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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 122 混乱する朝鮮

2023年01月12日 19時31分57秒 | 貧乏太閤記
 天正20年4月真っ先に釜山に到着した小西らの第一軍は、壹岐、対馬を経て釜山(プサン)に着き、700艘もの船団を海上で待たせて朝鮮との交渉に入った
「今、心を改めて我らを唐国まで案内するなら、朝鮮は無事であるだろう」と釜山鎮(以後、城と書く)の鎮守大将に書状を送った
「これはどうすれば良いのか」青天の霹靂、釜山の鎮守大将は困惑した
釜山城の朝鮮軍には中央(漢城)から何の指示も来ていないし、日本軍の侵略などもともと机上でも論じられていなかった、この地方の鎮守大将には何も決定できなかった
「船団を見た時は、いつもの倭国の船団かと思ったが、まさか軍船であったとは、倭軍に従っても、倭軍と戦をしてもどちらも中央から罰を受ける可能性がある、これは困った」大将は家来に愚痴を言ったがどうしようもない
日本との貿易港である釜山の鎮守兵は、日本人慣れしているからいまだ緊張感が無い
大将はこの期に及んで漢城に伺いの兵を走らせた、途中には大河がいくつかある、スムーズに行っても往復4日はかかるだろう。 日本軍はそれほど悠長ではない
「もはや猶予はいらぬ、直ちに釜山城を落して、我らの恐ろしさを見せつけてやろうぞ」小西は采配を振った、2万の軍勢は続々と接岸上陸を開始した
ついに日本軍と朝鮮軍の国際戦争が始まったのだった
日本では「文禄の役(ぶんろくのえき)」、朝鮮では「壬申倭乱(イムシンウェラン)」と言う。
第一軍は釜山城を取り巻くと、城方は弓矢と投石を日本軍に浴びせてきた
一方、日本軍は盾を先頭に城に近づくと、弓矢と鉄砲を一斉に撃ちかけた
そして日本軍は驚いた、朝鮮軍には鉄砲が無かったのだ
鉄砲の一斉射撃に、朝鮮兵は驚き次々に打ち倒された、もはや城を守るなど不可能であった、城門は打ち破られ、日本兵はどっと城内に攻め込み、次々と朝鮮兵の首を斬り落とした、鎮守大将、副将もすべて討ち取られて、僅か2時間ほどで戦闘は終わった、城内にいた非戦闘員男女も大勢殺された、500名ほどを捕虜にした。

同時に釜山にある支城も一日で攻め落とした、釜山から朝鮮軍は消えた。
行長は釜山の占領を名護屋に伝えるべく使者を送った
使者が名護屋に着いたのは4月20日であった、この頃ようやく秀吉が九州小倉に入った、名護屋は目の前であるからすぐに小西の文が秀吉に届いた
「12日に釜山に上陸して釜山城を囲み、敵の将軍に降参して道案内せよと申したところ『われらではなんとも返事のしようがないから都に問い合わせるので、返事が来るまで待ってほしい』などというので、いつになると聞いたところ10日はかかるとのこと、もともと我らが何度も問いかけたのに、このありさまは、時間稼ぎの計略と見て攻撃を始めました、驚いたことに朝鮮軍には鉄砲はほとんどなく、その活用方法も知らぬようなありさまで、鉄砲を撃ちかけると一日で落城、敵の主将、副将の将軍たちはことごとく首を斬り、兵士やら平民やら知りませぬが城内の者、ことごとく討ち殺しわれらに手向かうことの無駄を後方の者共に知らせるため、数百を放ちました、また城内の女子供を500ほど捕えましたので対馬に送りました、そんなわけで、我らは後続が来る前に敵を追って進軍を続けますので、直ちに第二軍以下の上陸を急ぐよう願います」

 小西たちは次の敵に向かって軍議の決定通り洛東江(らくとうこう=ラクトングァン)に沿った「中道」を進軍した。
たちまち朝鮮人の間で「日本人は首を狩る、恐ろしい野蛮人だ、歯向かう者は一人残らず殺すそうだ」逃げ延びた朝鮮兵は敗走しながら同胞に言いふらしたので、朝鮮の民衆も怯えて、とるものも取らず裸同然で漢城がある北へ逃げ始めた。
「なんとも手応えのない敵よのう、こんな調子であれば数日で漢城も陥落させることが出来そうだ」小西と宗は顔を見合わせて笑った。
まったく油断していた朝鮮軍は、わずかな城の警備兵が籠城したが、鉄砲をどんどん打ち込んでくる日本軍相手ではとても守り切れない
「某(それがし)は長い間、朝鮮と交易をしてきて漢城をはじめ、慶州、尚州、忠州、水原などにも行ったことがある、漢城では朝鮮の宰相とも話したことがありましたが、朝鮮と言う国は、我が国と違い200年も戦をしておりませぬ
200年の平和のぬるま湯に浸かっていた両班政治家は、己の私腹を肥やすことと、権力を得ることばかりに日々を費やしていたのです
万一のときには明国が守ってくれるから大丈夫と安心していた、まさか日本が無謀にも攻め込んでくることなどありえないと、たかをくくっていたのでしょう、平和ボケにもほどがあります」

朝鮮の学者や政治家の中にも10年ほど前に少数ではあるが、「外国の侵略に備えて新たに15万くらいの軍隊を配備して日頃から訓練せよ」と危機感をつのらせて声をあげる者もいたのだが、うやむやの内に声はかき消されたのだった。

 第二陣の加藤清正軍も17日に釜山に上陸して、小西軍とは別の日本海沿岸に近い「東道」を進撃した。
「小西め! 侮っておったが案外やるものじゃ、少しは見直してやるか
だが我らを待たずに先駆けとは、やはり許せぬ、我らは東街道を上ることにする、既に第一軍は敵中に入り込んだ、我らも急がねば漢城一番乗りを小西に奪われてしまう、急げ!」

 その頃には小西軍は釜山から50km北の密陽を攻撃中であった、そしてここも日にちをかけずに落してしまった。
朝鮮の城と言っても、日本の城に比べると堀も浅く、堀すら無い城も多い、わずかな材木や石や草木を堀に投げ込めば足場ができる、だから直ちに城門に取りつくことができたのであった。
加藤軍も負けじと釜山から20kmほどの梁山(ヤンサン)を攻め落とし、その勢いで朝鮮の水軍基地、蔚山(ウルサン)へ兵を進めた

 「釜山に倭寇が上陸したそうじゃ、今までとははるかに違う人数だということだ、こっちに向かっている」
「まさか、そのようなことがあるものか、たいがいは海沿いの村を襲えば帰っていくではないか」
「だが鎮台や水師衛の様子はただ事でないぞ、兵たちも慌てているし逃げ支度をしているともいう」
市民が噂しているように、日本軍が隣町までやって来たという声と同時に避難民たちが逃げてくると、兵士も武器を投げ捨てて城から脱走する者が後を絶たない。
それは蔚山の慶尚道右水使(水軍司令官)元均(ウォンギュン)将軍や左水使朴将軍までもが「日本軍迫る」に驚いて
「敵は20万もの大軍で押し寄せたという、釜山城は皆殺しにあったという、とても戦にならぬ、ここの100艘もの船を奪われたら敵を利することになる、我らが乗る船を除きすべて焼き払え、我らは南海に撤退だ」と言って湊の船をことごとく焼いて撤退した。

 加藤らの第二軍は蔚山に入城したが敵なしとみると、慶尚北道(けいしょうほくどう=キョンサンプクド)の拠点、慶州を次の目標とした、かっての新羅の首都である。
そんなおり、この町の両班(ヤンバン=貴族、武官、官僚など)や上官に置き去りにされた朝鮮人兵士が加藤の陣所にやってくるようになった
「我々は倭人に降伏して慶州への道案内をいたします」などという、このような者たちを取り調べてみると、かっては漢城に居た両班の子孫であることがわかった
彼らの親や祖父の時に、都での政争に敗れて慶尚道に流されたのだという
この地の教養人の多くは、そういった者が多いのだという
だから都への忠誠心などなく、むしろ恨みを抱いていることの方が多いという
また住民にしても食料や宿所を提供する者もいる、これらは逃げもせずいたのだから最初から日本軍に協力して生き延びようとする考えだったのだろうか








 






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