リベラルだか保守だかわからない論客に三浦瑠麗がいる。口からポンポン言葉が出てくるのにはびっくりしたが、ブログを読んで思ったのは、それほど底が深くないということだ。「今生陛下のご意思表明を受けて」の一文は、あまりにもお粗末であった。「いま、日本国憲法下では主権は国民にあります。しかし、明治憲法下では主権は天皇にありました」とあっさり書いてしまうのは、頭でっかちの優等生だからだろう▼そんな単純な憲法観で天皇陛下を云々すべきではないだろう。英語が喋られ、英語の本がたくさん読めても、日本という国の成り立ちや国柄に思いがいたらないから、そんな通り一遍の見方をするのだろう。明治憲法下でも天皇陛下は主権を行使されることはためらわれた。敗戦の御聖断はあくまでも意見を求められたからだ。立憲君主国家の象徴としての地位は戦後も一貫しているのである▼和辻哲郎は「文化概念としての天皇」を問題にすることで「日本のピープルは言語や歴史や風習やその他一切の文化活動において一つの文化共同体を形成して来た。このような文化共同体としての国民、あるいは民衆の統一、それを天皇が象徴するのである。日本の歴史を貫いて存する尊皇の伝統は、このような統一の自覚にほかならない」(『国民統合の象徴』)と主張した▼主権が国民にあるかどうかの議論は、日本の国柄にそもそもなじまないのである。だからこそ自民党も頭を痛めてしまったのだ。自らをエリートと思っている節が三浦にはある。名もなき国民にとって靖国がかけがえのない存在であることも理解できないだろう。弁が立つことと思想的な深みは別なのである。
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