草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

政治が今なすべきは国民に信を問うこと

2010年08月14日 | 政局

 民主党政権が追い詰められて、菅直人首相が退陣するような事態になれば、とんでもないことになると脅かしているのが、現在の日本のマスコミである。サッサと解散総選挙をやってもらって、そこで安定政権をつくればいいのに、「政権交代」「政権交代」と昨年あれだけ騒いだので、内心忸怩たる思いがあって、未練たっぷりなのだろう。しかし、それにしても、菅直人首相を始めとする民主党のお歴々は、あまりにもぶざまだ。菅首相は、自分の点数を上げるために、左派向けのリップサービスとパフォーマンに務めているが、政治感覚のなさは尋常ではない。仙谷由人官房長官が言いだしっぺの韓国への補償問題にしても、スンナリと収まるような代物ではない。そこにまた菅談話が続いたわけだから、責任ある政治家というよりも、単なる口舌の徒でしかない。脱官僚にしても、菅首相には昔の面影はどこにもない。「官僚は国民を信じていない」(『日本大転換』)とあれだけ官僚を罵倒していたのに、今では手玉に取られて、財務官僚の言いなりである。先の参議院選挙の際の消費税発言にしても、裏で糸を引いていたのは財務省なのである。民主党が政権を手にするためには、ある種の準備期間が必要だったのではなかろうか。統治能力のなさが、国民を不安にするからだ。「菅首相でも仕方がない」というあきらめが蔓延しているが、それでは日本の未来はなくなってしまう。一年に首相が何人交代しようとも、現在のような混乱が続いているのよりは、よっぽどましなのである。与党である民主党は、代表選の結果がどうあろうとも、早急に国民の審判を仰ぐべきだろう。政治的な閉塞感を打破するには、それ以外に道は残されていないからだ。

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仏教と違って死者を平等に祀る靖国神社

2010年08月14日 | 思想家

 中国や韓国の反発を恐れるあまり、菅内閣の閣僚は誰一人として靖国神社には参拝しないのだそうだ。それが思想信条によるものであるならば、いちゃもんをつけるつもりはないが、靖国神社への認識不足があるのではなかろうか。忘れてならないのは、そこに祀られているのは、大半が普通の国民であるということだ。しかも、祭神は246万6千余柱にのぼるのである。末木文美士が「戦死者という限定はあっても、まったく普通の死者を祀っているという点で、靖国神社は葬式仏教の果たしている役割を取り込んだものということができる」(『仏教VS倫理』)と書いているように、仏教が死者との関わりを敬遠しがちであったのに対して、神道は死者との関わりを重視した結果、靖国神社が誕生したのだという。しかも、仏教と違って戒名もなく、一兵卒からA級戦犯まで平等に扱われている。明治維新で賊軍の汚名を着せられた会津人などには、官軍側しか祀られていないという抵抗もあったが、昭和40年に境内に鎮霊社という末社が創建されたことで、そうした垣根も取り払われた。その時点から靖国神社は性格が大きく変わったともいわれる。靖国神社のことをまったく理解しないままに、死者との結びつきを大事にする日本人の信仰心を、平気で踏みにじる民主党政権を、このままにしておいてよいわけがない。

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