映画「シリアル・ママ」を観た。
ビヴァリーでなくても、日常生活で腹の立つことは山ほどある。誰もが一日に一度や二度は怒りを感じる瞬間があるだろう。殺してやりたいとか、死ねばいいのにとか思うかもしれない。心の中では、ホッブズではないが、万人の万人に対する闘いが繰り広げられているのかもしれない。
ということは、自分も誰かの怒りを買っている可能性は十分にある。お互い様なのだ。大人はそれが分かっているから、自分の怒りを抑制する。所謂アンガー・コントロールというやつだ。理性と言ってもいい。
そもそも共同体では、万人の万人に対する闘争が実際に勃発してしまったら、共同体そのものの存続が危ぶまれる事態になるから、法律で厳しく取り締まっている。刑法である。他人を殺したり傷つけたり、物を壊したり盗んだりしたら、相応の刑罰が適用される。ただし国家権力が好き勝手に人を取り締まったら、やはり共同体の存続が危うくなるから、刑罰を適用するのは法律に基づかなければならない。罪刑法定主義である。
刑法には、違法行為に対する抑制の効果があり、罰せられるのを恐れているから罪を犯さないという面もある。それもひとつの理性ではある。
本作品では、理性を失なって次々に殺人を犯すビヴァリーが、すぐに理性を取り戻して日常生活に戻る豪胆さが描かれる。刑罰に対する恐怖を一切持たない。検事の言う通り、まさにモンスターである。
ビヴァリーはふたつの意味で象徴だと思う。ひとつは国家権力の権力者だ。専制政治の元首になると、法律は適用されず、どんな違法行為も許される。国家元首でなくても、諜報組織などが秘密工作に従事していることは誰もが知っている。
もうひとつは、誰もが抱える心の闇の象徴である。他人の権利や人格を徹底的に蹂躙したいと願う黒い心だ。それは被害妄想であったり、独善であったり、アウトサイダーに対する怒りであったりする。多くの人が心の奥底にしまって、決して表に出さないようにしている。
本作品の製作は1994年で、その後インターネットが急速に世界中に広まり、人々は匿名性の高いネットの世界に心の闇を解放してしまった。SNSや掲示板で他人を攻撃するのだ。その膨大な罵詈讒謗の実態を垣間見れば、ビヴァリーは既に世の中に溢れかえっていることがわかる。そら恐ろしい話である。