三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「水俣曼荼羅」

2021年12月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「水俣曼荼羅」を観た。
 
 6時間の長編で、休憩時間を含めると7時間になる。全体として感動する場面は少なかった。反対に嫌な場面はとても多かった。特に、役人が一方的に人格攻撃を受ける場面を観て、当方自身がかつて会社のクレーム処理をしたときのことを思い出し、胸が悪くなった。クレーマーからよってたかって怒鳴りまくられた記憶である。つるし上げはいじめでしかない。とても見苦しかった。
 役人たちは大抵が水俣病の発生時には役人になっておらず、よく知らない昔のことで、謝れと怒鳴られ、本気で反省していないと内心の自由まで脅かされる。そもそも役人が本気で反省することなどないことは、誰もが知っている。知事や大臣からは、何も約束しないで、兎に角その場をやり過ごせと命じられているのだ。
 
 嫌な場面が多かったのは、公害のドキュメンタリー映画である以上、当然である。そのことで作品の評価が下がることはないと思う。原監督もつるし上げのシーンで原告団が観客から嫌われることは解っていたと思う。
 ひとつ注文があるとすれば、ドキュメンタリーなのに時系列が分かりにくいから、せめて何年に撮影したシーンかぐらいは字幕に出してほしかった。
 
 敢えて書くが、人類の歴史は殺人の歴史である。愛の歴史ではない。戦争でたくさんの人が死んだのと同じように、水俣病でたくさんの人が死に、いまも苦しみ続けている。戦争と水俣病は違うというかもしれない。しかし当方は同じだと思う。戦争のときは国民がこぞって戦争に浮かれていた。水俣病は国民がこぞって無視している。
 知事や大臣は選挙で選ばれている。政治家の仕事は予算をどのように使うかを決めることである。だから衆議院でも参議院でも、予算委員会が最も重要な委員会だ。熊本県知事が熊本県の予算の多くを水俣病対策に使うことが県民の賛成を得られることなのか。環境大臣が国家予算の多くを水俣病対策に割くことが国民の同意を得られることなのか。
 
 本作品には、水俣病患者が要求する補償は県予算や国家予算から支出されることになるという視点が欠如している。予算であるからにはその原資は当然、県民や国民から徴収する税金である。知事や大臣が「反省しました、それでは水俣病の申請者は全員を認定します、一人当たり2億円を差し上げます」という訳にはいかないのだ。
 素人考えでは、チッソを解散して、残った有価証券で水俣病被害者全員に補償、有機水銀のヘドロ対策、債権者への支払い、退職金の支給を強制的に行なう以外の最終的な解決策は思い浮かばない。そんなことが手続きとして可能なのかはわからないが、行政がそんなことをしないことだけはわかる。
 
 諫山孝子さんはたしかジョニー・デップ主演の映画「MINAMATA ミナマタ」にも出ていたと思う。水俣病は死の病だが、死に至らずとも病状は一切回復しない病気なのだと、改めて実感した。父親の諫山さんへのインタビューで、原監督が「娘を殺して自分も死ぬなんて思ってことはありますか」と聞く。もちろん、そんなことはないという回答を期待したのだと思うし、こちらもそう予想した。しかし諫山さんは「何度もあります」と言う。娘を殺すのは犯罪だが、チッソや国が自分たちを殺しても病気にしても、何の罪にも問われない、自分たちのことはせめて自分たちで決めさせてもらってもいいのではないかと、迫力のある論理を展開する。このシーンには最も共感したし、水俣病患者とその家族の苦しみが最も分かりやすく共感できたと思う。
 
 本作品で不思議だったのが、一般の有権者のシーンが殆どなかったことだ。多分撮影ができなかったのだと思う。水俣病患者を救う政治家を選ぶのか、無視する政治家を選ぶのか。救う政治家を選ばなかったから、多くの人々が救われないままだ。有権者は水俣病患者を見捨てたのである。
 
 原告団のひとりがみかん畑で言う「水俣で水俣病の話をすると嫌われるんです」
 水俣病患者を苦しめているのは他でもない、向こう三軒両隣の普通の人々なのである。

映画「ラストナイト・イン・ソーホー」

2021年12月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ラストナイト・イン・ソーホー」を観た。
 
 恐ろしくもエロティックな作品である。舞台がソーホーというからニューヨークかと思っていたら、ロンドンのソーホーだ。紹介された街は性風俗の歓楽街だが、男はみんなスーツやタキシードで女はドレスである。東京で例えると、歌舞伎町というよりも銀座と浅草と吉原を一緒にして、少しコンパクトにした感じである。わかる人にはわかると思う。
 誰の言葉か知らないが「歌は世につれ、世は歌につれ」と言われる。時代の象徴が歌だが、歌の変化によって時代もまた変化する、相互的な変化の様子を一言で表した名言である。
 本作品も1960年代の歌がヒロインをその時代に連れていく。ヒロインがいわゆる「見える人」であるところから、同じように自信満々で田舎からロンドンに出てきた少女とオーバーラップする。最初は楽しく、その後は徐々に不幸に、悲惨になっていく。
 1960年代のロンドンは、現在の東京よりもはるかに女性がエロティックに見える。そうでなければ生きていけなかったのだろう。作品に登場する女性はデコルテを露出させて胸の谷間を強調する服装が多かった。ヒロインもそうである。現在の東京ではそういう女性はほとんど見かけない。夏の渋谷にときどき出没しているくらいだ。
 
 ということで、本作品は立場の弱い女性が性的にしか生きていけなかった、かつての不幸の時代を描きつつ、現在のホラーとなっていて、過去と現在の二重構造が興味をそそる。前半は微妙にダレて、大家と実の祖母の二人のおばあちゃんが鬱陶しかったが、後半は一気にホラー感が増して、驚愕のラストに突入していく。服装の変化も見事で、ヒロインが服飾学校の学生という設定が生きている。歌が物語を引っ張り、物語も歌に引っ張られるという、とても洒落たホラー映画である。観客としては、見事にしてやられた爽快感がある。観終わると、何故かリッチな気分になった。

映画「エッシャー通りの赤いポスト」

2021年12月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「エッシャー通りの赤いポスト」を観た。
 
 舞台挨拶の回だとは知らずに鑑賞した。実は舞台挨拶があまり好きではない。登壇者は映画の宣伝のために出ているから、当たり障りのないことしか言わない。そんな表面を取り繕った話を誰が聞きたいのか。
 当方の考えとは裏腹に、実際は舞台挨拶が好きな人がとても多い。今回も意外なほど観客がたくさんいたので、そんなに人気のある作品なのかと思ったら、上映後にわらわらと準備がされて舞台挨拶がはじまった。
 本作品は登場人物が多くて、この日は登壇した5名の他に十数名が座席に座っていて、ひとりずつ挨拶した。少しうんざりだ。当方は作品を観に来ているのであって、役者本人を見に来ている訳ではない。
 舞台挨拶が好きではないといっても、監督ひとりだけが喋るのは、製作の動機が垣間見えて好きである。そういう舞台挨拶を何度か聞いたことがある。先日ヒューマントラストシネマ有楽町で鑑賞した「香川1区」の大島監督の舞台挨拶がそのひとつだった。今回も園子温監督がひとりで語るのであれば、舞台挨拶を聞く意味があったかもしれない。
 
 本作品はオーディションの合格者51人全員が主人公だとのことで、監督が自分の頭の中にある典型をそれぞれの出演者に当てはめてみせた訳である。上手くいっている場合もあれば、そうでない場合もある。出演者の能力に左右されることもあるし、監督との相性によることもある。その両方もあるだろう。だから面白い場面とつまらない場面があって、当方にはつまらない場面のほうが多かった。
 数少ない面白い場面のひとつは、有名女優という設定の登場人物がインタビューでドストエフスキーを読んでいると答える場面で、具体的な作品名を尋ねるインタビュアーに対して答えをはぐらかすところだ。監督にとっての難解な作家がドフトエフスキーということでもあるのだろう。
 この登場人物は、バカっぽく見える自分の外見を返上するために、取り敢えず難しそうな作家の作品を読んでいると言った訳で、同じ知的レベルの取り巻きの反応と同じように「へえー、すごーい」と言ってもらえるとでも思ったのだろう。
 そのあたりは観客も含めた全員が分かっていたから、敢えてインタビュアーに作品名を尋ねさせて意地悪をした訳だ。この登場人物は本作品の中でも知的レベル最下位の設定と想定されるので、もし作品名を答えたら、シナリオ全体が覆ることになる。
 このシーンはある意味で本作品を象徴している。つまり登場人物たちは、誰が上で誰が下なのかを争う。中には自分はあなた方とは違うんですという立ち位置の人間もいるが、他人と自分を比較している点では同類に属する。その他は誰に対してもいい顔をしたい弱気な人物だ。
 
 ただひとりオリジナリティを追求する若い映画監督は、マウンティングと八方美人ばかりの主体性のない人間関係に疲れ果ててしまう。それは園監督が既成の映画関係社会に疲れ果てた姿にも見えた。
 本作品はオーディションをネタとした実験的な作品である。あまり熟(こな)れていないから面白さはいまひとつだが、既存の女優を使わない作品を作ってみせた園子温監督の意欲は、銀幕からひしひしと伝わってきた。