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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 130  大政所の死

2023年01月20日 17時29分26秒 | 貧乏太閤記

 名護屋では朝鮮の戦のリアルさを感じることはない、秀吉は朝鮮からの連絡が入らない限り、退屈な毎日である
それでも愛妾の淀殿、京極殿が相次いで名護屋に到着したので、名護屋城の二の丸に御殿を建てて、それぞれに住まわせ、あししげく通った.
戦場にいるわけでもなく、連絡を待つだけで緊張感が無い
秀吉にとって、小田原攻め以上に退屈な戦である、それで二人の愛妾を呼んだが、それでも足りず、博多や堺の豪商を呼んで今後の海外進出を語り合ったり
お伽衆と語ったり、各会の名人芸を楽しんだりして過ごしている。

一方で朝鮮渡海の兵たちの苦しみは半端でなく、風土病に罹る者、栄養失調に陥る者、戦傷に苦しむ者、精神を患う者などが時間と共に増えてきている
更に各地で朝鮮義兵(ウィピョ)組織が作られるようになった、これはようやく国家存亡と言う事の重大さに気づいた各地の退職両班など、地域の名士や実力者、元将軍などがリーダーになって血気盛んな愛国者を募り10名20名と言う組織をつくる、それがより強力なリーダーのもとで数百、千という組織になって行った。
それらが強力な日本軍には向かわず、荷駄などを襲ったり、食糧弾薬の集積地を襲って放火する、あるいは小部隊を襲うなどのゲリラ活動で日本軍を悩ませた。
その中でも、慶尚道宣寧で起こった郭再祐(カク.チェユ)全羅道の両班学者だった高敬命(コ.ギョンミョン)が千数百の大きな組織を作って、やがて朝鮮正規軍とも合流して日本軍を悩ませることになる。
そんな朝鮮渡海軍の苦労は、内地の秀吉や、待機大名らにはわからない
日本軍は順調に勝ち進んでいると思っている
それに天が怒ったのかどうか、秀吉に不幸が訪れる
「大政所様、ご危篤」との手紙が秀吉の元に届いたのは7月下旬であった
秀吉は、はやる心を心を抑えて、前田利家と徳川家康を呼ぶと
「大政所様の病が少しばかり重うなったので顔を見たいという文が届いた
しばし大坂へ戻るので、ここの指揮をお二人にお願いしたいのじゃ」
そう言って、翌朝早く秀吉は大坂へ向かった
 秀吉が大坂に着いたのは7月末であったが、既に大政所は京の聚楽第で亡くなっていた
秀吉は周りをはばからず転げまわって泣き叫んだという
六月に届いた「なか」からの手紙が最後の言葉であった
「儂は母の言葉に腹を立て破り捨ててしもうた、これは天罰であった
わしが若いころ修行した寺の和尚ははなむけに「全てのことは『因果応報』であると言われた、まさにその通りだ、母も『いくさをやめろ、人殺しをやめろ』と言った『澄んだ気持ちで阿弥陀様に会いたい』と言った、母の願いは聴かずばなるまい、戦はやめじゃ、やめるのじゃ」
日本中の大名が肥前に集結していたため、大政所の葬儀には京、大坂の各大名の代官が参列した、朝廷からは右大臣、左大臣らが参列して秀吉にお悔みを述べた。
初七日が済むと禁裏から声がかかった、正親町上皇が会いたいという
何かと思いながら秀吉が上皇御座所に伺うと、それは秀吉の決断を後押しするような内容であった
「そなたが朝鮮へ渡るという話を聞いたが、それはならぬぞ」
「・・・」
「朝鮮の戦をこれ以上、おおきゅうしてはならぬ、わが民も朝鮮の民もみな難儀する、太閤がこの国に平和をもたらせてくれて下々の民までもみな喜んでおる、それなのにまた戦となれば再び民も武家も困窮するであろう、大勢の者が意味もなく死んでしまう、帝も同じ願いである、朝鮮どころか九州に戻ることも見合わせてほしい、もう戦は誰も欲しておらぬ、民が希望を持って働ける国を太閤には作ってほしい」
「ははぁ、わたしも母の死に遭い、今は朝鮮の戦を平和に治めるよう命じたところです、九州は全国の大名が全て集まっておりますから、どうしても私が行って処置をする必要がありますからご容赦願いますが、朝鮮へ渡ることは中止します」 「おお。それは良い、たのむぞよ太閤」

 名護屋に戻った秀吉は朝鮮の石田三成に命令を出した
「軍勢が整い次第義州から唐入りを命じたが、それを停止する。
平壌、漢城の諸侯は守備に専念して防御のみにせよ、威鏡道の軍勢は江原道に下がり、江原道の毛利らは慶尚道に下がる
漢城の兵も半数は南下させて極力、明や朝鮮との戦は避けるように
小西、宗、石田は明と停戦交渉を行うこと、朝鮮は明の属国であるから、交渉の必要はない」
 同じころ明国の北京紫禁城(しきんじょう)でも日本軍との停戦が話し合われていた
「覚悟はしていたが、倭人は何百年も戦を続けていた者どもで予想以上に手強いと言う、遼東城の祖将軍からの報告では、とても朝鮮軍で手におえる相手ではないようだ(これは祖将軍の敗戦の言い訳で、敗戦を朝鮮軍のせいにしたらしい)わが軍も大軍をもってあたる必要がある、倭軍の鉄砲は全ての兵が持つているほど多く、弾薬も有り余るほど準備しているそうだ
我が国はしばらく戦争を考えていなかったため兵を集めるにも、訓練するにも時間が必要だ、なんとかして二か月か三か月、時を稼ぐことができないであろうか」明の朝議ではそのような話し合いがなされていた
すると武人高官の一人が「わが部下に倭国に通ずる元貿易商人であった策士がおります、倭国の高官とも知り合いで、かの国の言葉にも通じております、これに箔がつく位階を与えて交渉させればいかがと思います、目的は我らの軍備の時間稼ぎでありますから、口さえうまければ面倒な条約も必要が無いのでいかがでありましょうか」
大臣が「皇帝陛下、いかがでありましょうか」と聞くと
「よいであろう、あくまでも時間稼ぎである、軍は2か月後には30万の強兵を朝鮮に送れるように今から準備せよ」
明の軍事行動が開始された、そして沈惟敬(しん.いけい)という男に相応の官職を与え平壌の小西のもとに送った、
この男の前歴は怪しいという、だが胆が据わった男で、頭も切れるし、無頼の親分でもあったという噂もあり怖いもの知らずであるという
だが、そのような前歴はひた隠しにしていて、推薦した上司もそれを知らない

 秀吉が大政所の葬儀を終えて名護屋に戻ったのは、8月後半であった
その間にも朝鮮の情勢はどんどん変わっている、平壌で小西軍が明.朝連合軍を破ってから北部での戦はしばし途絶えて平和が戻った。
石田三成に秀吉からの進軍停止命令が届いたのは8月20日過ぎ、その頃は加藤清正が威鏡道から平安道に数個小隊を伺わせて、隙あらば義州を攻撃して王族を捕らえようと準備をしていたのである。
このことが小西と加藤の不仲が発展して、加藤清正の国内召喚騒動に発展する

 8月下旬から平壌の役所で、小西と明使の沈との和平会談が通訳を介して始まった
日本も明も互いに今は戦をやめておきたい理由がある、それは互いに隠しながらの会談のはずであった
しかし「日本軍が朝鮮の慶尚道を除く七道を返還するならば、わが明国は日本の要求を受け入れても良い」と沈が大胆に切り出した
小西は驚いた「日本の要求とは、明国が日本の帝に従うということであるぞ、承知しているのか?」
「小西殿、腹を割って話しましょう。 倭王(秀吉)はいったい朝鮮と我が国をどうしたいのか、なんのために戦争を仕掛けてきたのか」
行長は沈に言われて気づいた、秀吉は家臣に対して明確に戦後処理を語ったことが無い、三成は聞いているだろう、だが彼は今、釜山に戻って日本との連絡を行っている、三成が戻れば秀吉の考えがわかるだろう




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