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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(236) 甲越 川中島血戦 63

2024年10月28日 20時17分14秒 | 甲越軍記
 木曽左馬頭源義昌は清和天皇八代の後胤、帯刀先生義賢の嫡子、朝日将軍伊予守義仲の末流にして、数代木曽を領して、御嶽の城に住む
その地は山から山に続き、険峻な谷から老松が重なり繁る深き山中を越え、木こりでも無ければ人の通う道なし
大軍が通る道など無理な険地なり、更に剛勇の士が立てこもり武田の武威など恐れもしない。

時に天文二十四年八月二十ニ日、武田の先備えは甘利、馬場、内藤、原隼人佐、春日
福島口には武田左馬助、飫冨兵部少輔、同三郎兵衛、長坂、栗原、市川、真田源太左衛門、同吉兵衛に入道一徳斎

信玄は日向大和守、諸角豊後守、穴山。原加賀守を従えて後陣を行く
先陣はいよいよ木曽山中に足を踏み入れる、されども道らしき道はなく、獣道を行けば断崖絶壁に阻まれ、少しも進むこと叶わず
軍議をするが、良い案も浮かばず堂々巡りを繰り返すばかりで疲れ果てた

その時、原隼人が進み出て、「その昔、源平合戦に於いて、源義経は一の谷の裏手を行くとき案内人を求めた
平山武者所季重が進んで言うには、君は日本武尊、田村将軍に劣らざる大将ゆえ、ここに至って地の利に屈するなど浅ましく思え
良将とは、まず勝ってのちにこそ戦う者である、この季重、地利を存じ候と言って真っ先に鵯越(ひよどりごえ)に乗り込んだ
この木曽山は鵯越の十倍も険阻にして行く道も無く、やすやすと大軍を押し出す道に非ず
されども、某はこの道に熟知精通しております、わが尻に従いたまえ」と真っ先に馬を歩ませた
将士は言われるがままに後をついていくと、隼人の言葉に違わず総軍難なく小木曽溝口の難所を打ち越えて、御嶽城近くに進み出た

なぜ原隼人が閣なる術を身につけたのか、みなみないぶかしがる
これは隼人佐の父、加賀守昌俊は甲州白畑の住人で、武田家譜代の士大将であった
信虎、信玄二代に仕えた武功名誉の士である、
加賀守の元に一人の山伏が訪れて、宿を乞い一年ここに借り宿をした
加賀守はその間、山伏から諸国の風俗、あるいは武道の雑談をすると、彼の山伏の問答、兵道孫呉の奥秘に通じ、奇正得失を論ずること水が流れるがごとく
なおも城取の秘伝を伝え、且つ山中に於いて道に迷いたる時、その是非をわきまえて山を隔てていずこの地理を知ることを相伝した
そして暇をとり、いずこかにまた旅立って行った

昌俊は不思議に思い、家人をやって探させたがいずこへとも消え去ったのか、ついに知れず
「ちきりの矩」とは城取の極意、その矩に精通する者は少なし、しかれどもその詳しき伝を得ざるがゆえに「ちきり」の形をもって家の馬印とした
一本は黒字に白き「ちきり」、一本は黒字に白き「ちきり」をつけて大小の纏とする
隼人佐は父から伝授された山中の地利を知りて、今日険阻の切所をやすやすと越えたのであった。





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