三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領から日本人へ」

2020年10月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領から日本人へ」を観た。
 政治家が自分の言葉で世界観や政治理念を語るのは、実は当り前のことなのだが、久しくそういう政治家を見ていないせいか、ムヒカの言葉のひとつひとつに感動してしまった。「なぜ君は総理大臣になれないのか」を観て感動したのも同じ理屈だと思う。
 ヒロシマを視察したあとにムヒカは、倫理や道徳に縛られなければ科学は恐ろしい兵器を作ってしまうという意味の感想を述べたが、奇しくも本作品の公開に合わせたかのように、スカ内閣が日本学術会議の会員を任命しなかったことが報じられている。日本学術会議は科学者が結果的に侵略戦争に加担したことの反省を踏まえて設立されたご意見番の組織である。そのために予算をつけているのだ。
 日本国憲法第6条に「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」とある。日本学術会議の会員を内閣総理大臣が任命しないことが「法律に基づいた適切な処理」(byスカ総理)であるなら、天皇が内閣総理大臣を任命しないことも可能だ。しかしこの質問をぶつける記者はいないし、スカ総理も説明しない。スカは世界観も政治理念もないから話をすること自体ができない。だから「学問の自由とは全く関係ない。それはどう考えてもそうではないか」などという発言になる。どう考えてもそうだなどというフレーズは何も考えていない人が使うフレーズだ。こんな言葉を全国民に対する説明責任を負っている総理大臣が使うのだ。
 テレビのワイドショーでは、国から予算をもらっているくせに、政府のやることに異を唱えるのはおかしいなどという評論家の意見が垂れ流される。国家主義そのものだ。マスコミの姿勢がこんなふうなら、国民に真実が届くことはない。かつての総理大臣田中角栄は自分に反対の意見を言った人にお礼として金を渡していたという。日本学術会議に予算をつけるのと同じである。しかしいまの政治家にそんな度量はない。僻み根性丸出しの拝金主義者たちばかりだ。日本はもうお終いである。お終いdeath!
 ムヒカは他国民や他国の文化に対して一様に敬意を払う。それは世界を俯瞰して政治を行なう立場であり、戦争を回避するために互いに尊重し合う平等の精神性である。自国を「天皇を中心とした神の国」という発言をした総理大臣の幼稚な精神性とは100年くらいの違いがある。とは言っても日本の政治家があと100年かけてムヒカのレベルにまで上がれるかどうかは定かではない。
 威張らない、自慢しない、高圧的でない、頭ごなしに否定しない、作業を厭わないという姿勢は、日本で考えてみれば働き者の好々爺である。威張って自慢ばかりして高圧的で他人のことはすぐに否定して細かいことは官僚任せの日本の政治家とちょうど正反対だ。
 政治家は言葉が生命である。政治的な信念を持って発言しなければならないし、言った言葉には責任を持たなければならない。政治家の言葉は重いのだ。日本は7年8ヶ月に亘る嘘つきの総理大臣のおかげで、すっかり言葉の重さがなくなってしまった。そして今度は言葉さえまともに話せず、所信表明演説をパスするような不誠実な人間が総理大臣になってしまった。
 ムヒカの重い言葉のひとつひとつに感動を覚えながら、一方では日本の政治家の軽い言葉のひとつひとつを反芻して憤りを覚えつつの鑑賞となった。ムヒカの評価については賛否さまざまあることは承知している。しかし彼は自分の言葉で語る。日本では自分の言葉で語る政治家が報道されることはまずない。嘘つきの総理大臣、嘘つきの幹事長、嘘つきの官房長官の言葉がまことしやかに報道され、情報処理能力に欠ける国民はそれを信じてしまう。
 嘘も100回言えば本当になるとはナチスドイツの高官の言葉だ。再び日本が戦争を始める前に、ムヒカのことを教科書に載せて、政治家が如何にあるべきかを子どもたちに示すのがいいと思う。

映画「ある画家の数奇な運命」

2020年10月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ある画家の数奇な運命」を観た。
 エンドロールの途中で席を立つ人がいる。急ぎの用事があるのかもしれないから、一概に否定するつもりはない。しかしアンミカがテレビで言っていた「アメリカではエンドロールなんか見る人いない。みんな席を立つ」という発言には不快感を覚えた。アメリカのすべての映画館のすべての観客がエンドロールを見ずに席を立つという明確な証拠でもあるならまだ容認できるが、証拠もなしに発言していたなら感心できる話ではない。当方はエンドロールまでなるべく全部見る派である。エンドロールも人の手間と時間がかかっている作品の一部なのだ。
 本作品のエンドロールは文字ばかりの普通のエンドロールだったが、BGMがヒーリング音楽みたいで大変心地がよかった。おかげでこの長編映画をゆっくりと反芻することができた。189分の映画だが観ている間は長いと思わず、観終わるとずっしりと来る作品である。それは優れた作品の特徴のひとつだ。
 当方は絵画に縁がない。子供の頃から絵が下手だった。絵が上手な子は教師から褒められるが、下手な子の絵は笑われる。自然と絵を描かなくなり上手な子との差はますます広がっていく。だから絵を描く楽しさが分からない。そこが残念で仕方がない。絵を描く楽しさが分かっていれば、下手なりに絵を描き続けていたかもしれないし、本作品の捉え方も違っていたかもしれない。
 とは言え、本作品は絵が下手でも美術に造詣がなくても理解できるように作られている。ひと言で言えば、人間不在の絵には生命がないということだ。政治的なイデオロギーによって描かれる絵は、見た人に訴えかけるものが何もないのだ。主人公クルト・バーナートは東側のソ連傘下に入った東ドイツではイデオロギーの枠の中の絵しか描けない。
 西側では自由に描けるはずだが、今度はテクニックに惑わされてしまう。クルトの作品にはクルト自身が見えないと教授に指摘されると、クルトは創作者が一度はハマる、頭が真っ白になる状態になる。クルトは何かを創り出せるのだろうか。
 物語はクルトの幼少時から始まる。自由人だった叔母の影響でクルトも既存のイデオロギーやパラダイムに支配されない自由な精神性を持っている。その叔母はナチスドイツの優生思想による政策でガス室に送り込まれた。送り込んだ医師ゼーバントはナチス党員であり、権威主義、国家主義者であった。
 クルトが青春を迎えたある日、かつて叔母が世界の真実を悟ったと叫んだようにクルトも世界の真実を悟ったと叫ぶ。若いときにはこういう日が一度はある。当方も高校生の頃にドストエフスキーやショウペンハウエル、ニーチェなどを読んで、世界を理解した気になったものだ。しかしそれが勘違いであったのと同様に、クルトの悟りもおそらく勘違いだったと思う。
 その後東ドイツの美術学校で出逢ったエリーが偶然にもゼーバントの娘だったが、エリーの家族もクルト自身もそれに気づかない。そして西側の美術学校でちょうど創作に行き詰まっていた頃にいくつかの出来事が重なり、クルトは持ち前の映像記憶力でそれらを組み合わせ、大戦時に叔母に起きた事実とゼーバントとの関係、ぜーバントとナチスの関係を洞察する。そしてそれをキャンバスに表現しはじめる。そこからがクルトの本来の芸術のスタートとなる。
 芸術家としてのクルトの成長と、恋愛から結婚に至る個人的な生活が物語の両輪で、主人公クルトと恋人エリーに対し、国家主義や優生思想などの象徴としてのゼーバントという権威主義者の俗物を対立軸として置くことで、立体的な作品に仕上がっている。精神的な自由を重く扱った映画であり、世界の人々が再び陥りそうになっている危険な思想への傾倒に警鐘を鳴らす作品でもあった。いかにもドイツ映画らしい作品だと思う。
 自由は辛くて厳しい。人間は放っておくと自由を投げ出して権威の前にひれ伏し、代わりにパンと家を手に入れようとする。そこを踏ん張って自由を守り続けるには勇気が必要なのだ。自由を投げ出して共同体に同化すると国家主義になる。戦争をするのは決まって臆病者たちなのである。