草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

日本人が正気を取り戻さなければ「運命の氾濫」は阻止できない!

2017年04月10日 | 思想家

今さら騒いでも仕方がないが、日本人がお花畑であったがために、日本は危機に瀕しているのである。未だに自衛隊は国軍となっておらず、交戦権を否定した憲法9条第二項はそのままである。身体ごとぶつかった三島由紀夫を、狂人扱いにしたのは誰だったろうか。北朝鮮が核弾道ミサイルを東京に向けて発射すれば、死者はとんでもない数に達するだろう。北朝鮮が初めての核実験を行ったのは、平成18年10月のことであった。それから現在まで日本人は何の手も打ってこなかったのである▼忘れもしない、昭和47年に市ヶ谷の私学会館で武藤光朗の講演を聞いたことがある。武藤は「運命の氾濫」を制御する牆壁の必要性を訴えていた。それはマキアヴェリの『君主論』に出てくる言葉であり、武藤は『限界状況としての日本』のなかで紹介している。「諸種の防備を施し、堤防を築き、もって再び氾濫があるとも河川は運河によって導かれ、その暴力を放恣危険に至らしめないようにする。運命についても亦これと同じく、防御力薄弱なところにその暴力をあらわし、牆壁も防御力もないところにその暴力をむける」▼「運命の氾濫」を制御するには、武藤が述べていたように、日本人が内なる祖国を再建しなくてはならないのである。マスコミの情報に踊らされることなく、一日も早く正気を取り戻すためにも。

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「悪しき者に力をもて抵抗(てむか)え」というのは政治家の使命だ!

2017年04月10日 | 思想家

世界中が朝鮮半島を注視している。いつ戦争になってもおかしくはないからだ。昨日あたりから、ようやく日本でも大きく報道されるようになった。北朝鮮が日本に対して核弾道ミサイルを撃ち込んだ場合、どのような被害が出るかの予想も報じられるようになってきた。それだけ事態は深刻になってきているのだ▼戦後の日本は、日本国憲法の前文で「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べているように、自分が侵略者にならなければ、世界は平和であり続けると思い込まされてきた。しかし、現実はまったく違っていたのである▼マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』(脇圭平訳)において「政治において決定的な手段は暴力である」と言い切っている。宗教家は暴力の行使を否定するが、政治家は国民の生命と安全を守るためには、それをためらってはならないのである。「悪しき者には力をもて抵抗(てむか)え、しからずんば汝は悪の支配の責めを負うにいたらん、という命題が妥当するからである」との言葉を、政治家は常に銘記しなくてはならないのである▼むざむざと日本人が殺されるようなことがあってはならない。超法規的なことも含めて検討されるべきであり、日本は断固たる処置を取るべきだろう。もはや私たちはお花畑ではいられないのである。

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