、3億円は36kgにもなる。重さもそうだが、その価値となると、日常的な個人消費の感覚では把握できない。
 数年前にフランク・ミュラーが3億円の腕時計を発売したのを見たことがある。3億円の腕時計はもはや日常的な個人消費のレベルではない。たとえ宝くじで3億円当たっても、3億円の腕時計を買うことはない。それはもう数千億の資産の持ち主や、百億円の年収の人しか買わないだろう。3億円しか持っていない人は3億円の腕時計は買えないのだ。それがどうしてなのかを、この作品が教えてくれる。

 佐藤健は「るろうに剣心」でアクションを頑張っているだけの俳優かと思いきや、「8年越しの花嫁」「世界から猫が消えたなら」などの文学的な作品でも存在感を示すようになった。本作品でも迂闊で浅薄な男がいつの間にか考え深い人間になる過程を自然に演じている。
 友人役の高橋一生も妻役の黒木華も好演。高橋一生はその独特な喋り方で、何となく賢そうに見える。黒木華はこのところ、主役からアニメまで、いろいろな映画で見かける。派手なOLから凛とした武家の娘まで、とにかく演技の幅が広い。間もなく邦画に欠かせない女優と呼ばれるようになりそうである。

 お金の日常的な側面から、投資や事業という側面、そしてお金では信頼は取り戻せないというおなじみのテーマまで、お金に関して多様で多角的で印象的なシーンが沢山あり、非常に立体的な作品になった。貨幣経済の社会では、ドラマにお金が絡まないことはない。逆にお金をテーマにするとドラマがありすぎて取捨選択に困るだろう。この映画はたくさん考えられたであろうドラマを上手に断捨離し、落語の芝浜と掛け合わせてなぞかけみたいに仕立て上げた。上手に出来たスーツのように、心地のいい映画である。