土井慈功氏
土井慈功氏は建設省在勤中に躰道の「命の法形」を修練しておりました。勇退後は住職となり仏門に入っております。躰道壮年倶楽部においても講演を担当してくれました。躰道と祝嶺正献最高師範について寄稿して頂きましたので公表します。(3回シリーズ)
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土井慈功「躰道はベンチャースポーツだった」(1)
1 私の運動の履歴
私は今年傘寿80才になり運動することがだんだん困難になっている。誰でも運動は遊びから始まる。私の運動の履歴は遊び、柔道、躰道、ジョッキングであった。遊びは誰の指導を受けることなく自然に遊び憶え好き勝手な行動となり悪戯すぎると大人から叱られ遊び仲間を作っていた。遊びは子供の自己啓発の行動であった。最近では子供達が屋外で遊んでいる姿が見られなくなった。時々、公園の砂場で幼児が遊んでいる。その行動は単純であって、それが結構楽しんでいる。戦後食糧難、荒廃した時代に育っていた我々と違い遊具も多種多量となり室内ゲームに囚われて友達をつくる機会も少なくなっている。そして運動の塾も出来て金がないと遊びもままならぬ時代になり、遊びの本質を体験できなくなっている。
昭和32年に大学に入学して柔道部に入る。毎日、汗をかき若いエネルギーを発散していた。強くなるためには体重70㎏を80kgにしようと努力をしたが、食料事情も悪く寮生活でありたくさん食べることが出来なかった。80才になり80kgになってしまい肥りすぎなので減量しようと思っても出来ない。人生思うようにならないのがこの世なのだ。当時、筑波大に全日本の選手・猪熊功がいた。母校には坂口正晃4段がいて指導を受けていた。彼らと私の格が違い凄い人がいるものと唖然としていた。60年安保の時代であり世の中騒然としていた。私は安保の意義を知らぬままに先輩に扇動されデモに参加。官憲に追いまわされ散々な目にあい省線で帰寮した若さの至りであった。昭和36年に建設省に入省して転々と転勤して昭和47年に沖縄総合事務局に2年間在職、沖縄は長い間薩摩藩の圧制を受け終戦後には米軍に統制されていた。沖縄人は多大な戦禍を受けてさらに扚引されている状況であった。沖縄で生まれた祝嶺先生の心情はいかばかりの苦痛であったのか。昭和45年に沖縄は復帰して解放されたが基地問題を抱えて今日に至っている。昭和49年に本省監察官室に転勤して躰道を習うことになった。指導者は中村、葛西さんで勢命の法形を教えられた。屋上での練習なので雨の日は省内の階段を登降、指導者が不在のときは皇居の周囲をジョギングしていた。躰道が構築された意味、法形が精神の開放を具現しようとする形など理解することなく修練をしていた。祝嶺先生から2~3回指導を受けた。躰道の深淵なる精神の根源を少しでも理解していたなら先生に種々質問できたのであろう。40年後の今日になってつくづく残念な気持である。
柔道、躰道の時代に良き指導者にめぐまれていたのでどうにか修練を続けられたが、良き師に会うことが人生の大きな要であった。その後ジョギングだけは続けていた。日光砂防事務所に転勤してジョギングをしていた、長野県善光寺石塚慈侊貫主になった師から指導を受け、日光には大千度の行道があるのでそこを走ることになった。二荒山神社、東照宮、輪王寺の周囲3kmの行道を走った。その事もあり平成10年に善光寺で石塚慈侊貫主のもとで得度して坊主になった。64才になりネパールの標高2000mのツキチエ村で数か所の寺院を参拝する山行をおこなう。急崚で土砂道なので走ることが出来ないのでゆっくりと歩くことにした。帰国してからジョギングしていたら老女からどちらへ散歩ですかと言われて愕然とした。その後、寺内の掃除、室内で柔軟体操と座ったり立ったりして礼拝する五体投地を行っている。この礼拝が出来なくなったら人生の終止符となる。生命の灯が消える。勢命の法形とは生命の灯なのだと気ずいている。(続く)
(7月21日記)