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邪馬台国論争

2014-03-04 15:59:58 | 日本語・古事記・歴史・日本人

我が国日本の正史には出てこないが、それでもあったとされ日本人を惹きつけずには置かない『邪馬台国』に関する積年の論争・・・・・・九州説と畿内説・・・・・・ここに欠落している問題が見えてきました。

 

随想古事記で自説をご紹介しましたとおり、我が日本列島は1万年以上も前からカタカムナのワタツ人の住む世界でした。そこに同族(蛇)の大陸に住み着いて鳥族となった殷人が落ちてきます。つまりそれが天孫降臨であって、山幸彦の伝説の通り竜宮の王女・豊玉姫と結婚されワタツ人の王である竜宮の王から統治権と言語を引き継がれたことも書き述べました。この落人鳥族のことを大陸の勝者が卑下して猪族と呼び邪馬族と呼んだことも川崎真治先生の説として発表済です。(随想古事記・海幸山幸

殷の滅亡が紀元前1300年頃と推定されていますが、由緒正しい(?)殷の落人が半島を経由して我らが『うから』ワタツ人の国にたどり着いたのは、多分紀元前1000年前後・今から約3000年くらい前のことかと思います。この山幸彦の国が、何を隠そう、大和の国つまるところの『邪馬台国』なのだというのが私の説なのです。そうしてみると、邪馬台国がどこにあったかという問題は自ずと明らかになってくると思います。

殷の落人は初めから我が国を目指してきたのではないと思います。天照大神の御神勅のように『我が皇孫の王たるべき国なり』という状況ではなかった(これについては、随想古事記の中で自説を展開しました)と思います。殷の国境から少しずつ離れて朝鮮半島を領有する時代があったかもしれないし、また周が追われ秦が追われてさらに追われたのかもしれません。そして東海の国の元同族ワタツ人に受け入れられたのだと思います。そこは確かに九州だったと思います。その後は神武東征の物語があるように畿内を中心に据えられました。そしてそこは『登美』の長髄彦がいる国『トミ・・・・・つまり鳥見(同じ殷人の国)』でした。神武東征の前から邪馬族がいたことになります。

 

邪馬台国はあちこち分族がいて、古墳時代が終わって現在でいう大和朝廷が始まる頃(魏志倭人伝・宋書に登場する頃)には、九州から畿内まで邪馬台国だったのではないかと思います。そして大和朝廷を建てた大和王統はワタツ王から王権を移譲された山幸彦王族だったのだと思います。それで・つまり、今日の問題の結論を言うと・・・・・・我が国の邪馬台国論争には、

             時空が抜け落ちている!!!!!

 

これでは如何に発掘して遺跡を発見しても混迷が増すばかりではないかと思います。我が日本はかなり広大に長期間、ワタツ人と邪馬人との大和の国だったのですから。川崎先生がおっしゃるとおり、それを卑称して大陸の史書で邪馬台国と記述したのだと思います。(追記:そしてついでに繰り返しますが、それがジャパンの語源でもあり、巡り巡って聖徳太子が『日本』という字を採用される根拠でもあるのだと思います。また台湾と高砂族、インドネシアのジャワもつながっていると思います。)

 

それでは今日も:

        私たちは横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

 

 


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