三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「オー・ルーシー!」

2018年05月08日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「オー・ルーシー!」を観た。
 http://oh-lucy.com/

 女というのはかくも哀しい生き物なのかと、改めて慨嘆した。それほど寺島しのぶの演技は圧巻だった。
 43歳の独身女。見栄があり諦めがあり孤独があり、そして日々の暮らしがある。歳を追って老いていく自分を認めたくない気持ちはあるが、若いだけが取り柄のOLたちを軽蔑する気持ちもある。
 かといって自分を向上させるための努力をするでもなく、一度も片付けたことがないみたいな部屋に毎日帰ってきてはぐずぐずと燻っている。本人には居心地のよさそうなその場所から死ぬまで一歩も踏み出すことがなさそうに見える彼女だが、ジョンの登場ですべてが一変する。
 女は灰になるまで女であるというのは、昔のテレビドラマ「大岡越前」に出てくる話だが、一見すると女を捨ててしまったかに見える節子でも、何かのきっかけで眠っていた内なる性が目を覚ます。
 それから先の展開には少し驚かされたが、荒唐無稽な印象はちっともなくて、むしろ大変に現実的であるように感じた。それは登場人物のいずれもがどんな場面でも日常を背負ったままでいることに由来する。この辺の演出はとてもうまい。性格も習慣も救いようのない女である筈の節子だが、最後には餌をねだってくる猫みたいに愛しい存在に思えてくる。
 人間愛に溢れた傑作である。


映画「Le jeune Karl Marx」(邦題「マルクス・エンゲルス」)

2018年05月07日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Le jeune Karl Marx」(邦題「マルクス・エンゲルス」)を観た。
 http://www.hark3.com/marx/

 学生のときに一度は「資本論」の読破に挑戦した人がいるだろう。かくいう当方もそのひとりであるが、残念ながら第一巻で断念してしまった。
 神保町の岩波ホールは歴史ある映画館で、本作品はその単館上映作品である。文化や教養の代名詞と言ってもいい岩波は、映画館でもアカデミックな作品を上映する。そのせいだろうか、観客に若い人は殆ど見かけなかった。ひとりだけ、母親と一緒に来ていた高校生くらいの男の子がいるのを見て、母親を褒めたい気になった。
 マルクス経済学を評価するようなことは、経済に疎い当方には荷が重すぎるが、彼の理論が世界的に大きな影響を及ぼしたことは知っている。ソビエト社会主義共和国連邦という国は、マルクスなしには存在しなかった。中華人民共和国も然りである。映画に登場するエンゲルスをはじめ、トロツキー、レーニン、毛沢東、カストロなど、マルクスの思想の流れを汲む人々が次々に世界の政治の中枢を占めている。ただしそれがいいことだったかどうかはわからない。
 作品は妻と娘を抱える若き日のマルクスが、生活に困窮しながらも一切の妥協なしで思想を深め、理論を広げようとする懸命な姿をひいき目なしに描く。仲良くしておいた方が有利な相手でも、理論的に間違っていれば平気で論破する。しかもとことん追い詰める。マルクスは人格的にはそれほどいい人間ではないかもしれないし、自分の人生設計には無頓着だったかもしれない。映画はそのあたりも遠慮なしに描き出す。
 しかしマルクスの評価はそういったことに左右されることはない。評価すべきはその理論であり著作であり、それらを確立した彼の人間エネルギーそのものである。若き日のマルクスは、権威や権力に屈せず、暴力さえもものともせずに、落ち着いた大きな声で自分の理論を主張する。その胆力と溢れ出すエネルギーは、生まれついたものとしか言いようがない。栴檀は双葉より芳し。偉人は若いころから偉大だったのである。
 役者陣は皆、達者である。特にマルクスとエンゲルスのそれぞれの妻役の女優は、ふたりとも品があって毅然としていて、一方で女らしさを存分に表現する。マルクスの妻を演じたビッキー・クリープスは5月26日に日本公開予定の「ファントム・スレッド」にも出演しており、鑑賞が楽しみである。


映画「The Square」(邦題「ザ・スクエア 思いやりの聖域」)

2018年05月01日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The Square」(邦題「ザ・スクエア 思いやりの聖域」)を観た。
 http://www.transformer.co.jp/m/thesquare/

 タイトルがサークルでなくてスクエアなのは、何か意味があるのかもしれない。英語のスクエアには四角四面で融通が利かない人というイメージがある。四角形には円にはない角があり、場合によってはボクシングよろしく、コーナーに追い詰められる。
 非常識なアイデアを実行した主人公が逃げ道を失って四方八方から叩かれる様子は愚かであり間抜けであるが、決して他人事とは思えない。あれはまさに、かつての自分ではないか。いや、もしかしたら現在の自分、或いは未来の自分かもしれない。
 主人公は自律の能力に欠けていて、小さな欲望が抑えられなかったり、くだらないプライドが傷ついただけでつい怒鳴ってしまったり、他人に責任を転嫁したりする。典型的な俗物そのものである。
 そんな俗物が社会の格差についてモノローグのように語り、富の再配分を解説する。苦しい言い訳にも聞こえるが、さすがにインテリゲンチャだけあって、言っていることは実に当を得ている。社会保障が充実しているイメージのスウェーデンで街の至るところにホームレスがいるのは、彼の言う通り、セーフティネットが機能していない可能性がある。

 主人公は救いようのない人物かもしれないが、映画は必ずしも彼を見捨てない。むしろ全力で彼を肯定しているようにさえ感じられる。
 スクエアという思考実験は炎上マーケティングによってよくも悪くも注目を浴びる。その結果、異端を排除しようとする精神構造が世論の中心になっていることが明らかになる。それはまさに、社会全体がスクエアな人々で満ち満ちていることの証左ではないか。