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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(221) 甲越 川中島血戦 48

2024年10月07日 19時09分25秒 | 甲越軍記
三略に曰く 戦を仕掛けるには まずは 敵の情を察して、 その蔵を見て米の蓄えを知り、それによって敵の強弱を占う
 武田信玄は小笠原を攻め滅ぼさんと、 天文 20年 3月より5月まで 信濃の国に 入って 田畑を荒らし、麦を踏み荒らし 出てきた敵との戦いを望んだが 敵は出てくることがないので 兵を引き、同年8月にまた 諏訪に出向いて 兵を 敵地に分けて今度は 秋の収穫を踏みにじり 民家には放火して あるいは 乱暴させて 敵の地を荒らし 敵の兵糧を減らした

 伊那の方へは 弟の信繁を大将として攻めさせ木曽の方へは 武田兵庫之助信実を大将として、 縄無理ノ介、五味与三兵衛を 差し向けた
 伊那、木曽、 松本 の三方に軍を分けて進めた
 馬場民部少輔景政、甘利左衛門尉の両将は 松本へ 向かい、 小笠原長時の深志城まで 乱入せんと 桔梗ヶ原(現、塩尻市街地の西)へ 打って出た、 そして周辺の 村落を 焼き払えば 小笠原方よりも 軍勢を出し、馬場、甘利と数度 戦ったが いずれも討ち負かされた
 武田勢は深志城に攻め寄せようとした、深志城下の人々は 皆 大騒動となって 山林に隠れ、 近々武田信玄が攻めてくると言って 小笠原長時を罵れば 長時は 大いに驚いて、 味方は 合戦の度に負ける、 その上 信玄が 大軍を率いて 攻めてくれば防戦もできないと 越後の長尾景虎に急ぎ加勢を頼んだ

 景虎も小笠原が 滅びれば 信州へ 兵を出すのも 難しくなると、 翌年天文 21年 3月2日 春日山を出発した 同月 8日 信州 時田につき、この辺りの 民家を放火し 乱暴、狼藉すること 多し
 かねて 武田家より 景虎の 動きを 調べていたが 間者から 景虎の出陣を聞くや否や これをすておくべき敵ではあらず 景虎の謀略を砕かんと諸軍に触れを出すと 早くも僅かな近臣を率いただけで一騎掛け出馬した

 長沢通り 野沢のあたりまで駆けている時、 景虎が小室の抑えを引き取ったことを間者から聞き 急ぎ 8日の子の刻に 時田に着陣したが 武田の各軍団は 次々と追いつき 大軍となった この時、長尾方は長尾越前守政景 三千余人 桃井 高松 大崎 平賀 唐崎の勢を 左右に立て 雁行の陣形で 地蔵峠を越える時、大将 景虎は武田勢が時田に 着陣することを聞き、 信玄の迅速なる指揮軍略褒め さすがに信玄は素早き名将なり 我が敵として不足なしと言った
 されども この地で 戦うことは 味方の不利速やかに 軍勢を引き上げるべしと その夜 、政景に使いを出し武田勢 早くも時田まで到着した、その方は 長尾越前勢一手にて敵と一戦して急ぎ引き取りすべしと 言い送った。

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