映画「クーリエ 最高機密の運び屋」を観た。
国家権力の暴力装置はたくさんある。日本で言えば自衛隊、警察、検察、刑務所、厚労省麻薬取締部、法務省出入国在留管理局(入管)などで、人を逮捕監禁する権限を持つ。もちろん逮捕監禁されるのは殆どが違法行為を犯した人間だから、正しく日常生活を営む我々にはあまり縁がない。
しかし国家主義者が国家権力を掌握すると、これらの暴力装置は違法行為をしていない普通の人々に対しても、些細なことから国家に反逆したという罪で逮捕監禁を行なうことになる。通報が奨励され、通報者に報酬が与えられるようになると、国民は相互監視して、隣人の僅かな行動も漏れなく通報するようになる。息苦しい世の中になるのだ。
実際の運用はどうだろうか。暴力の権限が与えられているのは人間だから、性格や感情に左右される面がある。場合によっては気に入らない人間を引っ張ってきて、時には殴る蹴るの暴行をしたり、場合によっては拷問をする。刑務所や留置場ではストレス発散のために時々囚人を殴ったり懲罰房に入れたり、時には射殺したりするだろう。専用の監察医がいるだろうから病死扱いでチャンチャンだ。
警察や刑務所以外でも、近頃スリランカ人の女性を殺したことで有名になった名古屋入管や、ペルー人を暴行して後ろ手に縛ったまま放置した大阪入管など、現代の日本の暴力装置は確実に理不尽な暴力を実行している。警察は間違った人間を逮捕しても、間違いを認めたくないから強引に自白をさせる。そのやり方は今でも同じだ。
取り調べの可視化が叫ばれて久しいが、未だに不十分である。殺人を犯した名古屋入管には被害女性の録画があるにもかかわらず、法務大臣の上川陽子は公開を拒んでいる。何のための録画だったのか。
一番の疑問は、収容者を毎日相手にして何が楽しいのかということだ。刑務所の刑務官は自分たちのことを「先生」と呼ばせていると聞いたことがある。中国語の「先生」は英語の「ミスター」と同じで「~さん」という意味だが、同じ言葉が日本ではお偉いさんに使われるようになった。刑務官がそう呼ばせているのか、受刑者が自分の身を守るためにそう呼ぶのかは不明だが。
強制収容所では上司の命令で収容者を連れ出したり連れ戻したり、酷い食事を与えたり毛布を奪ったりするようだが、何が楽しくてそんなことをするのか。自分の身を守るためなら、人間は何だってするのだろうか。
ヒトラーやスターリンなど、政治的に厖大な数の人々を虐殺した指導者は歴史的に非難されるが、それに従った無名の人々はどうなのだろうか。彼らが非難されることはあまりない。生きていくために人間としての尊厳を投げ出したのは不可抗力なのか。
ブラック企業で働く人達がいる。1日15時間拘束で休憩も殆どないような職場である。それでも自分には他に働かせてもらえる職場がないと思ったら、辛くても我慢する。人格をスポイルされても我慢して働く人達が、ブラック企業を支えている。戦前の日本国民と同じだ。
つまり「お国のため」が「会社のため」に代わっただけで、構図は同じなのだ。それでも政治がちゃんと民主主義を貫いていれば、会社が得た利益をうまく税金で吸い上げて国民に還元することができる。ところが政治が国家主義であれば会社の利益はそのまま国家の利益になってしまい、国民には分配されない。ブラック企業で骨身を削って働いても、何のご利益もないという訳だ。
ちなみに当方の解釈では、国家主権を国家主義、国民主権を民主主義としている。異論もあるかもしれないが、分かりやすいし、本質をついていると思う。
本作品はとても怖くて、苦しい作品である。普通の市民である主人公グレヴィル・ウィンに、降って湧いたような接触があり、それがCIAとMI6という米英の代表的な対外工作の国家組織なのだから、主人公の不安がどれほどのものか想像もつかない。あっという間に感情移入してしまった。
そして彼の勇気に感心した。逃げ出さない、放り出さないというウィンの姿勢は、様々な相手に粘り強く商談を進めてきたこれまでの経歴に由来するのだろうか。胸を張って堂々と歩く英国紳士然とした主人公を演じたカンバーバッチの演技力に脱帽である。
グレヴィルの決して折れない強い心は、現代人の誰もが見習うべきかもしれないが、その強さの源は人それぞれに求めるところがあるだろう。グレヴィルの場合は、彼をリクルートしたCIAの女性エージェントの言葉かもしれない。曰く、核戦争を防ぐためだ。
冷戦は水面下の情報戦であった。それは国家主義者によって、現代も続けられている。技術の発達とともに形を変え、人間同士の秘密の接触から、軍事衛星やドローンやインターネットなどに取って代わっている。しかし国家間の争いであることに違いはない。グレヴィルやアレックスが目指したのはこんな世の中だったのだろうか。