三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「由宇子の天秤」

2021年09月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「由宇子の天秤」を観た。
 
 上映前の舞台挨拶で春本雄二郎監督は「ストーリーを追わないでください」と言っていた。その通りの作品であった。
 
 瀧内公美は映画「彼女の生き方は間違いじゃない」や映画「裏アカ」を観て、ところどころで光る演技をする女優だと思った。本作品でも、冴えない場面は少しあったものの、凡その場面でリアリティのある演技をしていた。
 
 本作品で演じたヒロインの木下由宇子は、ドキュメンタリー監督及びインタビュアーとしていじめ自殺の真実に迫る映像を撮っていくが、いかにも浪花節的な精神性で、人を信じすぎるきらいがある。「私は誰の味方もしませんよ」と言いつつも、弱い人の味方という立ち位置で取材をする。弱い人はただ人権を蹂躙される正直者だと誤解しているのだ。本当は弱い人にも戦略があり、ときに嘘を吐くということを忘れている。
 テレビを主戦場とするなら、局の政治的な圧力も承知の上で、限界ギリギリの妥協点を探りながらの番組作りをしていかねばならない。海千山千のしたたかさが要求されるのだ。しかし由宇子は正論にこだわる。そのあたりの未熟さを瀧内公美はとても上手に演じ切ったと思う。
 凡そ人は喜怒哀楽の場面に遭遇したときは、先ずフリーズする。いきなり泣き出したり怒り出したりすることはない。目や耳から入ってきた情報を分析しているからだ。瀧内公美のフリーズする演技はなかなかのもので、とてもリアリティがあった。
 
 ある意味とっ散らかったストーリーの中で、由宇子に降りかかる災難は半端ではない。その全部を彼女は黙って引き受ける。そこに彼女の弱さがある。無視して、人を見捨ててしまう冷酷さがないと、ドキュメンタリー監督は務まらない。弱い人も嘘を吐く。
 ジャーナリストではない。ドキュメンタリー監督なのだ。自分の責任を棚に上げて、自分が生きていることさえも棚に上げて、超客観的な視点、所謂神の視点で映像を撮る。強者も弱者もともに突き放して、由宇子自身が言ったように、誰の味方もしない。そのために必要な冷酷さを身につけなければならない。自分や家族を守っているようでは、いつまでもちゃんとしたドキュメンタリーは撮れない。由宇子の天秤がちゃんとバランスを保つようになるまでには、もう少し時間が必要だ。そういうラストであった。

映画「アイダよ、何処へ?」

2021年09月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アイダよ、何処へ?」を観た。
 
 通訳として働く国連職員アイダを演じた女優はとても上手だ。自分の家族だけ助かればいいという、弁解の余地のない身勝手な母親を存分に演じ切った。
 
 重武装した集団を相手にすると、徒手空拳の上に何の訓練も受けていない素人は唯々諾々と従うしかない。たとえ人数で圧倒していても同じである。全員で押し寄せて武器を取り上げれば立場を逆転できる筈だが、多少の犠牲が出るのは間違いない。誰もその「多少の犠牲」になりたくないのだ。死の恐怖、怪我への怖れに打ち勝てず、人間の尊厳を放棄する。
 敵兵士から「セルビア軍兵士の前では立て」と激しく命じられると、長男はつい立ってしまう。普通の人の普通の反応だ。しかし長男にはかなり応えたようだ。どう考えても相手は人間のクズだ。クズに命じられて思わず立ってしまった自分の弱さに嫌気が差す。
 
 アイダの家族である三人の男たちは政治と軍事の状況に絶望して、こんな世の中に生きている意味はないと諦めているように見える。長男に至っては早く死んでしまいたいと願っているフシさえある。
 しかしアイダは諦めない。あらゆる手段に訴えてでも息子たちを生かそうと基地内を奔走する。どんな世の中でも生きて子孫を遺していく雌の本能なのだろうか。自分勝手に現場をかき乱す。
 
 現場の国連軍の目論見はわかりやすかった。スレブレニツァの人々を避難させて、町にやってくるセルビア兵を空爆で一掃しようというものだ。しかし国連本部は日本の役所と一緒で誰も責任を取ろうとしない。現場の国連軍が望んだ空爆は行なわれず、スレブレニツァはセルビア兵に占拠される。こうなっては軍事力では話にならない国連軍には手も足も出ない。アイダにかき乱されながらも事態の収拾を図る現場司令官の苦悩に強く共感した。
 かつて日本軍が南京に侵攻したときと同じように、セルビア兵は残虐の限りを尽くす。映画では描かれていないが、レイプや拷問は日常的に行なわれていたと類推できる。それが戦争だ。
 
 人類は愚かで、いつまでも暴力を捨て去ることが出来ない。互いに銃を向けたまま交渉の席につく。ほとんどヤクザの抗争である。暴力で他者を制圧することを覚えてしまうと、丸腰でいられなくなる。武器は強力であるほどいい。かくして武器の開発競争となり、核のエスカレーションとなる。
 
 急速に軍拡を進めている中国だが、経済危機に陥っている訳ではないから直ぐにも戦争がはじまることはない。
 しかし地政学的に米中関係で重要な立場の日本は、戦間期にこそ有意義な役割を果たさなければならない。にもかかわらず、対中戦略を強化するとか言って軍事予算の倍増を主張する右翼政治家がいて、しかもその女が総裁選に立つというバカな状況が生じている。軍拡は外交放棄と一緒だ。北朝鮮のニュースを見れば誰でもわかる。
 
 日本国憲法前文には「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と書かれている。丸腰で外国と対峙し、銃を突きつけられてもミサイルを向けられても、一歩も引かずに平和的解決を主張し続けることができる胆力のある政治家が、現在の日本にいるのだろうか。

映画「レミニセンス」

2021年09月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「レミニセンス」を観た。
 
 映画紹介にあるエージェントという言葉を誤解していた。アメリカ映画でエージェントと言えば、大抵はCIAその他の国家組織の現場工作員のことなので、本作品も近未来にあるなんらかの国家組織の話なのだろうと思っていた。地球温暖化が進行して、各地が水没しつつある世界で、国家間の争いか、巨大化した悪徳民間企業と国家の争いで活躍するエージェント。そんな想定をしていたのである。
 ところが本作品でヒュー・ジャックマンが演じたニックは、自営業の回想提供業者であり、客の回想(レミニセンス)を案内するエージェントだ。旅行代理店(トラベルエージェンシー)の代理人(エージェント)と殆んど同じである。簡単に言うと商売人である。イーサン・ハントとは大違いであった。
 つまり本作品は、国家組織のエージェントが世界中を舞台に八面六臂の活躍をする壮大なドラマではなく、商売人と客の切ないラブロマンスであると同時に、ミステリアスなヒロインの危険な過去に踏み込むことで主人公も危機にさらされるという、至って個人的なサスペンスである。
 地球温暖化に立ち向かって世界の平和を守る主人公を想定していただけに、激しく肩透かしを食った気がした。しかし最初からこぢんまりとしたストーリーだとわかって観れば悪くなかったと思う。
 
 世界各地が水没して、高台の地主が世界を支配するという設定や、回想するのに体温と同じお湯に横になるというアイデアは秀逸。雨のようなワイヤーディスプレイが回想を立体的に映像化するのも観ていて解りやすい。
 レベッカ・ファーガソンが演じたヒロインのメイの登場シーンは、女優を美しく撮ることに長けているハリウッド映画らしさに感心したが、あんまり顔をドアップにするのはよろしくない。細部まで鮮明に映し出すIMAXのスクリーンでは美人のファーガソンといえどもアップに耐えられないと感じられた。
 暴力シーンが何度か登場するが、必然性に欠ける憾みがある。なんでもドンパチすれば観客が喜ぶと思ったら大間違いで、本作品のようにいずれ全世界が水没してしまうという絶望的な状況では、どんな人間も哲学的になるはずで、ニックと悪役の哲学的な会話で虚無の雰囲気を出してほしかった。希望のない状況では感情は内に向かう筈で、暴力とは正反対の精神性が支配的となる。そのあたりの世界観の構築がまったくできていなかった。
 
 という訳で世界観を考えれば褒められた作品ではないが、孤独な中年男の最後の恋物語という面では、センチメンタリズムに訴えかけるところがある。男はいくつになっても少年の魂を持っている。分別だけが人生ではない。世界の終わりが迫っていても、目の前の女を追いかける。人生はそんなものだ。中年男ニックに、妙な愛おしさを感じた。

映画「シャン・チー テン・リングスの伝説」

2021年09月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シャン・チー テン・リングスの伝説」を観た。
 
 ラストシーンが洒落ている。世界を救ったヒーローも、バーの片隅で酒を飲みながら世間話をしていては、誰もヒーローだとは思ってくれないだろう。ヒーローが世界から称賛を浴びるには、その前に情報の伝播が不可欠だということだ。それにしてもキャプテン・マーベルは相変わらず忙しそうである。
 
 アクションもCGも素晴らしく、とても楽しめたのだが、一点だけ気になるところがあった。それは、マカオなのに広東語ではなく普通話(プトンホァ)で話をしていた点だ。「三日後に戻ってくる(三天後我回来=サンティエンホーウォホイライ)」の発音や、広東語なら「無問題(モーマンタイ)」と言うところを「没問題(メイウェンティー)」と普通話で言っていたなどである。
 広東語はジャッキー・チェンの映画などでお馴染みの、賑やかな発音の言語だから、本作品のように静かに話す場面の多い映画には不向きだと判断したのかもしれないが、であれば舞台をマカオにしなければよかった。マカオのシーンで広東語が聞けるのかと少し期待していただけに、ちょっぴり残念だった。
 
 本作品はMARVEL作品である。ということはシャン・チーがアベンジャーズに加わる可能性が大だ。クライマックスの場面でシャン・チーが銀の龍の背に乗って登場するところを見てみたい気がする。中島みゆきはあまり喜ばないと思うけど。
 戦いの場所はK2の聳えるカラコルム山脈あたりがいい。リングも進化して光速に近い速さと、月の大きさにまで巨大化する能力を持ってほしい。10個もあれば引力で海の水を空中に吸い上げられるだろう。またはブラックホールのようにスプーン一杯の質量が何十トンにもなって近づいたものを何でも引き寄せて素粒子単位に分解してしまうか。
 
 そうなればキャプテン・マーベルの出番はない。ブリー・ラーソンにはアベンジャーズのドタバタ映画ではなく、その繊細な演技力を生かした文学作品に出てほしいのだ。

映画「ムーンライト・シャドウ」

2021年09月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ムーンライト・シャドウ」を観た。
 
 美しい作品である。甲子園で活躍した上宮高校の校歌「月影」を思い出した。「月影のいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞ澄む」という歌詞は、日本一短い校歌として知られている。
 
 主人公のさつきを演じた小松菜奈の表情がいい。この人は全体にスリムだが、長い脚にほどよく筋肉がついた素晴らしいバランスの身体をしていて、映画の中で何度も走るシーンが出てきたのも頷ける。ヨウ監督の趣味もあるのかもしれないが、小松菜奈の身体の美しさは、健康は即ち美しさであり、即ち善であるということを印象づける。
 宮沢氷魚の演じたひとしの言葉には一片の毒もなく、これほど心の美しい慈悲に満ちた青年がいることは奇跡と言っていい。同じように美しい心と美しい身体の持ち主であるさつきと惹かれあったのは当然だ。
 ひとしとの時間を語るさつきは、ひとしがくれた愛と青春に胸が一杯になって涙がとめどなくあふれる。小松菜奈の渾身の演技である。どちらかと言えばクールなイメージの彼女だが、これほど情緒のある優しい表情ができることに感動した。
 台詞の少ない作品だが、表情や行動から読み取れる青春の喜びと悲哀、それに身体から放たれるエネルギーと身体に取り込まれるエネルギーが立体的な感覚として伝わってくる。さつきが食事をするシーンは特に印象的で、食べ物を口に入れて、咀嚼するのだが、食べ物をちゃんと味わい、香りを楽しんでいるのがわかる。
 人間は楽しいときは意外と無表情だ。食事のときもセックスのときも大抵は無表情である。しかし楽しい。本作品にはこういうシーンが多く、戸惑う観客もいるかもしれない。笑顔を浮かべることなく楽しさを伝えた小松菜奈の演技は大したものだと思う。
 
 さて冒頭に紹介した法然上人の和歌は、仏の慈悲が届かない場所はないけれども、という上の句に、見ようとしない人には見えず、見ようとする人にははっきりと見える、という下の句が対応する。原作者の吉本ばなながこの和歌を意識していたのかは不明だが、本作品はこの和歌に見事に呼応している。見ようとしない人には何も見えないのだ。

映画「浜の朝日の嘘つきどもと」

2021年09月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「浜の朝日の嘘つきどもと」を観た。
 
 素直に感動する作品である。場面転換にやや捻り過ぎの感があり、もう少し素直に時系列に沿っていた方がよかった気もするが、しかし全体としては全然悪くない。タナダユキ監督の演出は人間愛に溢れている一方で、人間を突き放してみている部分もあり、自然主義的なリアリティを感じる。観ていて疲れないのだ。
 どちらかと言えば小柄な高畑充希だが、女優としては無二の存在感がある。本作品でもその存在感を遺憾なく発揮して、落語家もお笑い芸人もずんずんと引っ張っていく。彼女の放つエネルギーはそれはもう大変なもので、変な喩えで恐縮だが「歩く原子炉」みたいだ。主人公の浜野あさひは、感動的な台詞をぽつりぽつりと話す。それまでの人生の総熱量のこもった思い入れのある話しぶりに思わず涙がこぼれた。高畑充希は最高だ。
 高畑充希に引きずられるように、大久保佳代子が意外なほどいい演技をしている。自転車を止めて振り返った表情は、どういう訳か、とても美人だった。惚れはしないけど。
 70歳くらいに見える柳家喬太郎だが、演じているのは57歳の森田支配人である。あとで柳家喬太郎自身も57歳だと知って少し驚いた。落語家は若い頃から歳よりも老けて見えがちだが、歳を取っても歳よりも老けて見えがちなのだろうか。巷では歳よりも若く見られることがいいことみたいに思われているが、この人を見る限り、老けて見られるのも悪くないと思った。
 光石研はもう何でもできる名バイプレイヤーだ。本作品では主人公の父親を演じるが、これが渋くてとてもいい。お笑いコンビのクールポコの「男は黙って鳥羽一郎」というギャグを思い出した。
 
 コロナ禍で「不要不急」という言葉が市民権を得たが、何をもって不要不急とするのかは未だにはっきりしない。対義語も「必要火急」や「有用有急」など、いくつか候補がある。東京オリンピックが既に税金をたくさん投入している必要火急のイベントだったのだとすれば、映画も製作にお金をたくさん投入している訳だから、必要火急の興行ということになるはずである。
 それに人間はパンのみにて生きるにあらずだ。映画館や美術館、博物館、図書館、芝居の劇場、コンサートホール、それに本屋が街から消えてしまったら、人間はあっという間に原始時代に逆戻りである。
 本作品が提示した、街に映画館は必要なのだというテーゼは、反知性主義が蔓延している政府与党の対極にある。何も考えずにヘーコラとボスに従うだけの自民党の議員たちは、サル山のボス争いをしているだけだ。人間はサルではないし、国家はサル山ではないということを知らないのではないか。総裁選はどう考えても不要不急のサル芝居に見える。

映画「先生、私の隣に座っていただけませんか?」

2021年09月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「先生、私の隣に座っていただけませんか?」を観た。
 
 クミコが歌う「わが麗しき恋物語」の歌詞には次の一節がある。
 
 五年がたったら あたしはやめてた 煙草をまたはじめ
 あなたの浮気が 七回目数え あたしも三回目
 視線をそらして 会話も減ったけど どこでもそんなものでしょ
 人生ってそうよ 退屈だったって 思い出しながら
 (作詞:覚和歌子)
 
 作詞作曲のバルバラによる歌詞はちょっと違っていて、フランス語だからここでは紹介しないが、愛の遍歴を経て初恋の人のもとに戻るという内容だ。覚和歌子さんの詞は完全にオリジナルで、しかし原詞の内容から遠く離れてはおらず、聞いた人をもれなく感動させる詞になっている。まさに職人芸だ。
 
 シャーリーンが歌った「愛はかげろうのように(I’ve never been to me)」にも同じような歌詞がある。英語なので紹介しないが、様々な場所に行ったり、いろいろな愛の遍歴を経たりして、最後は現実の自分に戻ってくるという話である。
 いずれの歌も人生の深みを上手に表現していて、特にクミコの歌はコンサートで何度も聞いたが、聞く度に涙が出る。
 
 不倫は文化だというつもりはまったくないが、そもそも浮気の何がいけないのか、当方にはよく理解できない。許すとか許さないとか、浮気された側は被害者なのだろうか。むしろ、個人の所有欲によって他者の行動を束縛することが憲法上、許されることなのかという疑問のほうが先に立つ。不倫を禁止する法律も条例もないのに、離婚の調停や裁判では不倫した側が一方的に非難され、不利な条件を無理やり飲まされる。
 
 本作品は不倫は悪だという価値観がなければ成立しない。不倫された妻は被害者意識の怒りに燃え、不倫した夫は罪悪感に顫える。夫の方は経済的に妻に依存しているから危機感もある。妻は夫を翻弄し、夫はまんまと翻弄される。それだけの話である。見終わってとても不愉快だった。黒木華や柄本佑の無駄使いだ。この作品には人生の深みはない。
 
 私見だが、不倫専門の私立探偵や離婚専門の弁護士がいることを考えれば、世の中は不倫で溢れている筈だ。ラブホがやっていけるのは、セックスを家庭に持ち込まない人がたくさんいるからだろう。週刊誌にはどうすれば不倫が妻にバレないかとか、恐るべし女の勘だとかいった記事が溢れている。ニーズがあるから記事があるのだ。不倫は悪いことだからコソコソとやるものだという共通認識がある訳だ。
 不倫を咎めないパラダイムが浸透すれば、気持ちが楽になる人がたくさんいるだろうし、食を楽しむように性を愉しむことのできる社会になるだろう。いまの窮屈な社会よりもよほどそちらのほうがいい気がする。

映画「Adam」(邦題「モロッコ、彼女たちの朝」)

2021年09月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Adam」(邦題「モロッコ、彼女たちの朝」)を観た。
 
 仏教の最古の経典のひとつとされる「ブッダのことば スッタニパータ」(中村元訳、岩波文庫)の中に「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない」と書かれている。
 本作品の臨月に近い妊婦サミアは、そのことを本能的に知っていたのだろう。名前をつければ即ち自分の子となり、乳をあげれば即ち母となる。そして離れ難い愛著が生じる。産んですぐに養子に出せば、愛著が生じる前に別離ができる。産んだ子の存在を忘れ、産んだこと自体も忘れ去れば、安楽な日々が待っているだろう。
 一方、サミアを泊めてくれているアブラは、事故で亡くなった夫の面影を忘れることができず、悲しみから抜け出せずにいる。サミアはそのことを敏感に感じ取り、夫の楽しかった思い出の歌を無理やりアブラに聞かせ、夫の悲しい思い出を楽しい思い出に塗り替えることで、愛著から脱して未来に向かわせようとする。
 しかし死んだ夫の思い出と生れたばかりの赤ん坊に対する愛著は別のものである。無垢で弱くて親だけが頼りの赤ん坊は、母親にとって狂おしいほど愛しい存在だ。抱えて乳をあげれば生命の絆に至福の喜びを感じる。そうなると、もう離れることなどできない。サミアは母の本能を意思の力で押さえつけることができると信じていたようだ。
 アブラはサミアよりも年上で、世の中を知っている。赤ん坊を人買いに売れば、数年後には性的なおもちゃにされて商売道具になることが目に見えている。そんなことは絶対に駄目だと、今度はアブラがサミアを諭す。アブラはもともと、妊婦が街角で顫えているのを放っておけない温かい心の持ち主なのだ。
 
 本作品は二人の女性が互いの苦しみを理解し合い、手を差し伸べ合うヒューマンドラマである。モロッコ映画を観た記憶があまりないが、本作品は人間愛に満ちた優しい映画だと思う。
 現実では、産んだばかりの子供を母親がゴミ箱に捨てたという事件は世界中で起きている。育てるのが経済的に無理か、男と過ごすのに赤ん坊は邪魔というのが理由の大半だ。名前をつけたり乳をあげたりする前に捨てているのだろう。
 カサブランカの街の様子は、ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの映画とは随分違って見えた。北京の胡同みたいに路地が入り組んでいる。藤田ニコルによく似た子役が可愛い。小麦粉の件は解決を見なかったがどうなったのだろうか。
 
 原題は「Adam」である。サミアは最初から赤ん坊を人買いに売り渡す気はなかったようだ。

映画「ミス・マルクス」

2021年09月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ミス・マルクス」を観た。
 
 高校生の頃、5月5日生まれの友人がカール・マルクスと誕生日が同じだと話していたのを思い出す。マルクスは1818年にドイツで生まれ、1883年にロンドンで死んだ。同時代の偉人に1821年に生まれて1881年に死んだドストエフスキーがいる。音楽家のリストやショパンもマルクスと同時代の人である。
 本作品では幼い頃トゥッシーと呼ばれていた主人公エリノア・マルクスの生涯が音楽とともに描かれる。ロックは不案内なのでよくわからなかったが、クラシック曲はリストのラ・カンパネラ、ショパンの幻想即興曲、そしてショパンの英雄ポロネーズが壮大に使われていたと思う。
 
 エリノアは偉大な父カール・マルクスの遺稿を整理し、その思想を受け継いで労働者と女性の権利を守ろうとしたようだが、彼女の演説は何故か空疎に聞こえ、心に響いてくるものが何もなかった。父が母に宛てた手紙を読んだシーンだけが心に残った。
 2017年のフランス映画「Le jeune Karl Marx」(直訳「若き日のカール・マルクス」邦題「マルクス・エンゲルス」)のマルクス本人の論理はビシビシと刺さるものがあったのに、その娘であるエリノアの言葉がこうも空を切るのは何故だろうか。
 
 その理由は映画の後半で徐々に明らかになる。エリノア本人も認めていたように、彼女の心は父親に、そしてその亡き後はエドワード・エイヴリングに蹂躙されていた。それほど彼らの理論に傾倒していたということだ。尊敬はしているけど愛してはいない。相手も同じなのではないか。尊敬されているが愛されていない。
 男性なら世間の尊敬を集めることができればそれで満足だが、女性はそうはいかない。愛されなければ生きていけないのだ。愛に命をかけることはできるが、思想に命をかけることはできない。彼女の演説が空疎で心に響かなかった理由はそこにあると思う。そして、そこまで計算して演出した監督も、その演出に応えて演技した女優も見事である。
 
 19世紀は哲学でも文学でも音楽でも、沢山の巨人を輩出したが、その殆どが男性である。女性で思い浮かぶのはイギリスのブロンテ姉妹、そしてフランスのジョルジュ・サンドだ。ジョルジュ・サンドはフランス人らしく恋多き女性で、音楽家のリストやショパンとも付き合っていたらしい。本作品でリストやショパンの曲が盛大に使われていたのは何か関係があるのだろうか。
 いずれにしても、女性が生きづらかった時代である。エリノアが精神的に独立するには環境が向かなかったのであろう。子供を産んで母として慎ましく暮らすには視野が広すぎ、思想家として自立するには愛されることを望みすぎた。時代に引き裂かれた不幸な女性の典型だと思う。

映画「アナザーラウンド」

2021年09月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アナザーラウンド」を観た。
 
 以前、神主と書道の先生との三人で焼鳥屋で酒を飲んだことがある。二人は長い付き合いらしく、殆ど口を利かない。ただ黙ってビールを飲み、焼鳥を食べ、日本酒を酌み交わす。当方はまだ若輩だったが、特に居心地が悪いわけではなかったので、自分から話題を切り出したりせず、一緒に黙って飲んでいた。
 1時間半ほどもしただろうか。書道の先生が「ああ、酔うた」とボソっと言った。そしてまた同じようなペースで静かに飲みはじめたが、ほどなくして散会となった。このときの焼鳥と日本酒ほど美味しいと思ったことはない。若山牧水の「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」という歌が心に浮かんだ。
 
 本作品は4人の高校教師が普段のパッとしない生活から脱するために少量の酒を飲む実験をするという話である。うまくいくこともあるが、酒に頼っていればいずれは破綻するのは目に見えている。そのアホさ加減を笑ってばかりもいられない。この作品には悪意にも似た不穏な思想が底流にある。
 不穏な空気は音楽の教師が生徒に合唱させるシーンから感じはじめた。合唱するのがデンマーク礼賛の国家主義そのものの歌なのだ。加えて、酒を飲んだときの盛り上がり方が、日本で言えば大学生程度のノリである。コロナ禍の前までのハロウィンや大晦日やサッカーワールドカップのときの渋谷の夜みたいだ。あそこにいたのは二十歳そこそこの若者だけである。
 いい大人が酒を飲んで騒いではいけない。騒ぐのは軍隊や体育会の若者に見られるように、全体主義、国家主義のノリがあるからである。国家主義の歌を歌わせる精神性と、酒を飲んでみんなで騒ぐ精神性は、根っこは同じである。本作品が高評価を受けているとすれば、デンマークはヨーロッパでも危険な国のひとつだと言えると思う。
 
 本作品の飲み方と、冒頭に述べた神主と書道の先生の飲み方は対照的だ。若いときは酔っぱらえればいいと酒を飲む。本作品と同じである。しかし大人は違う。料理を食べるときには料理人に感謝し、そして素材を提供した農家や漁師に思いを馳せる。酒を飲むときには造り酒屋の努力に感謝し、酒米を育てた農家に感謝する。
 想像力がなければ他人を思いやれない。思いやりがなければ残るのは憎悪だけだ。そして憎悪は戦争に繋がっていく。ケタケタと笑う観客がたくさんいたが、当方は終始もやもやとした不安を覚えながら鑑賞した。
 
 デンマークの国民が想像力に乏しい国家主義者ばかりではないと信じたい。大多数は当方と同じように酒を愛し、酒を味わい、状況を愉しみながら飲んでいるに違いないと願う。酒はしづかに飲むべかりけり、なのだ。