戦後民主主義にこだわるのは得をしたからではないか。公のレベルではなく、あくまでも個人的な問題なのである。左翼でも右翼でもなく、無害な一市民であった江藤淳の父は、敗戦によって全てを失わなければならなかった。その子供であった江藤も、金がなければできないと思われた音楽を断念したのであり、長期にわたる結核との闘いを強いられたのである▼江藤は『戦後と私』において「物質的幸福がすべてとされる時代に次第に物質的に窮乏して行くのは厭なものである。戦後の日本を現実に支配している思想は『平和』でもなければ『民主主義』でもない。それは『物質的幸福の追求』である」と書いている。だからこそ、「この原則に照らして得をしたものが『戦後思想』を謳歌し、損をしたものがそれを嫌悪するのはあまりにも自然であろう」と結論付けたのである。朝日新聞やNHK、さらには岩波書店が戦後民主主義に固執するのは、恩恵に浴してきたからなのである▼江藤は失われたイメージと衰弱した国家と重ね合わせた。失われた公を復権するためにも、日本人の言葉を取り戻すことを目指したのだ。昭和36年の東京オリンピックの入場行進を見て、多くの日本国民が涙したのは、日の丸の旗が掲げられていたからだ。戦後という言葉を終わらせるのが令和でなくてはならない。そのためにも既得権益にすがりつくマスコミには、退場してもらうしかないのである。
応援のクリックをお願いいたします
「第一次朝鮮総督府統計要覧」の“義兵”との「交戦回数・交戦義兵数」まで引用して、激烈な抗日義兵運動があったという。
1895年、乙未義兵。1905年、乙巳義兵。1907年丁未義兵と3期に分類している。
乙巳義兵で平民義兵将が率いる部隊は、「山岳地帯を根拠地として小規模な部隊形態で遊撃戦を繰り広げ、日本軍と激しく戦った。特に平民義兵将、シン・ドクソクは太白山脈一帯で日本軍に立ち向かい、多くの戦果を上げた。」
丁未義兵では、解散させられた大韓帝国軍の「軍人が義兵に合流したことで義兵の組織や威力がいっそう強化され、(中略)丁未義兵は規模や性格面から抗日義兵戦争に発展していった。」と韓国・教科書は記述する。
平民義兵将のシン・ドクソクは、「義兵1,000人余りを率い、あちこちで戦い、太白山の虎と呼ばれた」のくだりは、まるで洪吉童(ホン・ギルトン)である。
それは、抑圧され収奪され差別された庶民が好む“お話”である。
「父の愛妾に命を狙われ、家を出た洪吉童(ホン・ギルトン)は、道術を使う不思議な老人に弟子入りして、風を起こし雲を呼ぶ、神出鬼没の遁甲術を身に着け、その力で金剛山の山賊を従えて活貧党の首領となる。人心を惑わす僧侶、不正をはたらく役人や庶民を苦しめる貴族を懲らしめ、奪った金品を貧しい人々に分け与える。庶民から義賊と賞賛される洪吉童を政府は逮捕しようと躍起になるが、分身を作って八道各地で同時に襲撃を繰返すため、どうしても捕まえることが出来ない」(Wiki)義賊の“お話”である。
つまり、洪吉童(ホン・ギルトン)やイム・コッチョンといった庶民が好む義賊の“お話”にイメージを重ね膨らませて、“抗日義兵戦争”ファンタジーを作っているのである。
なお、ホン・ギルトンは、やがて部下とともに新天地を求めて海を渡り、ユルド国にたどり着き、その地の王族を征服して、やがて身分差別のない理想郷を作り上げたことになっているが、義兵将シン・ドクソクは部下の家に泊まったとき、その兄弟に殺された(注:ホン・ギルトンも他国の王族を征服したらしい。後世、謝罪と賠償をした?)。