三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ」

2020年10月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ」を観た。
 日本では高度成長期の価値観は、結婚して家と自動車を買って二人か三人の子供を立派に育てるというものだった。やがて肥大しすぎた経済は実体のないバブルとなってマネーゲームを誘発し、屋根まで飛んだシャボン玉のように壊れて消えた。あとに残ったのは利益を貪欲に追求する一部の金持ちと文明を享受し、日々の享楽にうつつを抜かす大多数の人々である。家や自動車は一部の金持ちのステータスシンボルでもあり、高級住宅、高級車は今でも売れる。
 21世紀の日本は家や自動車などあまり欲しいとも思わない社会になったようだ。それは少子化と密接な関係がある。一人暮らし、または夫婦二人の暮らしなら、一戸建ての家はいらない。生活に見合う広さの賃貸物件で十分だ。家が必要なのは子供がいる夫婦である。子供部屋がいるし、子供と一緒に出かけるのに自動車も必要だ。しかし晩婚化または未婚化、そして少子化の今の日本の社会は、家も自動車も必要としない。賃貸に住んでレンタカーを借りればそれで済む。自分が死んだあとには何も残らなくていい。墓も要らない。骨はそこら辺に撒いてくれればいい。
 人生がうたかたのように消えてなくなるものであり、先祖の人生も同じようにうたかたであったのだと考えれば、家に対する執着はない。モノに対する執着もないだろう。生きている内に便利に使えるように実用的であればそれでいい。
 そういう今の日本の状況と正反対だからなのか、家にこだわり、先祖の歴史に誇りを持つ本作品の主人公には、とうとう最後まで感情移入が出来なかった。黒人差別、環境汚染は会話の中にでてくるが、目が4つある魚以外は話だけだった。若い主人公の思い込みが優先されて抽象的な描写に終始した印象である。
 金融機関に交渉に行くのにジャケットを着たりして社会に迎合するような部分もあり、自信のなさを窺わせる。主人公たちがどうやって生計を立てているのか不明だし、家を手に入れてその後どうするのかの展望もない。時代が変化しているのは分かっているようだが、家も同様に経年劣化してやがて朽ちていくことには想像力が働かないようだ。
 個人との思い出もステレオタイプで、安っぽいホームドラマを観ているようだった。あいつはいい奴だったというノリだ。それにいまさら差別と戦おうと言われても、格差がありすぎてどうにもならない。劇中劇の観客以上にこちらが白けてしまう。独創性に欠けるのだ。
 黒人同士が互いにニガーと呼びかけて差別を茶化して相対化するのも、もはや時代遅れだ。どのシーンにも何の哲学もないから、独りよがりの作品になってしまった。それでも映像の美しさと歌がよかったのでそれぞれ1点ずつ、2.0とする。

映画「星の子」

2020年10月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「星の子」を観た。
 テレビのインタビューで共演の岡田将生や大森立嗣監督が16歳の芦田愛菜のことを「愛菜ちゃん」ではなく「芦田さん」と呼んでいるのを聞いて多少の違和感があった。しかし本編を観ると、その見事な演技で場の雰囲気を全部持っていってしまう場面がいくつもある。共演者が「愛菜ちゃん」ではなく「芦田さん」と呼ぶのもさもありなんと納得した。
 本作品で彼女が演じた主人公ちひろは素直で頭のいい中学生である。自分の家のことは自分が一番よく知っている。隠すことも恥ずかしがることもない。全部ひっくるめて自分の家族なのだ。その堂々とした主役ぶりに感心した。
 いいシーンがいくつもあるが、大友康平演じる伯父さんを相手に両親のことを「わかってる」ときっぱりと答えるシーンがもっとも印象に残っている。宗教にハマっている両親のことも、その宗教がマイナーで変だと思われていることも、マイナーな宗教の信者が世渡りの上で不利を受けるかもしれないことも、全部わかっている。伯父さんよりずっとわかっている。
 それに伯父さんが知らないこともある。両親がどれだけ自分のことを大切にし、姉のことを心配しているか。両親は自分のために宗教に入信したのであって、宗教が先ではない。世間の人たちが両親の価値観を蔑んでも、信じているものは仕方がないではないか。
 伯父さんたちや教師にはそこが分からない。キリスト教や仏教や神道が認められるのであれば、新興宗教も認められなければならない。それが信教の自由だ。新興宗教が否定されるのであれば、キリスト教や仏教や神道やイスラム教さえも否定されなければならない。しかし日本で18万を超える宗教法人はもはや否定の余地がない現実だ。
 両親の信じていることを自分も信じているかと聞かれれば少し迷いがある。しかし両親が信じている内容がどうあれ、両親のことは信じている。自分や姉に対する揺るぎのない愛情は疑いの余地がないからだ。
 黒木華の昇子さんが言う「あなたがここに来たのはあなたの意思ではないのよ」という言葉を考えてみる。この言葉はどうとでも受け取れる。昇子さんは宗教団体の幹部らしく、何か見えない大きな力に動かされてここに来たのだとでも言いたいのかもしれない。
 しかし別の考え方もある。人間は無意識にいろいろなことを決断している。朝、時計を見る。起きるかどうか、起きたら歯を磨くより先にトイレに行くかなど、小さな決断の連続だ。平凡な日常生活でも一日に200回以上も決断しているらしい。
 昇子さんが言っている「意思」は意識のことで、ここに来ようと意識的に決意して来たのではないと言いたいのかもしれない。無意識の決断がここに導いたのだと。しかし無意識もその人の「意思」のひとつである。意識していなくても職場や家に辿り着くように、人間の生活の殆どは無意識が決断をしている。
 無意識の世界は意識の世界よりずっと広大で豊かである。愛も恋も怒りも憎しみも無意識の領域にある。無意識の部分を意識によってコントロールできれば、怒りや憎しみ、不安や恐怖といった感情を抑制できるだろう。昇子さんがいつも笑顔なのはその辺りに秘密がありそうだ。そして水をきっかけにして人々の無意識をコントロールすることで教団が成立しているということも考えられる。昇子さんの言葉がいつも謎めいているのは、そこに教団の秘密があるからかもしれないのだ。
 ちひろには昇子さんの多義的な言葉はまだ理解できない。今後も理解できるかわからないし、両親も理解しているとは思えない。人間は不安と恐怖にさらされたままでは生きていけない。どこかで無意識をコントロールして、不安と恐怖を弱めなければならない。般若心経に「無有恐怖遠離一切顛倒夢想究境涅槃」という文言があるように、恐怖がなくなれば心が平穏になって幸福の境地に至るというのが仏教の考え方だ。そう言えばすべての宗教は生きている人間から生の不安と死の恐怖を取り去るのが目的である。本作品の教団も同じなのだ。
 大森立嗣監督は人間の心の闇を描く。ちひろの心にも広大な闇がある。教団をひとつの扉として、少女の心の闇を訪ねてみたのが本作品だと思う。パンドラの匣のように、ちひろは闇の中から希望を取り出すことができるのだろうか。