65回目の原爆忌…核拡散、長崎から警告 2010年8月9日 読売夕刊
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100809-OYT1T00170.htm
長崎は9日、65回目の原爆忌を迎えた。
長崎市松山町の平和公園では、市主催の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が開かれ、被爆者や全国の遺族代表、菅首相ら約6000人が犠牲者を悼んだ。核保有国の英仏や、核保有が確実視されているイスラエルの代表が初めて出席し、過去最多の32か国が参列。広島平和記念式典には参加し、長崎市も招聘(しょうへい)していた米国は欠席した。
式典では、被爆者代表や遺族、初めて参列した国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長らが献花。原爆が投下された午前11時2分に「長崎の鐘」が鳴り響き、参列者らが1分間の黙とうをささげた。
田上(たうえ)富久市長は長崎平和宣言で「核保有国が核軍縮に取り組まなければ、世界は核拡散の危機に直面する」と警告し、国連の潘基文(パンギムン)事務総長らが提唱する「核兵器禁止条約」への支持を表明した。また、「核保有国の指導者の皆さん、『核兵器のない世界』への努力を踏みにじらないでください」と訴え、5月に開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議で核軍縮の期限設定に反対した米露英仏中の核保有5か国の姿勢を危惧(きぐ)した。
日本政府に対しては、NPTに未加盟のインドの原子力技術開発に協力する協定の交渉を「到底、容認できない」と批判。非核三原則を法制化し、米国の「核の傘」に頼らない安全保障を実現するため、日本と朝鮮半島の非核化を目指すよう求めた。
菅首相はあいさつで、各国首脳に核軍縮・核不拡散の重要性を訴え、非核三原則を堅持することを約束。市民が被爆遺構などを案内する「平和案内人」など長崎市での取り組みを紹介し、「核軍縮・核不拡散に向けた教育活動を世界に広げるため、被爆者の体験談を外国語に翻訳し、紹介する取り組みを進めたい」などと述べた。
式典では、この1年間に亡くなったり、死亡が確認されたりした3114人分の長崎原爆死没者名簿3冊が平和祈念像前の奉安箱に納められた。名簿は計153冊、記載者数は15万2276人になった。
浦上天主堂、追悼ミサ「平和になってほしい」 2010年8月9日 読売夕刊
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100809-OYT1T00274.htm
原爆犠牲者追悼のため、浦上天主堂のミサに集まった人たち(9日朝、長崎市で)=貞末ヒトミ撮影 長崎原爆の犠牲者を追悼するミサが9日午前6時から、長崎市本尾町の浦上天主堂で行われ、カトリック信者ら約300人が手を合わせて祈りをささげた。
浦上天主堂は原爆で崩れ落ち、浦上地区の信者約8500人が犠牲になったとされる。中尾直通(なおみち)助任神父(30)は「原爆の悲しみや憎しみをそのままで終わらせず、平和を願う心、人を愛する気持ちに変えよう」などと説いた。父と姉を亡くし、自身も被爆した長崎市江里町の松尾ヨシコさん(78)は「亡くなった家族のことを思い、ただただ、平和になってほしいと祈りました」と話した。
核廃絶長崎の祈り…英仏出席に望み、米は姿なく 2010年8月9日 読売夕刊
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100809-OYT1T00283.htm
被爆から65年を迎えた9日、長崎は犠牲者への深い祈りに包まれた。
核保有国の英仏代表が初めて平和祈念式典に参列する一方、原爆を投下した米国代表の姿はなく、被爆者の間には、核兵器廃絶への期待感と失望が交錯した。惨状を知る被爆者が高齢化するなか、幼かったため「あの日」を覚えていない被爆者たちは悲劇を伝える道筋を模索し始めた。
英仏両国の代表は、平和祈念像前に設けられた特別来賓席の前から6列目に着席。真剣な表情で、身を乗り出すようにして式典を見守った。
長崎市は、英仏に対して被爆60年に当たる2005年から招聘(しょうへい)を続けてきた。約20年間、平和行政に携わった元市職員の田崎昇さん(66)は、平和祈念式典に英仏両国代表が初出席したことについて「両国で核兵器廃絶を望む国民が多数になりつつあることの表れ」と感慨深く受け止めた。
被爆者でもある田崎さんは、退職する2003年3月まで7年間、初代平和推進室長を務めた。1996年には伊藤一長市長(当時)と平和市長会議の関連で訪れたスイス・ジュネーブで、核保有国の国連軍縮大使を回った。大使たちは被爆者の苦しみに共感は示すものの、必ず「核兵器は抑止力として必要」と続けた。伊藤市長が「被爆の実相を分かってない。核保有国の壁は厚い」と漏らしたのを忘れられない。
広島の平和記念式典には、ルース駐日大使が米代表として出席したが、長崎に代表は派遣されなかった。昨年、オバマ大統領の来訪を求める署名活動を行った田崎さんは「なぜ長崎には来ないんだ」と憤る。
被爆者に関するドキュメンタリー作品を製作したこともある映画監督デイビッド・ロスハウザーさん(米国)は「オバマ米大統領が出席していれば、違っていただろう。プラハ演説を行った大統領は核廃絶を行動で示し、核兵器を使用した国として、世界をリードするべきだ」と話した。
一方で、05年はロシア、ウクライナ2か国だった海外からの参列者数は今年30を超えた。田崎さんは「被爆地で原爆被害のすさまじさを知り、絶対に核兵器を使ってはならないと感じたはず。英仏という核保有国の一角が動けば、米国へのプレッシャーにもなる」と期待した。
式典に参列した被爆者の、榊(さかき)フデさん(93)(長崎市城山町)は、原爆で多くの友人を亡くした。「英仏の参列は、(核兵器廃絶のための)大切な一歩。生きているうちに核のない世の中になるよう、核保有国は尽力してほしい」と願った。
祈念式典欠席で米国「大使の日程調整つかず」 2010年8月9日 読売夕刊
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100809-OYT1T00293.htm
祈念式典に米代表が欠席したことについて、駐日米大使館の担当者は9日、「ルース米大使のスケジュールの調整がつかなかった」との見解を出した。
大使は事前に長崎市の田上富久市長に電話をして「今回は行けないが、いつかは平和公園などを訪問したいと思っている」などと伝えたという。
「何で来ないの」「失礼だ」=米国、平和式典欠席で―長崎の被爆者 2010年8月9日 時事通信
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_nagasaki__20100809_2/story/100809jijiX452/
長崎原爆忌の9日、米政府代表が広島市の平和式典には出席したものの、長崎市の式典には欠席したことについて、長崎の被爆者からは怒りと落胆の声が相次いだ。
16歳の時、爆心地から約1.8キロの地点で被爆した佐賀県の馬場和敏さん(81)は「何で来ないの。2発目の原爆を落とした長崎にも来て、被爆の実相を直接目にしないと。米国は一番来ないといけない国だ」とまくしたてた。
同様に式典に参加した正林邦子さん(68)も、15歳の時から原爆症とみられる症状で苦しんできた。「広島に比べて、長崎を下に見ていると考えてしまう。しゃくに障りますよね」と憤った。
長崎原爆被災者協議会の谷口稜曄会長(81)は「米国は失礼だと思う。原爆を投下した国は責任を負わなければならない。長崎に来て謝罪してほしかった」と肩を落とした。
長崎原爆遺族会の正林克記会長(71)は「広島に来たことは評価できる。ただ、広島と長崎の被爆者は一体であることを理解してほしい」と、やり切れない表情で話した。
米国大使館の報道担当者は「招待状は受け取ったが、スケジュールの関係で行けないと返答した」としている。
受け継ぐ祈り「万灯流し」、長崎・浦上川に 2010年8月10日 読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100809-OYT1T00706.htm
水を求めながら息絶えた原爆犠牲者を追悼する「万灯流し」が9日夜、65回目の原爆忌を迎えた長崎市の浦上川で行われた。
戦後間もない頃、被爆者の間で始まり、地元自治会や小中学生らが受け継いでいる。
被爆者の遺族らが平和への思いなどを書いた半紙をはり付け、ろうそくに灯をともした約1200個の万灯を川に流したり、川辺に並べたりした。
6日の広島に続き、9日の長崎でも65回目の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開かれました。
核兵器の廃絶と一言に言っても 理想論はともかく、現実には政治的駆け引きの問題などもあり中々難しいのは十分承知の上で、それでもこの悲劇を伝え続けることで1人でも多くの人が、この兵器が絶対に使用してはならない(使用すれば巡り巡って今度は自分達もその被害を受ける)最終兵器だということを知ってもらいたいと思いますし、まだまだ『抑止力として必要』といった考え方が強いとはいえ、それでも英仏という大国がこの意味を考える上で出席したことに期待を持ちたいと思います。
また米国にも広島同様(片方に参加したから十分と考えるのではなく)双方に参加することで、この悲劇に対する理解というものをより深めて欲しかったと思うのですが、この式典が単なる儀式ではなく、世界に平和を訴えるメッセージとして1人でも多く世界の人に伝わることを願ってやみません。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100809-OYT1T00170.htm
長崎は9日、65回目の原爆忌を迎えた。
長崎市松山町の平和公園では、市主催の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が開かれ、被爆者や全国の遺族代表、菅首相ら約6000人が犠牲者を悼んだ。核保有国の英仏や、核保有が確実視されているイスラエルの代表が初めて出席し、過去最多の32か国が参列。広島平和記念式典には参加し、長崎市も招聘(しょうへい)していた米国は欠席した。
式典では、被爆者代表や遺族、初めて参列した国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長らが献花。原爆が投下された午前11時2分に「長崎の鐘」が鳴り響き、参列者らが1分間の黙とうをささげた。
田上(たうえ)富久市長は長崎平和宣言で「核保有国が核軍縮に取り組まなければ、世界は核拡散の危機に直面する」と警告し、国連の潘基文(パンギムン)事務総長らが提唱する「核兵器禁止条約」への支持を表明した。また、「核保有国の指導者の皆さん、『核兵器のない世界』への努力を踏みにじらないでください」と訴え、5月に開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議で核軍縮の期限設定に反対した米露英仏中の核保有5か国の姿勢を危惧(きぐ)した。
日本政府に対しては、NPTに未加盟のインドの原子力技術開発に協力する協定の交渉を「到底、容認できない」と批判。非核三原則を法制化し、米国の「核の傘」に頼らない安全保障を実現するため、日本と朝鮮半島の非核化を目指すよう求めた。
菅首相はあいさつで、各国首脳に核軍縮・核不拡散の重要性を訴え、非核三原則を堅持することを約束。市民が被爆遺構などを案内する「平和案内人」など長崎市での取り組みを紹介し、「核軍縮・核不拡散に向けた教育活動を世界に広げるため、被爆者の体験談を外国語に翻訳し、紹介する取り組みを進めたい」などと述べた。
式典では、この1年間に亡くなったり、死亡が確認されたりした3114人分の長崎原爆死没者名簿3冊が平和祈念像前の奉安箱に納められた。名簿は計153冊、記載者数は15万2276人になった。
浦上天主堂、追悼ミサ「平和になってほしい」 2010年8月9日 読売夕刊
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100809-OYT1T00274.htm
原爆犠牲者追悼のため、浦上天主堂のミサに集まった人たち(9日朝、長崎市で)=貞末ヒトミ撮影 長崎原爆の犠牲者を追悼するミサが9日午前6時から、長崎市本尾町の浦上天主堂で行われ、カトリック信者ら約300人が手を合わせて祈りをささげた。
浦上天主堂は原爆で崩れ落ち、浦上地区の信者約8500人が犠牲になったとされる。中尾直通(なおみち)助任神父(30)は「原爆の悲しみや憎しみをそのままで終わらせず、平和を願う心、人を愛する気持ちに変えよう」などと説いた。父と姉を亡くし、自身も被爆した長崎市江里町の松尾ヨシコさん(78)は「亡くなった家族のことを思い、ただただ、平和になってほしいと祈りました」と話した。
核廃絶長崎の祈り…英仏出席に望み、米は姿なく 2010年8月9日 読売夕刊
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100809-OYT1T00283.htm
被爆から65年を迎えた9日、長崎は犠牲者への深い祈りに包まれた。
核保有国の英仏代表が初めて平和祈念式典に参列する一方、原爆を投下した米国代表の姿はなく、被爆者の間には、核兵器廃絶への期待感と失望が交錯した。惨状を知る被爆者が高齢化するなか、幼かったため「あの日」を覚えていない被爆者たちは悲劇を伝える道筋を模索し始めた。
英仏両国の代表は、平和祈念像前に設けられた特別来賓席の前から6列目に着席。真剣な表情で、身を乗り出すようにして式典を見守った。
長崎市は、英仏に対して被爆60年に当たる2005年から招聘(しょうへい)を続けてきた。約20年間、平和行政に携わった元市職員の田崎昇さん(66)は、平和祈念式典に英仏両国代表が初出席したことについて「両国で核兵器廃絶を望む国民が多数になりつつあることの表れ」と感慨深く受け止めた。
被爆者でもある田崎さんは、退職する2003年3月まで7年間、初代平和推進室長を務めた。1996年には伊藤一長市長(当時)と平和市長会議の関連で訪れたスイス・ジュネーブで、核保有国の国連軍縮大使を回った。大使たちは被爆者の苦しみに共感は示すものの、必ず「核兵器は抑止力として必要」と続けた。伊藤市長が「被爆の実相を分かってない。核保有国の壁は厚い」と漏らしたのを忘れられない。
広島の平和記念式典には、ルース駐日大使が米代表として出席したが、長崎に代表は派遣されなかった。昨年、オバマ大統領の来訪を求める署名活動を行った田崎さんは「なぜ長崎には来ないんだ」と憤る。
被爆者に関するドキュメンタリー作品を製作したこともある映画監督デイビッド・ロスハウザーさん(米国)は「オバマ米大統領が出席していれば、違っていただろう。プラハ演説を行った大統領は核廃絶を行動で示し、核兵器を使用した国として、世界をリードするべきだ」と話した。
一方で、05年はロシア、ウクライナ2か国だった海外からの参列者数は今年30を超えた。田崎さんは「被爆地で原爆被害のすさまじさを知り、絶対に核兵器を使ってはならないと感じたはず。英仏という核保有国の一角が動けば、米国へのプレッシャーにもなる」と期待した。
式典に参列した被爆者の、榊(さかき)フデさん(93)(長崎市城山町)は、原爆で多くの友人を亡くした。「英仏の参列は、(核兵器廃絶のための)大切な一歩。生きているうちに核のない世の中になるよう、核保有国は尽力してほしい」と願った。
祈念式典欠席で米国「大使の日程調整つかず」 2010年8月9日 読売夕刊
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100809-OYT1T00293.htm
祈念式典に米代表が欠席したことについて、駐日米大使館の担当者は9日、「ルース米大使のスケジュールの調整がつかなかった」との見解を出した。
大使は事前に長崎市の田上富久市長に電話をして「今回は行けないが、いつかは平和公園などを訪問したいと思っている」などと伝えたという。
「何で来ないの」「失礼だ」=米国、平和式典欠席で―長崎の被爆者 2010年8月9日 時事通信
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_nagasaki__20100809_2/story/100809jijiX452/
長崎原爆忌の9日、米政府代表が広島市の平和式典には出席したものの、長崎市の式典には欠席したことについて、長崎の被爆者からは怒りと落胆の声が相次いだ。
16歳の時、爆心地から約1.8キロの地点で被爆した佐賀県の馬場和敏さん(81)は「何で来ないの。2発目の原爆を落とした長崎にも来て、被爆の実相を直接目にしないと。米国は一番来ないといけない国だ」とまくしたてた。
同様に式典に参加した正林邦子さん(68)も、15歳の時から原爆症とみられる症状で苦しんできた。「広島に比べて、長崎を下に見ていると考えてしまう。しゃくに障りますよね」と憤った。
長崎原爆被災者協議会の谷口稜曄会長(81)は「米国は失礼だと思う。原爆を投下した国は責任を負わなければならない。長崎に来て謝罪してほしかった」と肩を落とした。
長崎原爆遺族会の正林克記会長(71)は「広島に来たことは評価できる。ただ、広島と長崎の被爆者は一体であることを理解してほしい」と、やり切れない表情で話した。
米国大使館の報道担当者は「招待状は受け取ったが、スケジュールの関係で行けないと返答した」としている。
受け継ぐ祈り「万灯流し」、長崎・浦上川に 2010年8月10日 読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100809-OYT1T00706.htm
水を求めながら息絶えた原爆犠牲者を追悼する「万灯流し」が9日夜、65回目の原爆忌を迎えた長崎市の浦上川で行われた。
戦後間もない頃、被爆者の間で始まり、地元自治会や小中学生らが受け継いでいる。
被爆者の遺族らが平和への思いなどを書いた半紙をはり付け、ろうそくに灯をともした約1200個の万灯を川に流したり、川辺に並べたりした。
6日の広島に続き、9日の長崎でも65回目の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開かれました。
核兵器の廃絶と一言に言っても 理想論はともかく、現実には政治的駆け引きの問題などもあり中々難しいのは十分承知の上で、それでもこの悲劇を伝え続けることで1人でも多くの人が、この兵器が絶対に使用してはならない(使用すれば巡り巡って今度は自分達もその被害を受ける)最終兵器だということを知ってもらいたいと思いますし、まだまだ『抑止力として必要』といった考え方が強いとはいえ、それでも英仏という大国がこの意味を考える上で出席したことに期待を持ちたいと思います。
また米国にも広島同様(片方に参加したから十分と考えるのではなく)双方に参加することで、この悲劇に対する理解というものをより深めて欲しかったと思うのですが、この式典が単なる儀式ではなく、世界に平和を訴えるメッセージとして1人でも多く世界の人に伝わることを願ってやみません。
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