三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ムーンライト・シャドウ」

2021年09月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ムーンライト・シャドウ」を観た。
 
 美しい作品である。甲子園で活躍した上宮高校の校歌「月影」を思い出した。「月影のいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞ澄む」という歌詞は、日本一短い校歌として知られている。
 
 主人公のさつきを演じた小松菜奈の表情がいい。この人は全体にスリムだが、長い脚にほどよく筋肉がついた素晴らしいバランスの身体をしていて、映画の中で何度も走るシーンが出てきたのも頷ける。ヨウ監督の趣味もあるのかもしれないが、小松菜奈の身体の美しさは、健康は即ち美しさであり、即ち善であるということを印象づける。
 宮沢氷魚の演じたひとしの言葉には一片の毒もなく、これほど心の美しい慈悲に満ちた青年がいることは奇跡と言っていい。同じように美しい心と美しい身体の持ち主であるさつきと惹かれあったのは当然だ。
 ひとしとの時間を語るさつきは、ひとしがくれた愛と青春に胸が一杯になって涙がとめどなくあふれる。小松菜奈の渾身の演技である。どちらかと言えばクールなイメージの彼女だが、これほど情緒のある優しい表情ができることに感動した。
 台詞の少ない作品だが、表情や行動から読み取れる青春の喜びと悲哀、それに身体から放たれるエネルギーと身体に取り込まれるエネルギーが立体的な感覚として伝わってくる。さつきが食事をするシーンは特に印象的で、食べ物を口に入れて、咀嚼するのだが、食べ物をちゃんと味わい、香りを楽しんでいるのがわかる。
 人間は楽しいときは意外と無表情だ。食事のときもセックスのときも大抵は無表情である。しかし楽しい。本作品にはこういうシーンが多く、戸惑う観客もいるかもしれない。笑顔を浮かべることなく楽しさを伝えた小松菜奈の演技は大したものだと思う。
 
 さて冒頭に紹介した法然上人の和歌は、仏の慈悲が届かない場所はないけれども、という上の句に、見ようとしない人には見えず、見ようとする人にははっきりと見える、という下の句が対応する。原作者の吉本ばなながこの和歌を意識していたのかは不明だが、本作品はこの和歌に見事に呼応している。見ようとしない人には何も見えないのだ。

映画「浜の朝日の嘘つきどもと」

2021年09月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「浜の朝日の嘘つきどもと」を観た。
 
 素直に感動する作品である。場面転換にやや捻り過ぎの感があり、もう少し素直に時系列に沿っていた方がよかった気もするが、しかし全体としては全然悪くない。タナダユキ監督の演出は人間愛に溢れている一方で、人間を突き放してみている部分もあり、自然主義的なリアリティを感じる。観ていて疲れないのだ。
 どちらかと言えば小柄な高畑充希だが、女優としては無二の存在感がある。本作品でもその存在感を遺憾なく発揮して、落語家もお笑い芸人もずんずんと引っ張っていく。彼女の放つエネルギーはそれはもう大変なもので、変な喩えで恐縮だが「歩く原子炉」みたいだ。主人公の浜野あさひは、感動的な台詞をぽつりぽつりと話す。それまでの人生の総熱量のこもった思い入れのある話しぶりに思わず涙がこぼれた。高畑充希は最高だ。
 高畑充希に引きずられるように、大久保佳代子が意外なほどいい演技をしている。自転車を止めて振り返った表情は、どういう訳か、とても美人だった。惚れはしないけど。
 70歳くらいに見える柳家喬太郎だが、演じているのは57歳の森田支配人である。あとで柳家喬太郎自身も57歳だと知って少し驚いた。落語家は若い頃から歳よりも老けて見えがちだが、歳を取っても歳よりも老けて見えがちなのだろうか。巷では歳よりも若く見られることがいいことみたいに思われているが、この人を見る限り、老けて見られるのも悪くないと思った。
 光石研はもう何でもできる名バイプレイヤーだ。本作品では主人公の父親を演じるが、これが渋くてとてもいい。お笑いコンビのクールポコの「男は黙って鳥羽一郎」というギャグを思い出した。
 
 コロナ禍で「不要不急」という言葉が市民権を得たが、何をもって不要不急とするのかは未だにはっきりしない。対義語も「必要火急」や「有用有急」など、いくつか候補がある。東京オリンピックが既に税金をたくさん投入している必要火急のイベントだったのだとすれば、映画も製作にお金をたくさん投入している訳だから、必要火急の興行ということになるはずである。
 それに人間はパンのみにて生きるにあらずだ。映画館や美術館、博物館、図書館、芝居の劇場、コンサートホール、それに本屋が街から消えてしまったら、人間はあっという間に原始時代に逆戻りである。
 本作品が提示した、街に映画館は必要なのだというテーゼは、反知性主義が蔓延している政府与党の対極にある。何も考えずにヘーコラとボスに従うだけの自民党の議員たちは、サル山のボス争いをしているだけだ。人間はサルではないし、国家はサル山ではないということを知らないのではないか。総裁選はどう考えても不要不急のサル芝居に見える。