私達は日常何も思わずに言葉を使って暮らしていますが、そもそも『言葉』って何だとお思いですか。どうして相手の言った言葉を、そういう意味として私が受け取っているのか・・・・・・不思議に思われたことはありませんか。そして言葉というものがそのまま意味だということに、感動されたことはありませんか。
『言葉』って何なのでしょう。『意味』とは何なのでしょう。私達にとってあまりにも日常的なものになってしまっているので、『言葉』というものについても『意味』ということについてもあまり考えたことがありません。でもいみじくも言ってしまったように、言葉は『もの』であり、意味は『こと』です。或いはまた、言葉は『力』(を音に移して組み合わせたもの)であり、意味はそれによって引き起こされた『結果』というか、これまで何度も記事にした『マンダラ』というか・・・・・・。力が条件によって様々な結果として現れることは、私達もよく知っていますよね。例えば言葉は音の組み合わせとして発せられていますが、発声の条件(口の形など)を変えると様々な音(意味)として聞こえてくるし、同じ音でも、例えば救急車とすれ違うと、急に間延びした音になったりする・・・・・
だから言葉というものは、自分が感覚している力を音に移して外部に発し、その音の影響を受け取った人が同じ力の感覚として受け取っているもの、ということになります。そしてその意味とは、その言葉で受けた影響、つまり結果ということになります。
そして思い起こされるのが、わが日本の『言霊』思想と西洋の思想の根底にある『初めに言葉ありき(In principio erat Verbum.)』・・・・・・この二つはどちらも能動的なものです。力があって結果をもたらすものです。(Verbは英語の動詞をあらわす単語になっていますし、言葉を表す単語の接頭部分でもあります。)つまりはどちらも『力』の一つの形だと言っているのです。初めに言葉ありき(In principio erat Verbum.)・・・・・これは神という原存在があって、宇宙となり、その宇宙に 神の言葉として存在が現れた・・・・・というわけですよね。発現させる力と発現したものという意味を持っているわけです。
そしてとどのつまり、『力』とは何か、という最終命題に突き当たるのです。この『力』によって私達は生かされ、いやそれよりもなお以前に、その『力』によってこの世が発現したもの・・・・・『なぜ私がここにいるのか』『私は誰なのか』といった疑問・・・・・もろもろの心理学的哲学的命題・・・・・それに応えているものは、地球上を探しても『カタカムナ』以外にありません。世界中の宗教を研究してください。最終的には『信じるか否か』といったあやふやな形の回答以外ありません。それでは信じたいという希望以外に何の解決策も見い出せないのです。科学も現状分析は精密にしてくれます。力の様々なバージョンも定義してくれます。だけど音声がなぜ電気信号に変わるのかという疑問に答えてはくれません。電気信号がなぜ色彩に変わるのかということもわかりません。『力』の様態についてはこたえられても、『力』そのものが何かということについては分かりません。電気だっていったい何なのかわからないのです。科学は神様が何なのか語ってはくれません。本当は神様を明らかにするべきものなのです。
『カタカムナ』を現代に取り戻してくださった楢崎先生も宇野先生も亡くなられました。だけど、『カタカムナ』を知らなくても、この『言葉』と『意味』の機序について考え進めば自ずとわかってきます。それに私達にはお二人の先生が遺された出版物があります。そして何よりありがたいことに、『カタカムナ』は日本語なのです。『カタカムナ』が日本語となり今も生きています。私達日本人は、何とありがたいことに、『カタカムナ』の音の中に生きています。
一つ一つの音を注意深く正しく頭(あたま)の中に渦巻かせなければいけません。頭とは脳の容器であり、脳とは渦巻(波動・力)の受信機発信機なのですから。そうすれば自ずと私達の頭は『力』の発露として私達の頭(カシラ)となるはずです。この修行に終わりはありませんし、これこそが人生なのだろうと思います。そしてこの修行は楽しく喜びにあふれています。こんな記事を書いているのも、今は誰もどうでもよいことなのかもしれません。ですがいつか必ず『カタカムナ』が必要とされる時代が来る・・・・・その時誰かの記憶の隅に『カタカムナ』があれば、それから楢崎先生と宇野先生の心血をよみがえらせることが出来ると思うからです。憐れにも私には『カタカムナ』を語る能力がありません。だけど『カタカムナ』があるということを伝えたいと思います。